2020年8月2日


「「光があれ。」すると光があった」
創世記 1章 2〜5節

1.「前回」
 前回は、1章1節から、神が無から天と地を創造したということを見てきました。そのように聖書は、人間の頭や知識、常識や理性では決して信じることができないようなことからはじまっているのですが、しかし「聖書は神の言葉である」という信仰が与えられている私達にとって、聖書自体が聖書について証している箇所からそのことを見ていった時に、その信じられないそのことこそ神が私たちに伝えたい事実のメッセージであると見てきたのでした。そしてその無から有、すべての生命を創造されたという聖書が伝える事実から、全ての生物や私達の命や存在は、無から有の奇跡の存在であり、そのように神から始まって、生まれている素晴らしい存在であるということを学ぶことができました。しかしそれと同時に、それでも神から離れて堕落をして行った人類のために、神は見捨てることをせず、創造の始めにおられ全てを創造された御子イエスを通して、私達を罪による無から再び救い出し新しいいのちを与えるためにこそ、イエス・キリストを飼い葉桶の上に生まれさせ、十字架で死なせ、復活させた。そのイエスにあって、イエスは私達に日々、罪の赦しと新しいいのちを更新し、私達は新しくされ遣わされていく幸をも教えられたのでした。

2.「地は漠然として何もなく」
 さて、その創造の出来事を続けて見て行きましょう。2節にこう続いています。
「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」2節
 このところから8節までは、神が物質をどのようにアレンジしそして世界を秩序立てたのかが書かれています。このところを通して、3、4節の光と闇の区別で時間が生まれ、そして、6、7節の上の水と下の水の区別によって空間が生まれていることが書かれています。そのまず2節ですが、神が天と地を創造された時、その地は「漠然として何もない」とありますが、形がなく、何もない様を表しています。そして「やみが大水の上」とありますが、「闇が深淵の表面の上にあった」というような表現になります。その深淵も、形のない水の果てしない深さを描き出しています。これらの表現は、私達がイメージするような大地とか海とか、それの何もない状態とかよりももっと異なる、つまり私たちのイメージでは計り知れない、形のない地と形のない水の深淵があったということです。私達が思い浮かべる、海の深さとか深海とか、その真っ暗さとかも、ヨブ記の言葉に「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか」という言葉があり、その通りに、海の深淵に行くことも歩き回ることもできず、知り得なく見ることができなくても、物理的には、そこには必ず限界や形が必ずあるわけです。しかし、この2節の言葉はその「形さえない」深さなのですから、そのような人間の知り得ることのみならず、知り得なくとも推測できたりする、そういう理解を遥かに超えているということがここに表現されているのです。神はそのような状態からすべてのものを創造されるのです。このところから教えられることは何でしょうか?

A,「神は物質をもコントロールできる」
 第一に、私たち人間では計り知れない、その漠然として何もない、言い尽くせない地と、深い大水さえも、神はコントロールし、形作り秩序立て創造していく、その力を持っておられるということです。詩篇ではそのことが賛美されています。77篇16節、135篇6節
「神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。わたつみもまた、震え上がりました。」詩篇77:16
「主は望むところをことごとく行われる。天で、地で、海で、またすべての淵で」135:6
 私達人間は、その限りある知識と英知の限りを尽くして、この天地創造の言葉を説明しようとしたり、あるいは否定しようとします。確かに最もそうな証拠と呼ばれるような資料や、科学的実験や反証によって無数の解釈や学説がこの所にはあるでしょう。そのように探究心でこのところにいったい何があったのか、何が起こったのか、どういう意味なのか、答えを出したい欲求も理解できますが、そこには限界もあります。しかしそのように人には限界がありますが、人とは違いまず神が神であるからこそ、できないことはなく、その物質、そして私たちには計り知れないような、地や水の状態さえも、はるかに私たちの理解を超えてコントロールすることができ、そこから全てを形作り、秩序立て、ある存在にはいのちを与えることができるお方であり、ゆえにそれは私達ではわかり得ない。説明し尽くせない。証明も反証もできない。それが神であり、神のなさることであり、天地創造であるということです。

B,「神を神とし、人に分からないことは分からないままにする」
 ですから、ルターはそこで神を神とし、人と人とします。その信仰は私達にとっても大事です。それは、人間には知識にも理解にも限界があるという現実をそのまま認めることが大事だとします。人はいろいろ理屈をつけたい、この2節のみならず、この後の「1日」は何を意味するのかの問題や、キリストの復活や奇跡なども理に合わないなら信じられない、それが人のスタンスです。だから教会も理屈をつけたい。説明し尽くしたい。何とか理由付けしたい。そうすれば多くの人は信じるかもしれない。そういう言う風に確かに教会は思いたいかもしれません。しかしルターはこの後の「一日」の問題についてこう記しています。
「もし、私たちが、その「日にち」が何を意味しているのか分からず、なぜ神がこのような時の間隔を利用したかったのかの洞察を持たないのなら、御言葉を歪め、文脈に反して、別の意味にするよりは、私たちは自らの理解の不足を告白しましょう。?もし私たちがその箇所の理由を分からないのなら、私たちは教えてくださる聖霊の働きに委ね、私たちが教師になるのではなく、生徒のままでいましょう」と。
 これまでのルカの福音書でも使徒の働きもそうでしたし、これからの創世記でも同じなのですが、聖書は神の言葉です。そして私達はそれを科学の証明の道具や、すべての科学的課題や学問的解決の道具としては利用しませんし、聖書はそのために書かれてもいません。神が私達の思いをはるかに超えた手段、人の選択、場所、時代を選び、様々な矛盾や辻褄が合わないことも、全て書かれたことは、神がその計画において私たちのところに届けられた神のメッセージであるものが聖書です。その中には理解できないこと、論理的に説明できないこと、矛盾するように思われるところも沢山あるでしょう。様々な解釈が溢れているところ、ゆえに人間の側でいろいろ説明や理屈をつけて弁明したくなるところもあるでしょう。しかし、聖書は神の言葉であると信じ、そこにすべてのことに働いて創造し、最後には益とされる神を信じ、神を神とする信仰が与えられている者であるなら、私達は、分からないことを、私達人間の理屈や推論の下に置くべきではありません。分からないこと、説明のつかないこと、聖書には溢れています。しかしそれは分からないままにしておく。私達の理解には限界も不足もある。考えることに罪深さもある。だからこそ私達が聖書の分からないところの決定者にも教育者にもならない。御言葉の真の教師である聖霊が信仰において信じさせて下さる。それが紛れもない事実であり真理であると。ゆえに分からないままにしておく。分からないことは主に委ねる。その大切さをこのところは気付かせてくれますし、それはこれから聖書を見ていくときにとても大事な点だと言えるでしょう。

3.「神の霊が」
 さてその深い大水の上ですが、「神の霊が水を動いていた」とあります。創造の始めには、子なるキリストがおられ、キリストが天地万物を創造された、と言うことを見てきましたが、ここにあるように「聖霊」も創造の始めにおられ働いていたことがわかります。三位一体という言葉は聖書に一言もなくても、三位一体の事実はこのようにも伝えられていることがここにもわかると思います。その神の霊である聖霊がですが、

4.「光があれ」
「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」3〜5節
 このように神は、光を創造され闇と区別をされた。そして光を昼、闇を夜と名付け、そしてそこから世界の初めの夕がやってきて朝がやってきたことがわかります。そのことから、光は太陽であると思われるかもしれませんが、しかし具体的に太陽あるいは星が、昼と夜を区別し、日、年、季節を区別するように述べられているのは14節以降、第三日目のことです。ですのでこの光は、自然の太陽の光とは違い、神に闇と区別され、神が「昼」と名付けられた「光」であり、神の最初の創造的活動、つまりその言葉による創造の始め、あるいはこの後に続く創造の準備として、そこに生まれ、創造された「光」です。それが何なのかは、ここでは人間の知識や常識では計り知れませんが、先ほども言いましたように、具体的に分からないことは分からないままにしておくことが、神を神とする真の信仰において大事な聖書の見方です。さて、この第一日目から何が教えられるでしょうか?

A,「被造物は神となり得ない」
 まず、被造物は創造者である神と全く同一にはならない、つまり被造物は決して神ではないという単純な事実がここから分かるでしょう。単純とは言いましても、実は世界的には単純ではありません。なぜなら世界の多くの人が信仰を持っていますが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教のような単一信仰よりも、多くの神々がいるという多神教の宗教の方が多いですしその信仰者の方が多いかもしれません。そしてその中の多くは、物質や自然のものや人間を神とするものです。太陽が神であったり、月が神であったり、特別な石や木や、人や、日本も八百万の神信仰と言われますが、日本だけではなく世界各国でそのような自然界のものや人を神とするような宗教は沢山あります。そのような傾向は単一神の宗教であるキリスト教やユダヤ教やイスラム教でも実は例外ではありません。キリスト教でも、カトリック、プロテスタント、正教会問わず、聖人信仰や、文化的で土着的な物への信仰や迷信があったり、教会で被造物である人間が神のように崇められたり、その人間が守っているとか、人間の方がキリストより重要になったりしてしまうこともあります。それはユダヤ教やイスラム教でもあることです。
 しかし、この第一日目の記録がはっきりと示すことは、被造物は決して神ではないし、神となり得ないということです。神が闇と区別する光を創造したということであり、神がその光に「昼」と名付けたのであり、その被造物の最初の一つである光はどんなに偉大でどんなに計り知れず大きくとも、決して神ではないし、その後も今もこれからも神ではない、神とはなり得ないことがここに教えられるのではないでしょうか。私達は聖書は神の言葉であると信じる信仰が与えられたものです。その聖書がこのように最初に示しているのです。被造物はどんな優れた被造物もどこまでも神の被造物であり神ではないと。人間は自分自身も含めて目に見える優れていると主観で思えるものを神としやすい性質があり、そしてそれが罪の性質でもあり誘惑されやすい泣き所でもあるのですが、しかし被造物を中心にし神にすることは明白な間違いであり、その優れた被造物を創造した神こそが、神だけが、神であるということを、私達がこれこそ神の言葉と信じる信仰が与えられたこの聖書から教えられるのです。

B,「神はその言葉によって」
 第二に、大事なことがはっきりと書いてあります。それは神が「光よあれ」と仰せられたときに光があったということ、つまり神はその言葉によって光を創造され、昼と名付けられ、それが昼となり闇と区別されたということであり、光はその言葉の力によって生まれ、その通りに活動し始めたという事実です。神の言葉です。神は言葉によって創造し、言葉こそが万物を生じさせ躍動させた力である。神が活動しことを行い不可能を可能にし、無い物から万物を創造し、生物や人間にいのちを与え躍動させたその力の源は、神の言葉であるということです。そしてそれは今に至っても変わりません。神によって信仰を与えられたのも神の言葉によります。イエスとの出会いも、聖書を通して、そこに働く聖霊がもちろん人の口を用いてですが、しかしその人の言葉の力ではなく、聖霊が神の力ある御言葉を用いて働いてくださったからこそ、私達はイエスと出会いました。そしてイエスが私達の罪のために死んでくださったこと、その贖いによる罪の赦し、そして新しいいのちが、私達に与えられ、私達に平安が来るのもその神の言葉のゆえです。そうでないと言える信仰者はいないはずです。そうその御言葉が、もうこの始めから躍動する力でした。光を生じさせ命を生じさせる力でした。そしてその初めから変わらず、たとえ堕落があっても、その神の言葉こそが私達に救いを約束しました。そしてその通りにこの罪の世、虚しい無に等しい、滅びの世、闇の夜に、世の光、まことの光、「闇はこれに打ち勝たなかった」と呼ばれるその救いの光として、救い主イエス・キリストを送ってくださったのではありませんか。そのイエスご自身も、ルカの福音書でも使徒の働きでも見てきたように、み言葉を通してこそ、使徒達、パウロの思いをはるかに超えた神の計画、神の御心を行わせてきたことを見たでしょう。初めから終わりまで大事なのはみ言葉なのです。それは律法的にみ言葉を掲げて、律法的に「み言葉に従え」ということをメッセージで言いたいのではありません。そうではない。私達には、「この聖書は神の言葉である」いう信仰を、私達のために飼い葉桶の上に生まれ、十字架にかかって死なれたイエスによって福音を通して与えられているのです。そうなのですから、このみ言葉こそ素晴らしい救いの力、いのちの力、平安の力、喜びの力、そして希望を与える力、その溢れるばかりの新しいいのちの躍動の源であり力であると、重荷ではなく喜びと平安を持って告白せずにはいられないはずです。つまり、律法ではなく福音として。

5.「終わりに」
 みなさん、創造の始めにおられた、父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊は、三にして一つの神として、その言葉をもってこの光を創造されました。そして私達を闇から救い出す救いの光を送ってくださったのも、その神でありその言葉です。その言葉こそ、私達への日々与えられているのです。そして今日もその同じ言葉が私達に宣言します。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。安心してここから出ていきましょう。



創世記1章2〜5節
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。