2020年7月12日
1.「前回」
前回は、パウロが、ローマのユダヤ人達に対して、イエス・キリストにおいて約束され待ち望んできた神の国は実現していると伝えたことに、ローマのユダヤ人達は、ある人々は信じ、またある人々は信じようとせず、互いに論じ合うも意見が一致せずパウロのもとを去ろうとしたので、パウロがイザヤ書の預言の言葉を語ったところを見てきました。そこからまず、神の国は、決して人間の議論や話し合いによって一致した理解に至ることのできるようなものではなく、人の努力や理性や意志の力によるものでは決してないということ、そしてそれはイエスとその口から語られる福音の力によるのと言うことを教えられました。それゆえに、そのように信じる人が起こされたことも、またいま私達が信じている信仰があると言うことも、それはイエスが私たちに働き与えてくださっている神の奇跡であり賜物であると言う恵みを再確認させられました。それはパウロが引用したイザヤへの預言の言葉からも伺い知ることが出来ました。民への言葉ではありましたが、そこには、神からの言葉を聞きはしても、「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように」とあるように、人は自分の目で見、自分の耳で悟ろうとしても決して救いも癒しもわからない。悟り得ない。自らで立ち返ろうとしてもできない。そのように人の行いとしるしに神の国を見ようとする、あるいは、自分の力や行いで神の言葉や神の国をなんとかしようとする所に神の国はますます遠くなる現実を神は告げていたのでした。だからこそ自らでは悟り得ない私達一人一人を、イエスはその言葉と御霊で目と耳を開き悟らせ、癒してくださった。罪深い自分に信仰が与えられ信じることによる平安を喜ぶことができるのは、それはイエスが私達に働き救いを与えてくださっている奇跡の証しであると素晴らしい恵みを教えられたのでした。
2.「「異邦人へ」の召命」
さてそのパウロの引用した言葉はイザヤを通して民に語られました。イザヤは神に背を向けその土地が全く荒廃してしまったその民へとその言葉を伝えなければなりませんでした。それまでも民は預言者達を通して神からの悔い改めの招きの声を受けていたのですが、注意を払うことを拒んだと言うことが事実としてあったのでした。その神の言葉の通りに、神の国の福音を伝え与えるイエスが来ても拒み、またその福音を伝えるパウロが来ても拒んだユダヤ人達に重なるのです。ローマのユダヤ人達も神の国を聞きはしたのですが、多くは受け入れることが出来ず、信じた人々と議論によって理解しようとしますが一致に至らなかったため結局は悟りえませんでした。その耳は聞き、目は見はするのですが、自分達の能力や理性、知識や常識で理解しようとするために、当然、悟り得ないのです。そのような自分の何かで悟り得ないからと、福音の言葉に背を向けて出て行こうとしたのでした。しかしパウロはその彼らに対して、怒るでも呆れるでも、またさらに説得してパウロの努力で分からせようとするのではなく、むしろそのことは神がすでに知っておられ前もって告げられていたこととして、この神の言葉に全てを委ね任せるのでした。そして、28節でこう伝えるのです。
「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」28:28
A,「召命は、パウロが知るより先に」
パウロは「神のこの救いは、異邦人に送られました」と言うことによって、何を伝えているでしょうか。第一にパウロのこの言葉は、イエスがパウロに与えていた変わることのない召命に基づいてのことだと言えるでしょう。パウロのイエスから与えられている召命は実は初めから、いやそれ以前からはっきりしていました。最初はパウロ本人にではありませんでしたが、9章でした。パウロがダマスコへ迫害するために向かう途中で、イエスの方からパウロに現れ語りかけ、パウロが目を見えなくされ何もできなくなっていたまさにその時です。イエスはパウロではなく、最初は弟子の一人アナニヤへと現れてこう言っていました。
「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」9:15〜16
この言葉は深いです。まだこの言葉はパウロには伝えられていません。アナニヤがおそらく後にパウロ自身かルカに伝えたので、このことが記されているのですが、まだパウロが知る前です。しかしパウロ自身はまだ目が見えずただ怯えているしかなかったその時に、すでにイエスのパウロへの召命ははっきりとしていました。ここからもわかるのです。召命は、決して私達から出るのではない。私達が振り絞って生み出すものでもない。人から与えられたり促されたりするものでもありません。パウロがその異邦人への召命が与えられる前にイエスはすでに定めておられた。そのイエスがすでに計画し定め与えようとしていたその召命がパウロに与えられたと言うことがわかるでしょう。
B,「召命の実現もイエス」
だからこそ召命とそこから始まる教会の歩みも宣教も、決して律法でもなければ人のわざや人が成し遂げる功績でもありません。そしてその召命の真価さえも人や人が何をしたかによりません。むしろその召命はイエスによって実現されて来たと言えるでしょう。パウロはこの召命を与えられました。異邦人へ福音を宣べ伝えると言う召命です。その召命は、アンテオケの教会に与えられた召命でもあり、彼とバルナバはアンテオケの教会から正式に、ユダヤ人のみならず異邦人にも福音を伝えるために派遣されています。しかしそこまで至るためにも、人間がなそうとすることは、むしろそうならない、そんなこと実現しないと思われるようなことの連続であったでしょう。エルサレム教会では、ペテロに与えられた幻やコルネリオへと導かれたイエスの恵みを証ししても、まずペテロ自身や異邦人に洗礼を授けることへの反発がありました。ユダヤ人はもともと異邦人と交わりは持ちませんでしたし、選びや救いが異邦人にも及ぶと言う常識や価値観がなかったからです。もちろんそれでもペテロが証ししたことによって人々は理解し受け入れはしましたが、しかしそれでも後にパウロがイエスは異邦人にさえも信仰と聖霊を与えてくださったとエルサレム教会で宣教の報告をしに帰って来たときでさえも、ヤコブなどの長老はエルサレムのユダヤ人クリスチャン達のパウロへの反応を心配するほどでした。そのように初めからパウロへのその召命には、人から見れば理解者も少なく、その通りになっていくと大きな期待があったわけでもなかったことでしょう。そしてその召命の実際も、実に紆余曲折、困難の連続でした。3回にも及ぶ旅行全てがパウロ自身の期待通り、計算通りでもなければ、世から見て計画的に数的にも成功し上手くいったと呼べるものでもありませんでした。パウロはその中でもイエスから与えらえた召命に立ち返って人々に伝えています。アジアでやはりユダヤ人達はパウロとバルナバを口汚く罵りました。その時もパウロはみ言葉を引用してこう言っていました。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」13:46〜47
と。さらにコリントではユダヤ人達が暴言をパウロにはいた時に、パウロは今度は怒りに任せて言っています。
「しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。 」コリント第一18:6
パウロは確かにそのイエスから与えられた召命に歩みました。しかしパウロ自身はその召命、そのイエスの計画、御心を成し遂げるにはなんの力もありませんでした。弱さと罪深さの人でした。迫害も否定も石打ちで死にそうなることも、そして失敗も、前もって望み、計画し、計画した通り、願った通りになったと言うことでは決してなかったことでしょう。アジアでは勇んで計画して自らの意思で行こうとした道を、聖霊によって二度禁じられたと言うことも経験しています。そしてこのコリントでの挫折です。挫折とは、コリントのユダヤ人を、うまく説得できなかった、信じる人を増やせなかった、と言うことではありません。怒りと感情に任せて答え、黙ってしまい語り続けることが出来なくなったことです。彼のこれまでのその召命の歩みは、人間の推測や計画通りでは決してない。人間が期待し思い浮かべるような成功論や自己達成の記録でもない。それは弱さ、無力さ、罪深さのパウロの歩みであり、思いもしない出来事、苦難の連続でした。しかしそれは、それにも勝る思いもしない、いや思いをはるかに超えたイエスの恵みの連続であり、イエスこそが全てを成し実現してくださったと言う歩みでもあり、それこそがパウロの証しでもあったことこそを私達は見てきたでしょう。そうコリントでも、黙ってしまい語り続けることができなくなったパウロを立たせ前に進ませたのもイエスの言葉でした。
「〜「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」 18:9〜10
C,「召命は律法ではない。計り知れず大きな恵み」
そして誰もが死を覚悟した鎖に繋がれた航海の先に、イエスが約束された通りにローマ到着こそが実現してもいます。みなさん。先ほど読んだ9章のアナニヤに与えたパウロの未来の召命を伝えた言葉は深いです。パウロ自身が知るより先にイエスは全てを知っておられ、その召命をパウロが知るより先にもっていて、そして全てその言葉の通りになっている出来事こそを私達はずっと見てきたではありませんか。そしてそれはこの使徒の働きのクライマックスでもそうなります。それと同じです。イエスは私達が知るより先に、私達の全ての弱さ、罪深さを全てをご存じの上で、私達を弟子として招き、それぞれに召命を与えてくださっていると言うことです。その召命は、牧師や長老だけではありませんし教会の出来事だけではありません。ある人は夫、妻として、父、母としての召命があります。一人の会社員、それぞれの仕事に召されている召命もあります。学びの機会が与えられているそれもイエスに与えられている召命が必ずあります。それぞれが今置かれている所はイエスにとって決して無意味ではない。イエスがそこにこそ召し、そこに召命は必ずあります。しかしその置かれている状況、夫、妻として、父、母として、会社員など今置かれている職業、学生として召命があると言っても私達はいつでも上手くいくことばかりではありません。失敗の連続でもあり罪深さを気づかされる日々でもあります。困難の連続でそれが理解できないような経験となり、神どうしてと言いたくなるような状況に置かれることもあります。人の目、人の期待値、人の計画、人の価値観や常識から見るなら理解できないことばかりです。そこに「召命」と言われも自分のイメージと合致しないかもしれません。合致しないのです。パウロも他の使徒達もそうであったでしょう。パウロの宣教旅行はその召命の道のりの彼の期待や彼が思い浮かべたイメージとはなんら合致するものではなかったことでしょう。しかしそのような人間の側の「なぜ?」や「理解できない」を遥かに超えたイエスの真実と恵みの確かさこそが結局は表されてきたし、「パウロの思い、予測、イメージ」ではなく、イエスの召命こそがその通りに実現したと言うことこそが、このアナニヤに与えられた言葉から、その後のパウロの旅が、このローマにまで導かれてきた記録と、そしてパウロ自身が何が起こっても神の言葉に委ねるという、そこにあるパウロの拠り所とそこから生まれる平安と希望を教えられるのではないでしょうか。ですからパウロはここでは怒りに任せて語ってはいません。「承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました」と、新しいことを言っているのではなく、アンテオケ教会に遣わされた時からなんら変わっていない、イエスからの「召命に沿って」述べているだけだと言うことがわかるのです。そしてそれはこれからもイエスの御心がイエスによってさらになされ行くことの宣言でもあるでしょう。
3.「召命をイエスは、昔も今もこれからも」
事実、神は遥か昔からキリストによるこの約束の救いを異邦人にも向けていたでしょう。
「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。」 詩篇67:2〜3
「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」イザヤ書65章1節
そしてそれはその通りに使徒の働きの最初でイエスが弟子達に言っていたことです。
「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」1:8
「地の果てまで」と。その言葉の通り、パウロ自身が思い立ってでもない。怒りや失意に任せてでもない。イエスの召命に従って選ばれた器として、パウロの思いをはるかに超えて、ここから異邦人へとさらに遣わされていく。そのようにパウロの真実さや何かではなく、イエスの真実さ、イエスの召命の真実さと完全さがここに証しされているのです。
イエスからの召命は理解しつくせないし深く計り知れません。しかしそれは全て真実であり、時にかなって美しい、私達の思いをはるかに超えた素晴らしいことをイエスは達成しようとしています。時がよくても悪くでも、たとえ苦難と「なぜ?」の連続でも、イエスにあるその恵みの完全さと力強さこそを私達はぜひ期待したいし待ち望みたいのです。そのイエスにあって今日も平安のうちに遣わされています。安心して出て行きましょう。