2020年7月5日


「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず」
使徒の働き 28章23〜27節

1.「前回まで」
 前回、パウロが、話を聞くために集まってきたローマのユダヤ人達へ、イエス・キリストの神の国の福音を証ししたと見てきました。ローマのユダヤ人達は、アジヤやエルサレムのユダヤ人達が最初から偏見と決めつけ悪意に満ちて暴動を起こしてまでも反対してきたのに対して、まずはパウロから直接、ナザレ派と呼ばれていたキリスト者達の話を聞いてみようと冷静で理性的でした。しかし相手が誰でありどんな性格の人々であってもパウロが語ることは一貫して変わらず、当時の聖書である「モーセの律法と預言者たちの書」からイエスはキリストであり、救い主の約束はあの十字架と復活で成就しているのだということを語ったのでした。しかしローマのユダヤ人達は、ある者は信じましたがある人々は信じようとしなかったのでした。それはパウロに力がなかったからなのでしょうか?そうです、もちろんパウロには人を信じさせる力は一切ありません。23節には「説得しようとした」ともありますが、イエスから与えられた神の国の福音を人は自らで見出し信じることもできなければ、またある人がその力で説得させることもできないのです。もちろんキリスト者は「キリストの証人」でありキリストを証ししていきます。しかしそれは使徒達でさえも、約束の聖霊を受けることによって、しかも聖書からキリストを証ししていったと使徒の働きの初めからずっと一貫していたように、人に信仰を起こさせるのは、イエス・キリストの福音のみ言葉と聖霊による、奇跡であり神が与える賜物であることも使徒の働きで一貫していました。パウロには力がなかったのです。むしろ人間は、ユダヤ人であっても例外ではなく、自らの力ではまことの救い主を信じることはできないものであるのですが、しかしそのような信じない頑なな人々の中にも、御心のままにある人々には信じる信仰を生じさせてくださった、その神の働きこそをそこに認めさせられたのでした。ですから証ししても「信じない人々」もいたことはパウロにとっては驚きではありません。むしろそれが人の堕落した現実であり、そしてそれが選びの民であり、約束を与かってきたユダヤ人であったとしても、神はそのことさえも遥か昔からご存知であり告げてこられたとそのみ言葉をパウロは告げるのです。それが25節からです。

2.「理性では福音に至らない」
「こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。」25節
 パウロは、その信じる人々、信じない人々が、互いに論じ合い意見が一致しないのを見ます。キリストの福音による神の国は、論じ合って見出されるものでもなければ結論の出るものでもありませんし、人が論じ合うこと、つまり知恵を絞り、知識と互いの主張をぶつかり合わせることによって一致するものでもありません。彼らローマのユダヤ人は感情に任せて反対するのでもなければ、一方的に伝統を振りかざして脅したりするこれまでのユダヤ人達とは確かに違います。話を聞こうとし話合いで結論を出そうとするのは理性的であり、ローマ・ギリシャ文化の高度な教育と市民社会の影響はあるでしょう。しかし人間は知性が進歩し、理性的になることによって、まことの信仰や神のみ心や真理に到達しやすくなるというのは大きな間違いです。人間はより知性に富み理性的になったとしても、神の真理の前には大きな超えることのできない壁があるのです。むしろこの後の2000年の歴史において、理性や学問や論理的な考え方は発展し教育水準も上がってたきたのかもしれません。もちろん地域的な差はありますが。しかしだからと、人々は真理に到達できたとかキリストの福音を信じやすくなったというわけではありません。理性的考え方や学問はキリスト教の教育と文化の中で確かに発展してきましたが、しかし、キリストが神であることや、聖書は紛れもない神の言葉であるということや奇跡や福音にあるいのちの力を否定するとか、そのような教えやリベラル神学と呼ばれるものは、人から見ればそのような発展した理性的なキリスト教の教育と文化、教会から生まれてきているという皮肉と矛盾が現実としてあります。そしてキリスト教は、「罪人の一方的な救いの宗教」ではなく、むしろ「善人と良い行いの道徳の宗教」となってきているし、キリスト教外でもそう理解もされているでしょう。そのような道徳的な信仰を推進してきたのも、キリスト教の教育であり文化であるという矛盾もあるのです。お互いの意見、話し合い、議論、そしてそのように人間が作り上げようとする一致、それらは理性的な考えや、社会や政治のためには有効ですが、キリストの十字架と復活の言葉である福音と神の国の前にも、人の真の信仰のためにも、何の力もありません。信じさせるのはイエスでありイエスの福音です。信仰を支え、強め、育て、倒れても立たせるのも、律法でもなければ、人の側の努力や医師の力でもありません。イエスの福音です。世が与えることのできない平安や希望を与えることができるのも、話し合いや理性的な人間の努力による一致、律法では決してない。イエスでありその福音なのです、人はその堕落の性質のゆえに、むしろ信じない者、自ら信じることもできないし、信じていても、完全に信じることもできないし、疑うときも、忘れるときも、むしろそれでも背を向けていこうとするときもある。信仰についてはどこまでも無力なのです。実にパウロがここで引用するイザヤの言葉こそ、そのことを伝えてもいるのです。

3.「神が指し示す福音から生まれる信仰と派遣」
『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』26ー27
 このイザヤ書の言葉の引用をどう理解したらよいでしょうか。実際にイザヤに与えられた預言の言葉のその文脈を見ると見えてくるものであります。イザヤ書6章1節から、
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように。」イザヤ書6:1〜10

A,「ダメだというほどに罪深いことに気づかされること」
 ここにはイザヤが捕囚された罪深き民のところへ神の言葉を伝えるために派遣されることが書かれていますが、パウロにも重なりますし全ての人に重なります。しかしここでは預言者イザヤはまず、聖なる神の前にあって、自分がいかに罪に汚れたものであるのかを良く知っています。民を指してのみ「唇の汚れた民」とは彼は言っていません。「私は唇の汚れた者」ともいっています。「唇」つまり「口」と、そこから出る言葉は、心を表しており、彼は彼の行いのみならず、その口と心が聖なる神の前にいかに汚れて罪深い者であり、それは「もうダメだ」と言うほどであります。しかしその彼が8節に「遣わしてください」と言えるのは不思議です。それほどまでに自分の罪深さを知っていて、「ダメだ」と言うほどまで絶望している彼から、180度逆に、前を向いて積極的なその「遣わしてください」は違和感があるでしょう。もちろんその言葉だけを見るなら実に立派な敬虔な献身と服従の言葉ではあります。ではなぜ「遣わしてください」となっているのでしょうか。その言葉はどこから出ているでしょう。もちろんイザヤの唇からですが、そう言わせた動機はなんですか?律法的な命令ですか?彼の努力や意志の強さですか?その答えは、6、7節です。
「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」6ー7節

B,「そんな罪深いものに触れてくださり不義は取り去られたからこそ」
 みなさん、イザヤは罪深い者でした。自分でもわかっていました。その行いも唇、言葉も心も汚れている、聖なる神の前に立つことができない。もうダメだというほどに。そんな彼には「遣わしてください」は出てきません。しかし、そんな罪深い絶望的な彼に、神が、神の方から現れ、語りかけ、神の方から、み使いであるセラフィムを遣わし、神が、そのセラフィムを用いて、燃え盛る祭壇の炭の手によって触れてくださり、神が宣言してくださっています。
「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
 と。みなさん、燃え盛る祭壇の炭はそこで燃やされた贖いの生贄です。それはキリストの雛形です。ここでは、イザヤが自らその祭壇の炭に触れたからでもない、イザヤが自ら祭壇に歩み寄ったからでもない、イザヤが自ら神に、自分が一所懸命に献身を、服従を、信仰を、意思を表すので、セラフィムを遣わしてくださいと言ったのでもありません。そのとてつもない深い罪汚れの前に「ダメだ」というイザヤのところに、その唇に、その神が遣わした天使セラフィムのその炭を神が触れさせたからこそ不義は取り去られイザヤの罪は贖われたのです。それは飼い葉桶の上にこられ、罪の贖いのために、十字架にこられたイエス・キリストのゆえにこそ罪の赦しが、「神から私たちへ」と同じです。まさに「あなたの罪は赦されました」です。そして「あなたの罪も贖われた」だからこそイザヤの心は恐れから平安に変わり、「遣わしてください」になっていることがわかるでしょう。イザヤもパウロと、そして私たちと変わらない。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と同様の、福音の言葉によって派遣されていたのでした。そして、語られたのが、パウロも引用した言葉になります。

C,「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず」
「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように。」9?10
 イザヤ自身に、民に悔い改めと信仰の刷新など起こすことはできません。彼も罪人だからです。イザヤ自身に、神の計画と働きの前に、自ら立ち上がり、奮い立たせ、強い意志で、自らを派遣させ、人々に信仰をもたらすことなど、もともとできないのです。しかしそれをしたのは神であり、神の方であり、神がなさることです。それはこれから遣わされる先にいるその民も全く同じです。なぜ「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」と言われるのでしょうか。それは「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように」と書いています。「自分の目、自分の耳で、自分の心で」とあるでしょう。何度も繰り返した通りです。人間はその罪のゆえに、自分では神を見ることも、聞こうとすることも、自分で悟ることも、自分で立ち返ることもできないものです。イザヤにもパウロにも現れている人間の真理です。しかしそれをあたかもできるかのように、つまり自分で信じたり、自分で信仰を作り出したり、自分の力や意志で強めたり、奮い立たせたり、服従させたりできると思ってしまう。そしてできる、できているかのように思い、自分の罪深さ、本当はできないものが神の恵みのゆえに導かれていることを忘れて、自分自身の何かで敬虔で、律法も全て行っており、自分の行いや力で礼拝も信仰も、忠実であるかのように思ってしまっているところにこそ、実はサタンの大きな誘惑があり、信仰の落とし穴があるでしょう。神の前の罪深い自分の現実を忘れてしまい、そのように何よりも信仰を誤解し、つまり賜物であり福音である信仰を、逆の律法にしてしまう。福音によって、福音を動機にして行き、恵みと平安のうちに派遣されていくものを、律法を動機にして、自分の聖い行いと重荷を追うことによって派遣され、自ら実現していくかのように誤解し、そしてキリストの十字架を無きものにしてしまう、それが実はクリスチャンに対するサタンの一番、巧妙で、怖い誘惑であり落とし穴に他なりません。それは選びの民として高ぶり、自分の罪深さを忘れキリストを十字架につけたユダヤ人たちと重なることでもあります。
 みなさん、「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように」と神はイザヤへ言葉を与え、パウロを通しても語ってくださるからこそ幸いです。これはユダヤ人達へと同時に、異邦人の私たちにもです。なぜ幸いな福音なの言葉でしょう。なぜなら自分で見ず、聞かず、悟らず、立ち返らず、イエスこそが、頑なな信じることができない私たちに、働き、信仰を与えてくださった、イエスが見えるようにしてくださった、イエスが聞くようにしてくださった、イエスが悟らせてくださった、イエスが立ち返らせてくださった、その神なるイエスの素晴らしい恵みのみわざだと分かるからこそ、私たちは、十字架と復活による救い、福音を、心から喜び、賛美し、真に福音に生きることができるでしょう。誹hて、イエスが私たちのために全てしてくださること、それが福音であるからこそ、イエスの「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」の宣言に、心から安心して、私たちも「主よ、私を遣わしてください」と、重荷を負わされた律法の心ではなく、世が与えることのできないイエスだけが与えることのできる平安の心で、言うことができるのです。真の派遣、真の宣教、真の証人はそこにこそ生まれます。律法ではありません。福音からです。今日もイエスに罪の赦しの宣言を受けて、私達も安心して遣わされて行きましょう。