2020年6月14日


「約束の通りローマへ」
使徒の働き 28章11〜15節

1.「前回まで」
 前回は、誰もが死を覚悟するような助かる見込みのない嵐の海の上で、パウロがイエスから受けた約束、『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』とイエスにあって一人一人を励まし、その通りに誰一人失われることなくたどり着いたマルタという島での出来事でした。その島の人々は皆、親切でしたが、間違った神と信心を持っていました。一匹のまむしが纏わり付いたのを見て、島の人々はそうなったのは、パウロが悪人であるためであり正義の女神からの裁きが降って死ぬだろうと見ていたのですが、パウロには何も起きませんでした。そうすると今度は島の人々は「パウロは神だ」と言い出すのですが、しかしその島の首長の家に招かれたパウロが、病気の家族のために、イエスの名によって祈る事によって、自分は神ではなく、まことの神であるイエスが癒してくださったことを示したのでした。そのようにイエスはこの島にもパウロを通して福音の証しを伝えさせたのでした。さて、その時から更に時が過ぎますが、未だ、ローマにはついていませんでした。

2.「三か月後、出帆へ」
「三か月後に、私たちは、この島で冬を過ごしていた、船首にデオスクロイの飾りのある、アレキサンドリヤの船で出帆した。」11節
 島に流れ着き、首長の父の癒しの出来事から、パウロ達を連れたローマ兵と船員たちの一団は、三ヶ月間この島で過ごしたのでした。「この島で冬を過ごしていた」とある通り、難破する前の出発地であった「良い港」を出ようとする時には、既に冬の前でした。その季節の変動の大きい時期ゆえに、その時はパウロは出帆しないように注意したのにも関わらずに彼らは先を急ぐために、ほんの少しの雲と風が穏やかになったすきに船を出しましたが、見てきた通り、結局、冬の北西の風であるユーラクロンに襲われ難破してしまいました。季節はもう冬であり冬の嵐で彼らは死ぬ思いをしました。しかしそこでイエスが与えた約束の通りに、イエスの恵みの導きによって助けられこの島にたどり着いたのは見てきた通りです。彼らはそのような恐怖を体験してなお、さらに危険を犯してまで、先を急ごうとしなかったのでした。しかし冬も終わる兆しが現れてきたのでしょう。彼らは出帆するのです。「船首にデオスクロイの飾りのあるアレキサンドリヤの船」とありますが、デオスクロイは「双子の神々」とも訳されてもいますが、ギリシャ神話のゼウスの息子たちとされている、カストルとポルックスのことを指しており、双子座のしるしが飾りとしてつけられていたようです。その神々は船乗りたちの守護神として信じられていたのでした。その新たな船に乗りマルタからローマへ向けて北上しシラクサに寄港します(12)。イタリア半島の爪先の位置にシチリア島がありますが、シラクサはそのシチリア島の南東の端にありますからローマに近づいてきています。しかしそのシラクサに三日間滞在し、
「そこから回って、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹き始めたので、二日目にはポテオリに入港した。 」13節
 レギオンはイタリア半島とシチリア島の間の近接した狭い海峡のところにあります。その海峡を通って、半島の西側に出て、ローマへと至る事になるのですが、「回って、レギオンに着いた」と書いてあります。レギオンはシラクサから、ちょうど北の方向になり、船を北上させていく事になりますが、風は、まだ北から吹いています。ですので船が進むには向かい風であり、エンジンがあるわけではありませんので難しい船の航行が迫られるのです。そこで船の帆への風の当て方の調整を繰り返しながらジグザグに進んでいく事を、この「回って」という言葉は意味しています。そのようにシラクサからも、非常に苦労しながらレギオンについたのでした。そこから海峡を通っていくのですが、その狭い海峡を通るには、船を進ませる南風が必要になります。そこでちょうどレギオンについて次の日に南風が吹き始めたようです。その南からの風によって海峡を通り、レギオンについてから二日目、さらに北上しポテオリ、現在のナポリのあたりまできたのでした。このようにマルタからの航海も決して順調な旅ではなく予定通りではなかったのでした。しかしローマへと確実に近づいています。そしていよいよローマへの到着を前にして、
「ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した。」14節
 兄弟たちというのは、信仰の兄弟のことを指しています。ポテオリにいたキリスト者たちに出会うことができたのでした。そこで勧められるままにその兄弟たちのところに七日間も滞在する事になります。パウロはローマ兵からの囚われの身としてローマへと向かっているはずなのですが、ローマの隊長によって会うことや滞在することを許されたのでした。この百人隊長は出発する時からパウロに良くしてくれた隊長ですが、嵐の時のパウロの励ましによっても、さらにパウロはこの百人隊長をはじめとするローマ兵たちから大きな信頼を得ていたようです。そのことがこのように兄弟たちのところに7日間滞在することを許されたことへと関係しているでしょう。そしてポテオリからは陸路でローマへと向かうのですが、
「私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」15節
 アピオ・ポロはローマから33マイルの位置、約53キロで、トレス・タベルナというのはローマから43マイル、約69キロのところです。その徐々にローマへ近づく中、今度はローマにいたキリスト者たちが、パウロが来る知らせをポテオリの兄弟たちから聞きつけたのでしょう。わざわざその距離を出迎えにきたのでした。そのようにしてパウロはここでも思いがけず、出迎えた兄弟姉妹たちとともに、ローマへと到着したのでした。

3.「イエスの言葉はその通りに」
 この箇所を通してイエスが私達に示される幸いは何でしょうか?その到着までの時間は予定していたよりもかなり長くなりました。誰にとっても、計画通り、思い描いていた通りではありませんでした。思いもしなかったことの連続であり、先行きも見えずいつまでか分からず待たなければいけない状況もありました。何より、誰もが助かる見込みのない、死を覚悟する寸前まで行きました。つまりあの海の上で、もうローマには着くことができないと誰もが思ったはずなのです。しかし初めから全く変わらないイエス様がパウロに与えたその計画と約束、その言葉こそ、その通りに今や実現したということが、まず教えられるのではないでしょうか。それはコリントにいた時でした。
「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。」19章21節
 ここには「御霊の示しにより」とある通り、イエスが指し示されたローマであったことがわかります。そしてその約束をイエスは幾度となく現れて語り思い出させては励ましてきました。エルサレムでも陰謀によって殺されそうになり、ローマ兵に囚われの身でユダヤ人たちに弁明させられている時もこうありました。
「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」23章11節
 そして見てきた通りに、誰もが助かる望みを失い死を覚悟していたその船の上でも、イエスはパウロへ現れて語っていました。27章23節以下です。
「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」27章23?26節
 この約束の通りパウロはローマへと着いたのです。誰の計画も予定もならなかったのにも関わらずにイエスのこの約束、この言葉こそその通りになってきたと、私たちは今見ることができるのではありませんか。そして、パウロは言っています。

4.「神によって信じる信仰はどんな時も強い」
「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」27章25節
 と。皆さん。助かる望みのない、死を覚悟するような状況。期待通りにならなかったこと、挫折、難破、躓き、死の陰の谷、人は誰でも直面することです。人は誰でも計画通り、予想通り、期待通りになりません。人はそのような時、それが助かる望みのない時でさえも、最後まで律法を駆使し、人のわざや力を根拠にして、犯人探しをしたり、責任転嫁をしたり、裁きあいをするものです。最後までそれが最善の合理的な解決法であり強さだと思うのが人間です。それはクリスチャンであってもであり、キリストにより頼み求めることこそ強さ、とはせず、むしろ一番あてにならないこと、現実味のないことだと判断し律法に動いてしまうこともあることでしょう。しかしここでパウロは証明しています。助かる望みのない死を覚悟するような状況。思い通りにならなかったこと、挫折、難破、躓き、死の陰の谷にあって、何が本当に強いか、何が本当に希望を失わせないか。何が本当に心からの元気になり勇気になるのか、それはキリストであり、キリストが告げられたいのちの言葉、約束である福音であり、そのイエスが与えてくださっった、その言葉の通りになると神によって信じる信仰こそであることを、イエスはパウロとこのみことばを通して私達にも教えているではありませんか。律法も大事な言葉であり私達の罪を明らかにする神が用いる神の言葉ですが、私達がどんな困難があっても、それが死の陰の谷であり、助かる望みのない状況でも、勇気づけ元気を出させ強さと希望を失わせないのは、律法の言葉では決してありません。律法は与えることができません。私達が律法を自分や人に対して用いるなら、真の元気や勇気や希望どころか、神が用いれば意味があっても、人が自分や人に用いる時にはただの無意味で無駄な刺し通す言葉でしかありません。律法ではない。私達に与えられている、元気と勇気と希望と強さを与える言葉は福音なのです。それがパウロに表されてきたみことばの私達への証しではありませんか。福音に生きましょう。福音によって与えられ日々強められるその信仰にあって、私達も時が良くても悪くても、死の陰の谷にあり、明日たとえ世が滅びるとしても、イエスによって与えられる希望と平安の一歩を踏み出そうではありませんか。

5.「福音と信仰は人の思いを超えて益をもたらす」
 そしてパウロでさえも示された地へただ向かっただけであり、何が起こるかわからない状況での旅でしたが、全ては備えられ益とされてきたでしょう。パウロの忠告よりも船員の忠告を聞いた隊長でしたから、最初はパウロへの信頼はそんなに強いものでもなかったはずです。しかしその嵐による船の上で、パウロがその神によって信じる信仰によって皆を励ますことによって救われた隊長はパウロへの信頼を強めることになったでしょう。その信頼があるからこそ、船が座礁し皆が船を降りなければいけなくなった時に、囚人達は皆が殺されるところだったのですがそのことからも救われました。そして困難の中でのそのような律法ではない信仰の励ましこそ、地位も階級も職業も人種も違う、人がいるその船の全ての人を一つにして皆で食事をさせたでしょう。そのような一致と平和は、人間が選び期待する何でも揃い計画された良い人と良い方策と力と理性でそれをなそうとしてもできず非常に難しいということは、今の世界情勢を見てもよくわかるでしょう。力で抑えようとしても上手くいかず、その逆をやっても上手く行きません。しかしこの困難な死の船の上、この航海でこそ、それは生まれていました。福音から生まれる神によって信じる信仰が人を用いてなすことは実に不思議です。イエス・キリストはそのように困難のただ中にこそ「おられない」のではない、必ずそこにこそおられ励ましてくださり、そして全てを益としてくださるのです。

6.「神をどこに探し見ようとするか」
そして、最後まで困難な航海でしたが、パウロは、
「彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」
 とあるでしょう。困難な旅の終わりに、決して、なんら残念がっていない。失望していない。後悔していない。不平不満もない。そこに出迎えた兄弟姉妹たちに見た、ローマ到着に、彼は「神に感謝した」のです。神は、このどん底に思える旅の真ん中に、パウロとともに、まことにともにおられ働いておられた、その約束をその通りに果たしてくださった。そして全てを益にしてくださったと。私達は神をどこに探すのか。人は全てが順調で、予定通り計画通り期待通りに成功したところに神がいるのだ、祝福があるのだと、探します。しかしそこに、つまり人間の期待や価値観や計画を基準として神を見ようとすると、予期せぬ困難の中、失敗の中、死の陰の谷、助かる望みがないように思える中、困難や嵐の中で必ず神を見失います。神を別のところに探すために、その困難の中にこそおられる飼い葉桶の上にこられ十字架の上におられるまことの神、イエス・キリストを見ることができないのです。私達が今、困難にあるなら、そこに神はおられます。十字架のイエスがおられる。それが聖書の変わらない約束だからです。今日もイエスはここにおられ福音の宣言「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。安心して行きましょう。