2020年5月31日


「誰の計画がその通りになったのか?」
使徒の働き 27章27〜44節

1.「前回」
 前回は、パウロがローマへ移送される航海での出来事を見てきました。その航海は計画からだいぶ遅れて兵士も船長も乗っている人々はストレスを覚え、先を急ごうとします。パウロは、行程の遅れにより季節は冬前の強い風が吹き始める頃であることに気づき、皆の安全のために先へ急がないように注意しますが、百人隊長は、先を急ごうとする船長たちの言うことを聞き、一時、風が収まった隙を見て出航するのですが、ユーラクロンと言う北東からの強い風に襲われコントロールを失うことになりました。積荷なども捨てて立て直そうとしますが改善せず、ルカはこう記しています。「私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(20)と。しかしそのように屈強な兵士達や船乗り達が絶望するなかで、囚われの身であるパウロは言います。
「しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立ってこう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」22〜26節
 と。「ローマでも語らなければいけない」と言って召してくださったイエスが約束してくださっていることなのだから、そしてそれだけでなく、昨夜もイエスは「恐れてはいけない」と言って励ましてくださったのだから必ず助かる。「恐れてはいけない」ーパウロは励ましたのでした。そこから私達は、人の計画は罪深く不完全で思い通りにならないのにも関わらず、人はその計画に縛られ右往左往し絶望するが、人には計り知れない神の計画は決して揺るがない。必ずその通りになる。だからこそ信仰は平安であり希望であり、罪の世にあっては艱難は絶えなくとも、確かなイエスにあってこそ、私達は時が良くても悪くても安心して遣わされていくことができる。そのことを学んだのでした。今日はその続きになりますが、そのようなパウロの励ましからあってから、さらに幾日かが過ぎ、14日目の夜のことです。

2.「イエスの約束があればこそ」
「十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。水の深さを測ってみると、四十メートルほどであることがわかった。少し進んでまた測ると三十メートルほどであった。」27〜28節

A,「自らの計画で密かに逃げようとする人々」
 真夜中に水夫たちは陸地が近づいたことを察します。しかし未だ40メートルの深さもある地点ではありますが、さらに進んで30メートルですから、だんだんと陸地に向かって近づいていることは推測することができました。しかしどこを走っているかもわからず座礁する恐れがあるため(29)、一度、錨を降ろし日が昇るのを待つことにします。しかし、水夫たちは陸地が近いと思い、座礁しそうな船を見捨てて、小舟で我先にと逃げ、陸を求めようとしたのでしょう。錨を下ろすように見せかけ小舟をおろしていたのでした(30)。それに対してパウロは言います。
「パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません。」と言った。そこで兵士たちは、小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せた。」31節
 水夫たちを責めることはできません。人間は弱い存在です。そして混乱やパニックや、極限状況では自分のことしか考えられなくなり、相手よりも自分であり、誰かを蹴落としたり犠牲にしてでも自分は助かりたいと思うのが罪深い人間の常ではあるでしょう。人間とはそのようなものであり、罪深い私達、私自身も皆同じです。理性でさえもこのような時には無力になり、罪の影響が理性にさえ及んでいて理性には限界があると言うのは、このような極限状態でこそ顕著になるものです。人間の推し量ることや計画することはそのようなものであり、たとえそれを自分達で実現できて満足できたとしても、裏返せば、誰かを犠牲の上にとか何かを蹴落として成り立っていたりとか、そこには競争原理もありますから、それを成し得なかった人やグループや少数派もいるわけです。人の立てる計画の現実の一面です。

B,「皆が助かるというイエスの計画と約束」
 パウロはそんな逃げようとする水夫たちを止めさせます。しかしそれは、彼らの勝手な行動を責め、自分勝手さを断罪するために止めたのではありません。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません。」と言っているように、逃げようとしているあの人達も、あなた方も助かるためにこそ、逃げるのを止めたのでした。そのまま小舟で逃げたとしても、陸地につくことができるとはまだ誰もわかりません。まだ水深が30メートルもあるとするならまだかなり沖だからです。そして水夫がいなくなると船をコントロールするものが減るか居なくなり、船に残った人々も助からなくなります。パウロには自分と共にいれば、皆が助かると言う確信がありました。なぜならそれは、パウロに語られたイエスの言葉のゆえです。
「しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立ってこう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』22〜24節
 と。「いのちを失うものは一人もいない」「神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになった」と、パウロの確信と拠り所がはっきりとしています。イエスが約束したからこそ、皆はパウロと一緒にいれば必ず助かるのです。なぜならイエスがここにいる皆をパウロに与えてくださっているからだと。みなさん。私たちも時にゆるぎ、右往左往し、パニックになり、希望を失います。しかし揺るぎがあり平安がないのは、揺るぎ、不完全で死に消えゆく、当てにならない、移ろいゆくものを拠り所にし、そこに自分の願望を当てはめてそこに神の栄光を見ようと期待するからです。揺るぐものが拠り所になるなら、揺るぐのは必然です。その拠り所が揺るいだり、無くなったり、失われたり、弱くなる時、自分も揺るぎ、弱くなるのは当然です。
 しかし私達には、パウロと同様に、変わることのない確かな拠り所がいつでもいつまでも与えられているでしょう。イエス・キリストと、その十字架の言葉、福音です。そのイエス・キリストとその福音という揺るがない岩こそ、私達が柱を立て家を立てるべき土台であり礎であり拠り所でしょう。イエスは砂の上ではなく、岩の上にと教えているでしょう。その岩が私達にはあります。イエス・キリストです。それは堅固とした揺るがない確かさだけではない、そこから私たちの思いを遥かに超えたイエスのものを与え生かし用いようとする、日々新しいいのちを湧き出させる泉でもあります。それは目に見える立派そうに見える砂の上に立つ豪邸こそ祝福と成功と繁栄の証、神の栄光だと求める人には、理解できず、弱々しく見えるものですが、まさにそうではないことこそこの船の上のパウロに明かしされていて、そして大事な点は、私達にも与えられ、招かれていて、私達が立つべきところ、本当の強さ、本当の祝福、あらゆる天からの賜物に与る事ができるところは、このイエス・キリストに立つ信仰であると教えられているという事です。

C,「不安な罪の世ので嵐の航海であるからこそ」
 先行きが見えない現代、不安の時代であり、人間がますます自分のために、自分中心に善いことも悪いこともしようとして、自分が感情的に合致できるか否かで物事を判断したり断罪したりするし、しかも指先でサッと打ち込み全世界に発信できるツールでその欲望が果たせるようなこの社会にあって、人間社会はどうなって行くのでしょうか。私たちクリスチャンの航海は、いつでも凪で太陽の降り注ぐ穏やかな地中海のクルーズ船ではありません。私達のクリスチャンとしての航海は、この航海のように、そしてイエスの誘惑の荒野のように、いつでも信じ立ち返るべき拠り所が試されている誘惑の暴風が吹き荒れているのです。そのよう中で、試みる者の誘惑は、いつでも前回述べた「もし〜なら」の誘惑、計画通りにいかないことに縛られる誘惑、目先の感情行動や、自己中心さを満たそうとする誘惑によって、何より私たちの心を曇らせ、嵐を吹き荒れるようにし、揺れ動かせ絶望させようとします。そのようにしてイエスはキリスト、我が避けどころ、拠り所、我が岩と信じさせないようにし、「恵みのみ、福音になんかに力がない」と、それ以外のものや人や、その力により頼ませようとするのが、誘惑し試みる者の目指すゴールです。
 私達はその荒野、あるいは荒れ狂う嵐の航海で、イエスがその揺るがない言葉を持って示す約束を信じ、人ではなくイエスが示す先にゴールするものでなければなりません。その力は私達には一切ありません。だからこそイエス・キリストはいつでも私達と一つになって、いつでも語りかかけ、いつでもイエスのものを私達のものとして与えてくださり、私達の重荷を、自分の重荷として負ってくださるのではありませんか?だからこそ、イエスは今日も私達のために福音を語り、十字架で私達を殺し、今日も復活の新しいいのちに与らせ、不条理と虚栄と不完全なこの罪の世であっても「安心しなさい」と遣わしてくださるでしょう。ここに記されている囚われと嵐の上のパウロはそのイエスから与えられた信仰に生かされていることの私達への証しです。イエスは今日もこのみ言葉を通して、困難な航海にある私達を今日も励ましているのです。「恐れはならない。元気を出しなさい」と。
 みなさん、ぜひイエスのこの言葉に応答しましょう。揺るがない安心の岩は常に私達の足の下にあるのです。どんなに私達が罪深く、不完全で、愛せない自分に刺し通される日々であっても、そうであるからこそ、日々私達を十字架で殺し、復活で新しく生れさせ、罪の赦しを与え平安のうちに遣わすために、イエスはいつでも私達のいのちと平安の源として私達にすでにあるのです。安心しましょう。元気を出しましょう。

3.「彼らはみな、無事に陸に上がった」
 次の日の朝、パウロは、全員に食事を取ることを勧め言います。34節「これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」と。パウロは確信に満ちています。今、イエスが与えてくださったこの船の276人は皆助かると。イエスのゆえに。まだ先が見えない船の上です。しかしパウロの平安は周りの状況の確かさではなく、パウロ自身の強さから出た根拠のない気休めでもなく、イエスの言葉、イエスの約束にある事がわかります。そしてともに食事をとり、皆が元気付けられます。そしてさらに一晩が過ぎ、船は、砂浜のある入江を見つけます(39)。その砂浜に向かって船を進めますが(40)、潮の流れによって、船は座礁してしまいます。そこで突然パウロの命に危機が訪れます。
「兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと相談した。 しかし百人隊長は、パウロをあくまでも助けようと思って、その計画を押え、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。」42〜44節
 砂浜近くで座礁したことにより船が傾き、そこで兵士達は、囚人達が逃げることを恐れて、囚人達を殺そうとするのです。パウロにとっては絶体絶命です。しかしイエスの約束は揺るぎません。初めから親切にしてくれた百人隊長はパウロを助けようとするのです。パウロの助言を聞かずにこのような嵐に見舞われてしまったこともあったでしょう。百人隊長や船長達はパウロの助言を聞いておけばよかったと思ったでしょうし、この絶望の中で彼らを励ましてきたのはパウロでした。ですからパウロへの信頼も生まれましたし、そして何よりパウロはなんら悪いことをしていないことを百人隊長は確信していたことでしょう。これまでも助けとなってきた罪の無い者を処刑するわけには行きません。百人隊長の助けたいという思いには様々な背景があることでしょうけれども、このようにイエスは彼らがパウロのいうことを聞かずに失敗したことさえも用いられているとも言えるのです。隊長はパウロ一人ではなく囚人達を殺すのをやめさせ、囚人たちも含めて泳いで岸まで渡らせます。そして囚人も含めて全員、無事に陸地にたどり着いたのでした。

4.「人の計画がなったのか?イエスの計画と約束の言葉がなったのか?」
 何がなったでしょうか。人の計画ではありません。計画通りにいかないからと人間の思いの実現のために我先に急いだその計画がなったのではありません。まさにパウロは「ローマでもイエスのことを証ししなければならない。パウロはカエサルの前に立つ」ーその約束と計画、そして「いのちを失うものは一人もいない」「神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになった」そのイエスの約束こそその通りになっているではありませんか。イエス・キリストは真実であり、その言葉、約束も真実なのです。私達はこのイエスにあって何も恐れる必要がありません。苦しみ失望し、迷っても、揺るがない拠り所へ立ち返ることができます。イエスが与えると言われた平安をいつでも受けることができます。私達の信仰の歩みは、決して律法ではない、このように福音であり、それは喜びと平安が溢れ出ていて、私達がイエスの福音によって重荷を降ろされ、安心して遣わされて行く素晴らしいい歩みなのです。喜びましょう。感謝しましょう。そして、どんな時も恐れてはいけません。イエス・キリストにあって、恵みのうちに、溢れ出る復活の新しいいのちにあって、元気を出して、力強く歩んで行きましょう。