2020年5月24日


「イエス・キリストに縛られて」
使徒の働き 27章1〜26節

1.「前回」
 前回は、パウロがアグリッパ王と総督フェストに語った福音に対する彼らの反応を見ました。総督フェストは、パウロの語るイエス・キリストの福音を「気が狂っている」と理解できませんでした。彼の常識や価値観では、救い主が謙る者の姿で罪人と食事をし、世の罪人の罪の身代わりのために十字架刑に死んで復活し今も生きて働いているとか、敵対する迫害者にさえ愛を持って語りかけ宣教者として召し出す、等ということはあり得ないことでした。むしろ救い主や王であるなら、政治・経済・戦争において、最高のカリスマ性と権力に満ちて大多数をリードするものである、という世の価値観にとっては、まさに十字架の言葉は愚かで躓きであり、総督にとっては「気が狂っている」だったのです。しかしパウロは自分は真実な言葉を語っていると答えました。十字架の言葉である福音は、信じる者にとっては紛れもない救いの神の力であることこそパウロの証であったのです。アグリッパも「わずかな言葉で自分を信仰者にしようとしている」と答え受け入れません。しかしパウロはアグリッパにも、言葉の多い少ない云々ではなく、自分が願うことは王も総督も、聞いている者が「私のようになることだ」と答えます。つまり皆が、十字架の言葉、キリストの福音こそ真理のことば、神の力と信じ、真の自由と喜びと平安の新しいいのちに生きるようになることこそ願いだったのでした。アグリッパもフェストも福音を理解できず受け入れませんでしたが、しかしパウロに、訴えられ死罪に当たるような罪は認められないということでは一致し、アグリッパは、カエサルに上訴をしなければパウロは釈放されたであろうに、と答えたのでした。前回はそこまででした。

2.「「もし〜なら」」
 アグリッパの言う通りです。総督もパウロには罪はないと認めていますし、「もしカエサルに上訴をしなければ」パウロは釈放されたことでしょう。ここに人間の常識や価値観にそぐわない状況となり、そこに生まれ易い誘惑の言葉、「もし〜だったら」を見ることができます。人の合理的な考えでは、もしパウロがカエサルに上訴しなければ、今頃釈放され、仲間のクリスチャンのところに戻り、計画通り期待通りの宣教活動が続いていっただろう。あるいは、囚われのゆえ皆が期待していたような働きと成果が望めない、この状況にはならなかっただろうに、等々、あるかもしれません。人はそれぞれの「もし〜なら」を思い浮かべることでしょう。確かに囚われの身が続くのですから、制約され思い通りの行動もできません。計画も立てられません。これはカエサルへ上訴のためにローマへと送られるのであり、人の目や計画から見れば宣教のために送られるのではありません。その状況は、人間の成功論の前にあっては、望まぬ状況であり災いであることは確かであり、失敗や敗北にさえ映ることでしょう。しかし神の前では、ここには人間のそのような「もし〜なら、〜であったであろうに」に勝るイエスの約束の真実さがあるでしょう。イエスが約束された通りです。「あなたはローマでわたしのことを証ししなければならない」と。その通りにイエスは人間の様々な罪な思いや行いさえも用いて、パウロにそのご自身が言ったその言葉を実現してくださっているからこそ、この状況は「神の前」には一切無駄なく計画通りに進んでいると私達は教えられるのです。
 イエスが受けた荒野の誘惑での「試みる者」の誘惑の声は、まさに「もし〜なら」でした。試みる者は聖書の言葉さえ用いて「もし神が〜なら〜ではないのか」と誘いました(マタイ4章)。それは人間の罪の始めにあった誘惑の声と同じです。もしその実を食べるなら神のようになれるのを神は知っているのだと(創世記3章)。イエスへの荒野の誘惑は人間への誘惑を表しています。「もし〜なら」―これは誰でも当たり前のように思い妄想することです。しかしそれは同時に、「神の前」にあっては最大の誘惑にもなり落とし穴にもなる言葉です。しかもその「もし〜なら」の根にある考えも先にある目指すゴールも、私達自身の欲や願望や世の価値観に基づく成功や繁栄でもあります。それはどんな素晴らしい願いがあっても、自己中心の論理と正義が働いてしまうことから決して自由ではありません。イエスはゲッセマネで、「もし〜ならば」とは言いませんでしたが、「みこころならば、この杯を取り除けてください」とは祈りました。しかしその言葉の通り「みこころならば」です。その後にも、しかし「あなたの御心のままに行ってください」と祈っているでしょう。堕落の記録やイエスの荒野の誘惑にも分かるように、私達は「もし〜なら〜である」に縛られやすい性質があります。願うことは決して悪いことではないし、いやむしろ願い祈るべきです。しかしその自分の願望や計画により縛られると、囚われローマに連れていかれるパウロの試練を理解できません。「もしカエサルに上訴しなければ釈放されたであろうに」というアグリッパにこそ同意できるでしょう。しかし主の御心を見失うことになります。「もし〜なら」に縛られるのが私達の自然の罪深い性質であり、それは自分の力では決して克服できないことです。だからこそ私達は十字架のイエスにいつでも、全てを祈り求めて行きたいのです。「もし〜なら」の自己中心の束縛から解放され、「主の御心がなりますように」の祈りに希望と安心を持つことができるようにと。

3.「計画通りにいかない」
 さてそのようにパウロは、主のみ心のうちに囚われの身としてローマへと行くことになります。パウロは一人ではなく他の囚人達と一緒に連れていかれます(1)。ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡され彼らは船で渡ります。1節に「私たちは」とありますようにルカも一緒に同じ船で向かうことになりました。その他にも「テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行」していました(2)。アリスタルコは、かつてマケドニアで銀細工職人の暴動がパウロに対して起こったときに、パウロと一緒にいたということで捕らえられたこともありましたし(19章)、パウロがかつてアジヤから、エルサレムで献げ物と貧しい人へ施しをするために帰る時以来一緒に同行していました(20章)。この後も彼はローマではパウロと一緒に牢獄に入れられることにもなりますが、パウロに常に同行していた一人でした。そのように囚われの状態での船出ではありましたが、ルカやアリスタルコが同行することができ、さらに百人隊長のユリウスはパウロを親切に扱い、シドンに入港したときには友人達と交わることも許可していたのでした(3)。パウロは他の囚人と比べて行動が自由でもあったのです。しかしシドンからの出帆後、西側からの風が航行を遅らせます。その西風を避けるようにキプロス島の陰を航行し、ミラという港まできてそこで船に乗り換えてさらに出帆するのですが、西からの風の影響で進みは遅く予定から遅れて「良い港と呼ばれる所に着いた」のでした(8節)。

A,「「パウロの助言」
「かなりの日数が経過しており断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」と言った。しかし百人隊長は、パウロの言葉よりも航海士や船長のほうを信用した。またこの港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見はここを出帆してできれば何とかして南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。 」9〜12節
 航海の予定や計画はかなり押し、計画通りにはなっていませんでした。予定からはかなりの日数が経過していました。9節に「断食の季節も過ぎて」とあり、12節では「冬を過ごすのに適していなかった」ともあるように季節は冬の前になります。北西からの冷たい強い風が吹き始め、航海の妨げになることを例年の気候や季節の様子から推測できたのでした。パウロは冷静にそのことを受け止め、そして「積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶ」(10節)とある通り、物質的な財産や利益ではなく何より人々の生命の安全を考慮して航海を急がないように助言します。それは天の声があったとかではなく、西風がずっと悩ませ、冬の前でもあり、自然や四季の営みからの知恵であったと言えるでしょう。しかし11節以下、百人隊長は、パウロの助言よりも、船の専門家でもある航海士や船長の言葉を信用します、そればかりではなく大多数の意見は、冬を過ごすのに適さない今いる所よりは適したクレテのピクニスまで行きたいとなったのでした。
 百人隊長や船長、他の同船者達の計画は、もっと早くその地か、更に先、であったことでしょう。航海には必ず行程があり、その通りに行かない時にストレスになり欲求不満になるのが人間にとって自然のことです。パウロ自身もそうであったことでしょう。しかしそこで計画通りにことを運ばせて人間の利益や欲求を満たすことを優先するか、冷静になりある程度の忍耐と損失があっても、安全と人命優先で、計画の前に一歩でも二歩でも立ち止まるか、その判断の違いがここには現れています。パウロは冷静でした。そして計画が遅れても、冬に適さない厳しい時期を過ごすことになっても、何より人命を優先させ、一歩でも二歩でも立ち止まることを考えていることが教えられます。

B,「人の計画通りにならない時に:何に縛られるのか?」
 人は「人の」計画や思い描いたことを優先させるものです。それは教会でも同じで、人の思い描いた計画や願望を、神からのビジョンであるかのように掲げることがあります。もちろん人の計画ではなく神の計画こそがなるのだという信仰が土台にあればそのようなビジョンと呼ばれるものも良いのでしょうけれども、しかし人はその「人の計画や思い描いた道筋」などに縛られ優先させ、中心に考え易いものです。上手く行っているときもいかない時もです。縛られても一歩でも二歩でも立ち止まって「人の計画ではなく、神の計画こそなる」に立ち返ることができればいいのですが、多くの場合、計画通りにならないことによって右往左往しネガティブになり犯人探しや責任転嫁をして裁きあいになることも少なくありません。キリスト者が「何に縛られているのか」は大事なことです。「もし〜なら」や「計画や願望」に縛られるのではありません。キリストとその福音にこそ縛られ、拠り所、土台となり、原動力、動機、泉であることによってこそ、いつでもキリストへの信頼と平安があり、そこから冷静さや、計画通りでなくても一歩でも二歩でも立ち止まり主へ立ち返る余裕、そして人命と安全こそを優先する愛の思いが溢れてくると言えるでしょう。私達は自分の力ではその罪の性質ゆえに、やはり「もし〜なら」や常に計画に縛られるものですが、だからこそぜひ祈りましょう。いつでもイエスキリストとその福音にこそ縛られて、真の平安と自由にあって愛の行動ができるよう新しい力を与えてくださいと。

4.「目先優先の不安定さ」
 人々は一刻も早く船出したかったのでしょう。一時吹いた穏やかな南風によって船出することを決断します(13節)。まさに目先の現象だけでの判断です。ところがユーラクロンという暴風が吹いてきて船は巻き込まれます(14節)。航行はコントールが効かなくなり、船は風と波に吹き流されるままになります(15節)。なんとかしのぎながらも暴風はなおも激しく吹き付けます(18節)。そして「人々は積荷を捨て始め、 〜自分の手で船具までも投げ捨て」始めます。
「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。」(20節)
 光は消え暴風は吹き荒れます。そしてついに人々は助かる最後の望みさえ絶たれようとしていました。目先のことや人間の願望やそれに基づいた計画でもちろん上手くいくこともあるでしょう。しかしこのように目先のことだけで判断し行動することはある意味ギャンブルと同じです。そして平安もなければ確かさもなく容易に望みは消え去るものです。さらにその時に人はもう成すすべがなくなったことにより弱くなります。そこに平安や希望も見出せないのです。それが人間の罪の結果、そして人間の思い計ることの多くの結末です。しかしこの光も希望もない状況で、一人、希望と平安に満たされ、勇気と確信の言葉を放つ者がいるでしょう。

5.「イエスの確かさ、真実さ」
「だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」21〜25節
 パウロは囚われの身ですが、この自然の猛威の前に百戦錬磨のローマの百人隊長などの軍人や船員や船長が顔を揃えながら希望を失い絶望している状況でパウロには希望があります。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。」と。しかもそれはパウロ自身が強かったからではない、『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです』という、イエスの言葉と約束が根拠であり、そのイエスに支えられていたからこそです。ここでもイエスは変わらない計画を言っています。「あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と。人の計画は成らなくてもイエスの計画と約束は変わりませんしその通りになるのです。そして「私は神によって信じます」と言っているように、この揺るがない根拠があるからこそ彼は平安と希望を持って、絶望する人々を励ましていることがわかるのではないでしょうか。皆さんこれが私達に与えられている福音と信仰の力です。イエスが与える信仰と平安によって遣わされる者こそどんな逆境でも本当に強い。それはその人自身ではなくイエス・キリストにあって強く、そして周りが倒れ希望のない中でこそ用いられるのです。これが人知を超えたイエスの真実さに他なりません。私達はこの福音によって今日も罪の赦しと新しいいのちを与えられて遣わされているのです。感謝しましょう。用いられるように祈って行きましょう。そして平安のうちにここから出て行こうではありませんか。