2020年5月17日


「律法ではなく福音に派遣されて」
使徒の働き 26章24〜32節

1.「前回」
 前回、アグリッパ王の前で弁明するパウロを見てきました。総督フェストからパウロの事を聞き、自分も聞いて見たいという事でパウロが呼び出されたのですが、パウロはアグリッパの前でも「イエス・キリストは自分のために何をしてくださったのか」を語ります。彼はユダヤ社会の宗教エリートとして生まれ育ち、教育を受け忠実に従ってきた自分であり、以前は、キリストとキリスト者を憎み、迫害や殺すことさえも賛成し、率先して迫害していたが、そんな罪深い自分のところにイエスの方からきてくださり語りかけてくださった。そして自分達が待ち望んでいた神からの救い主の約束が、この十字架にかかって死なれたイエス・キリストにこそ成就し罪の赦しと神の国は与えられているという恵みに、イエスが目を開いてくださり信仰を与え救い出してくだった。さらにはそればかりではなく、その素晴らしい恵みを今度は全世界に伝えるように選び召し出してくださった。そのようにパウロはアグリッパ王と総督フェストの前でもなんら変わることなく、キリストの証人として福音を証したのでした。そのように語り終えたパウロに対して、まず総督フェストが口を開きます。

2.「気が狂っている」
「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。 」24節
 フェストは、パウロがよく教育されてきて学識がある事を認めていますが、パウロのいうイエス・キリストの福音を全く理解できません。フェストはローマ帝国の総督という地位です。彼は良い教育を受けてきたばかりでなく、ローマ帝国は北ヨーロッパやゲルマンなどの辺境地域では戦争を行っていましたから、その幾多の戦火で英雄的な功績を収めてきたからこそその地位にあったと言えるでしょう。しかしそのフェストの博識、常識、価値観においては、その価値観や常識がいくらその当時の世界の人々のスタンダードであったとしても、救い主が自分の命を犠牲にして罪人のために死ぬとか、死からよみがえって生きているとか、そして自分の迫害者を召し出すとか、等、は全く理解できないことであり、それは「気が狂っている」と思える事だったのです。それはユダヤで宗教のエリート教育を受け、律法をよく知り、忠実に行っていると自負するユダヤ人達、特に宗教指導者達にさえも理解できなかったのと同じようにです。パウロがコリントへ宛てた手紙に書かれていることがここにも見ることができます。コリント人への手紙第一
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」1章18〜25節
 フェストの常識や価値観にとって、世界の王、救い主は、カエサルのように皇帝の血筋で、知識のみならず、力による統率、判断力、政治力で人を征服していき、そして経済的にも財力のあるところ、そのように人々をリードし、国や社会の、目に見える数的、経済的な繁栄を、その力と知恵とで達成した者こそ、皇帝であり、神であり、世界の救い主だと言いたいところでしょう。それは現代でも国の大統領や統治者には求められたり、政治のみならず、教会でさえも、そのような人間のカリスマ性や並外れた才能や人格によって人の期待する目に見える教会やキリスト教界の繁栄や成功への憧れや期待待望、あるいは依存はあるかもしれません。もちろん教会で暴力によるリードはさずがに無いか稀であっても、しかし律法的強制力や、そこまでいかなくても律法によって促して教会をリードする方が合理的で、成果が予測でき分かりやすいというのは残念ながら見られることです。それは世の価値観や方法論と合致しているのですから、「人の前」中心に考えれば、確かに至極妥当で合理的で理解も容易ではあるでしょう。しかしそれは十字架の言葉、神の力、神の知恵とは全く無関係です。何より、そのような価値観や方法論に縛られること、そして律法によるリードや動機に縛られているなら、むしろフェストと同じように、十字架のことば、福音は、「気が狂っている」、そこまで言わなくても愚かに聞こえ、つまずきになり、そして力がないように思うようにさえなるものです。「福音だけではダメなんだ。「恵みのみ」なんて弱わ弱しい。目先の現実は何も変わらない。誰も救われない。「恵みのみ」だけでは駄目なんだ。「全て神のみわざ」なんていうのは、信仰者として無責任で、我々人間の力、意志の力、応答の力と実践も必要なんだ」と。確かに応答は必要なのです。賛美も祈りも信仰も応答です。しかしそれは律法ではありませんし、律法を動機にして生まれるものではありません。福音から生まれる神の賜物です。応答を律法にしてしまえば、行為義認を超えるものでは決してありませんし、何よりそこには福音による平安に生まれる真の信仰生活はありません。私達がいくら敬虔であろうとしても、律法主義から出ているものは福音を理解していませんし、福音から出ている真の敬虔ではありません。フェストの価値観とそんなに変わらないのです。

3.「真理のことば」
 しかしそんなフェストにパウロは言います。
「フェスト閣下。気は狂っておりません。私はまじめな真理のことばを話しています」25節
 パウロにとってはこれこそ真理のことばであったのでした。皆さん。私達は、今やパウロがアグリッパとフェストの前で語ったこの福音の証しこそ、「私にとっても真実なり」と告白できるではありませんか?それを聞いて、決して「気が狂っている」などとも思わない。むしろパウロに同意し、「主イエスは、こんな罪深い私のためにも、十字架に死んでくださり、よみがえってくださった。そのイエス様の十字架において今日も罪深い私は殺され、罪赦され、復活において新しくされ、平安とイエスの新しいいのちの恵みのうちに、私は今日も世に遣わされていく」と私達の口にも告白が与えられているのではないでしょうか?十字架のことばは、私達一人一人にとっても、「救いを受ける私たちには、神の力」「キリストは神の力、神の知恵」だと真に喜びを持って賛美できるのではないでしょうか?そうであるなら大丈夫です。今日もイエスは私達に言ってくださっています。「あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい」と。心配する必要はありません。私達はなおも罪深いものですが、私達の完全さや行いではなく、イエスの完全さ、確かさ、真実さ、恵みこそ今日も私達のうちに溢れています。私達に与えられ強められている信仰に、福音を通して泉のごとく溢れ出ているのです。パウロの告白のように、罪深いからこそそのことをイエスは今日もしてくださるのです。イエスの十字架と復活の恵みのゆえに既に救われ、既に祝福されている、そのことに感謝して、福音によって今日も平安のうちに遣わされて行きたいのです。

4.「アグリッパの反応」
 パウロはアグリッパ王にも語りますが、アグリッパはユダヤの預言のことはよく知っているからこそ自分はこの福音を伝えていると迫ります。しかしアグリッパは言います。
「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」28節
 アグリッパも世の中の価値観から抜け出せていません。人がどれだけのことを多く語るか否か、人がどれだけの言葉や方法で納得させられるか否か、それによって人は信じることができる、できない、と。信じる、信じさせる、納得する、納得させる、理解する理解させる、ということを、単に人間の営みの量や質、つまり信仰は人の力のわざという考えを彼は超えられません。それは私たちキリスト者でさえも陥りやすい誤解です。信じること、信仰は律法、人のわざ、人間の意志の力だと。しかしそうであるなら、信仰義認も、恵みのみ、信仰のみ、聖書のみも全て矛盾してきますし、キリストのみでもあり得ません。さらに私たちの救いは常に曖昧、人のわざなのですから、救われている確信もなければ平安もありません。福音ではなく、常に律法によって促され、導かれ、律法によって、つまり自分がどれだけ自分の努力や行いとして信じているか、意志の力で一歩を踏み出せているか、どれだけ律法の行いを行なっているか等が、救いの確信の拠り所となりますが、そこに平安も確信もありません。意志の力、一歩踏み出す力などなど、どんなもっともらしい合理的でわかりやすい信仰の促しや、そこに感動で感情をくすぐる例話があっても、律法によるなら救いの確信と平安は皆無です。もちろん自分の行為の満足による一時の平安はあるでしょう。自分がしたことや努力による平安です。しかしそれはイエスが与えると言われた、世が与える事のできない、真の平安ではありません。その真の平安は福音からのみ来るイエスからの天の賜物です。信仰は律法ではありません。アグリッパが考えるように、人のわざ、人がどれだけのことをするか、してくれるか、で信じるようになれるとか、人がこれしかしてくれない、自分がこれしかしていないから、信じられない、とかそんなものでは決してありません。イエス・キリストを信じるということは律法ではなく福音です。信仰は賜物であり、イエスがみ言葉を通し、聖霊の働きによって与え、与えてくださったものを強めてくださるのです。だからこそ、罪深い私達にこそイエスは日々語ってくださり、私達は日々そのみ言葉を聞き、律法によって罪を示されながらも、十字架と復活の福音によって、日々、悔い改め、日々、回心し、日々罪赦しを受け、日々、新しくされ平安のうちに遣わされていくのです。

5.「私のようになってくださること」
 パウロはそんなアグリッパに答えます。
「パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」29節
 パウロの福音を語る動機が書かれています。それはアグリッパのみならず、その妹、ベルニケ、そして総督フェスト、さらにそこにいる全ての人々が、
「私のようになってくださること」
 だと。ルターはこの「私のようになってくださること」―つまり他の人々にとっても、イエスの福音が、気が狂ったことでも愚かな躓きでもなく、まさに私達と同じように「十字架のことば、キリストこそ「神の力、神の知恵」」と目が開かれて欲しい、というその思いは、キリスト者の絶える事のない「飢え渇き」として大事であると示しています。全ての人の救いは私達の願いであり祈りです。しかしそれは私達の側からみれば思い通りにならないことでもあります。なぜならそれは神の御手の中にあることであり、前述のように、人の救いも信仰も人のわざではないからです。しかしその飢え渇きをなんとか満たそうと、私達は何かマンパワーでなんとか達成しようとすることに陥ります。しかしそれはうまくいかないのですから、その救われて欲しい聖なる飢え渇きだけではなく、自分のわざで飢えを解消しようとしてうまくいかないという、さらに別の欲求不満が生まれるという二重の苦しみに陥れられることがあるものです。全ての人が救われて欲しい。この人が、あの人が、愛する家族が、「私のようになってくださること」―それは私たちの絶えることない聖なる飢え渇きであり、もちろん祈りを聞かれているイエスの恵みとイエスの時にそれは実現もします。しかしその飢え渇きは、誰が救われても、私達が常に持ち続けるものであり常に私達は飢え渇き続けるでしょう。その時、私達自身には誰を救う力も方法も本来はないのに、私達が自分や誰かの力や方策依存でなんとかしようとする時、自分や誰かの行為による不必要な欲求不満に陥り、それは裁きあいや信仰の妨げになります。そうではなく私達はその聖なる飢え渇きにおいて、どんな人にでも信仰を与え救うことができるイエスにどこまでも祈り求め、その人のために御心にかなって私達を人間の思いをはるかに超えて用いてくださり、そしてその御心を行ってくださるイエスにこそ信頼し、安心して待ち望むことが希望と平安の信仰において大事なことと言えるでしょう。その信頼さえ自分達の力では無力でもあります。信頼できるように祈りましょう。イエスは私達の思いや期待をはるかに超えたことを、その祈りに対して備えてくださっているのです。イエスは真実だからです。

6.「終わりに」
 最後に、総督もアグリッパも認めざるを得ません。
「ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。 彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」 またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。」と言った。」30〜32節
 人がどうであっても、何より真実なイエスの前にパウロはあるからこそ、この孤独な逆境にあってもパウロの平安と信仰は揺るぐことがありません。私達も世にあっては艱難は尽きません。多くの心配や不安、悲しみや痛みがあるでしょう。罪の世にあっては、悩みは尽きることはありません。しかしそのような世にあってその悩みや死にさえも勝って永遠に尽きる事のない平安の泉が私達には与えられています。イエス・キリストとその言葉です。そここそ「滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」ぜひ、今日もイエスの福音による罪の赦しの宣言に安心して、ここから平安のうちに遣わされていこうではありませんか。