2020年5月10日


「キリストの証人、福音の証人」
使徒の働き 25章23〜26章23節

1.「前回」
 前回は、総督フェストがユダヤの領主であるアグリッパ王にパウロについて話したことから、アグリッパもパウロから話を聞いてみたいとなり、パウロがアグリッパの前で弁明させられるのが今日のところです。フェストはアグリッパにパウロへの訴えについて24節以下で語りますが「私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。」とは認めています(25)。しかし「彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました」と続きました。パウロが皇帝に上訴したのは確かです。しかしそれはフェストがユダヤ人達の「歓心を買おうとし」 (25:9)て、「エルサレムで裁判を受けることを願うか」と聞いたことに対しての回答でした。そのことについてはフェストは触れていません。フェストが皇帝に上訴するために書面で訴状を、つまり訴えの根拠や理由などを書き送らなかければならず、そうでないと「理に合わない」(25:27)のです。ですからその訴状に乗せる理由を探すためにアグリッパの尋問はフェストにとっては良い機会とは言えます(26)。しかし罪はないとわかっていたのに正義を行えず、自分が歓心を得ようとする動機のためにした質問から生まれた皇帝への上訴、しかも自分でも上訴の根拠や理由さえも書けないでいるのに、あえて探して取り繕おうとする態度。いずれもフェストの身勝手さ、罪深さが見せられますが、それが人間と社会のどこまでも罪深く不完全な現実を示していました。しかしそんな人間の罪深さを用いてこそ、イエスは人の思いを超えて証しを備えてくださるという恵みを教えられるとともに、どこまでも罪人である私達の罪のためにイエスは十字架にかかって死んでよみがえって下さった、そのように罪赦され新しくされ平安のうちに生かされ遣わされていく恵みの福音こそが、どんな時にも変わることのない拠り所であることに立ち帰らされたのでした。さてアグリッパの前に連れてこられたパウロは、弁明の時が与えられ語り出します。2節以下ですが、パウロが語る証しは一貫して「イエス・キリストが罪深い私のために何をしてくださったのか」の福音であることをこの所は示すとともに、福音を証しするとはどういうことなのかが教えられていると言えます。まず彼は「自分」について伝えますが、なぜ訴えられているかについての事実です。

2.「罪深い現実の証し」
「では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。 」4〜8節

A, 「なぜ訴えらえているのか?」
 見てきましたように、当時、キリスト者はナザレ派と呼ばれ、ユダヤ教の異端の一派とみなされていました。しかしパウロはパリサイ派として、自分がいかに若い時からユダヤ人社会の正統的な流れで生まれ育ち教育を受けてきて、聖書にも厳格に従って生活してきたのかは、その訴え出ている彼らこそよく知っていると言います。しかもその正統的な聖書の教えとして先祖達から受け継いてきた神からの約束、7節では「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んで」いるとある、そのことのため、そしてその成就である「神が死者をよみがえらせる」ということを信じていることのために訴えられているのだと彼は答えます。彼らも待ち望んでいることで、それを信じ望み成就を伝えているのに、それを信じない、むしろ怒り狂って抹殺しようとまですると、なぜ訴えられているのかを弁明しつつ、その訴えの矛盾を示すことからパウロは始めました。

B,「迫害者であった現実」
 そして具体的にその待ち望んでいたことを語って行きますが、パウロは、イエスが自分を召し出してくださったあの回心の出来事を証しします。それはつまりのところ、自分がいかに神の前に罪深いものであるかの現実の証しに他なりません。9節以下になりますが、彼ははっきりと言っています。「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」(9節)と。10節以下は、8〜9章で見てきた内容です。 その強硬な敵対を「エルサレムで実行し」、「祭司長たちから権限を授けられ〜多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じ」たと(10節)。「賛成の票を投じた」とある通りに、彼は議会のメンバーとして関わりがあったことでしょうし、何より議会の使者として迫害の実行隊長として行動していたのでした。彼はキリスト者の多くの殉教に関わっていましたし、何よりあのステパノの処刑の時にも、彼はその場にいて、処刑に賛成もしていたことは書かれていた通りです(9:1)。11節は、隠れキリシタンの踏み絵のように、「彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし」たともあり、それはエルサレムに止まらず、「激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して」行ったのでした。
 パウロはアグリッパの前で自分がどれだけ立派な家柄で、ユダヤ人に好まれるような立派な行動をしてきたのかと誇っているのではありません。それほどまでに社会のエリートして育ち敬虔に生活し宗教指導者達にも忠実に従ってきた自分がいかに神の前に罪深い存在であるのかの証しです。今やキリスト者となったパウロにとって、かつてキリストとキリスト者を迫害し牢に入れ、散らし、御名を汚すことを言わせ、殺したりしたことは忘れることも蓋をすることもできないいつでも重い十字架であったことでしょう。赦されている現実があったとしても、その罪深い自分は決してこのことで終わらない、いつでも刺し通す痛みを彼は感じていたのではないでしょうか。罪を気づかされ知り認めるということはいつでもそうです。もちろんその罪だけではない。そのかつての罪が赦されているから、パウロはもう罪を犯さなくなったということでもない。彼は信仰を与えられ、召しに従って遣わされる日々の中であっても、自分の様々な罪を日々、教えらえていたでしょう。彼はローマへ宛てた手紙で繰り返しています。

C、「日々、罪に気づかされる現実」
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 」もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。 (ローマ7章15〜17節)
 キリスト者はいつでも、自分の罪深さに気づかされる日々です。今日、愛せない自分、憎む自分、妬む自分、誹謗中傷し悪口を言う自分、伴侶と喧嘩し、子供を大人の都合や感情で怒る自分に気づかされ、今日、悔い改めの祈りをし、本当に「イエス様、御免なさい、赦してください」と思い祈っても、次の日に、それでも愛せない自分、憎んだり妬んだりする自分、などなど気づかされ、まさに打ちのめされることあるのではないでしょうか。自分はそうではないと、行いや口で人の前に装うことはできたとしても、人の心を見られる神の前にあって、その心はどうかと問われる時に、私達は、いや私自身が、その罪深さ、日々罪深い自分を隠すことはできません。愛せない自分、妬む自分です。確かに殺したり盗んだりしていなくても、何より第一の戒めにこそ私達はどこまでも従えないものであることを、心を見られる神の前にあって、私達は、いや私自身が、その罪深さを告白せざるを得ません。信じられない自分、委ねきれない自分、神よりも自分中心の自分、目に慕わしい果実の誘惑、「もし〜神が〜なら、もし聖書がそう言っているなら、こうしてみなさい」の試みる者の声(マタイ4章)に任せ、目先の期待する人の栄光に従ってしまう自分、まさに第一の戒めにこそ背く、自己義認や自己満足の偶像に負けてしまう自分に気づかされます。私達はどこまでも罪人です。イエス・キリストの十字架のゆえに、義と認められています。しかし私達が義となったのでも、私達の力で義となれるのでもありません。私達の何かではなく、イエス・キリストの十字架のゆえに「のみ」義と宣言されて義人であるのであり、私達の肉欲と性質にあってはどこまでも罪人のままです。「義人にして同時に罪人」なのです。ですから私達が「人の前」しか注意や関心が向かないなら気づかないかもしれませんが、私達がいつでも真に神の前に立たされるのであるなら、日々、自分の罪に気づかされ刺し通されずにはいられないのです。しかしそのことに、それが如何にパウロのように過去の重い十字架であっても、決して蓋をしない、触れないのでも思い出さないのでもない、その日々罪を示され、刺し通される証しがあるからこそ、福音の素晴らしさを証ししていくように用いられていくことが、パウロには示されているでしょう。

3.「イエスが私のためにしてくださったこと:福音の証人」
「このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖別された人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』 12〜18節
 そんな罪深いものに、イエスが、イエスの方から、来られ語りかけられた。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と。そしてこの迫害者、多くの教会を迫害し散らし、殺したこの罪深い自分をイエスが召し出し遣わしてくださった。「わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」と。そしてその通りに証人として「証し」をするのですが、パウロは何について証しするかも明確にイエスは示されたと言っています。
「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖別された人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」17〜18節
 と。皆さん、私達が召されている「キリストの証人」「福音の証し」とは何ですか?自分が、教会が、誰かが、律法の通り何か立派なことをしてうまくいった、成功した、繁栄した、と言うご利益ですか?自慢話ですか?偉人伝ですか?自分の誇りや誰かの誇りですか?教会の誇りや伝統や過去の栄光ですか?それは聞いていて確かに面白いかもしれません。合理的かもしれません。納得させられ、感動するかもしれません。感性にピンときたり、感情的に同調でき、感情移入できるかもしれません。しかしそれは自分基準の価値観でしかなく、それは福音の証でもキリストの証人でもありません。そして結局は、律法の証しであり、自分にせよ誰かにせよ教会にせよ、「何をしたか」についての証しを超えるものではありません。キリストの証人、福音の証しは「キリストが私のために何をしてくださったのか」の恵みの証です。イエスはパウロにこういいいました。
「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖別された人々の中にあって御国を受け継がせるため」18節
 イエスが自分の目を開いてくださった。イエスが暗闇から光へ、イエスがサタンの支配から神に立ち返らせてくださった。それはイエスが信じる信仰を与え罪の赦しを得させてくださった、それによって神の国を受け継がせるためだと。その一つ一つは、パウロが経験したイエスの恵みの体験であるだけでなく、まさに弟子達一人一人が経験したことではありませんか。そしてそのためにこそイエスは十字架にかかって死なれよみがえられたことこそを、彼らは目が開かれた時に、救いの福音、恵みの福音であると悟って、そのことこそを証しし伝えていったのが、キリストの証人の道ではありませんか。ですからパウロはアグリッパに言います。

4.「日々、悔い改め、日々、新しい」
「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」19〜23
 と。パウロのアグリッパへの弁明には福音の証があります。福音は十字架の言葉であり、イエス・キリストの十字架です。私達がキリストの証人であるなら十字架の証人であり、罪の赦しの証人です。イエスは今日も罪深い私達のためにこそ福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と遣わしてくださいます。律法としての証しや宣教ではなく、その福音に安心し平安のうちに真に福音を証しできるのは、自分の罪深さを知るからこそです。日々罪示されることも、真に救われているキリスト者には誰でも必ずある過去の重い十字架も、それは蓋のできない大事な導きです。なぜならその罪の重さと痛みを知るからこそイエスが全ての重荷を背負ってくださっている福音の平安に喜び、平安のうちにそのことの証人として遣わされていくことができるからです。ぜひ平安のうちに遣わされて行きましょう。