2020年5月3日


「罪の赦しと平安に遣わさ」
使徒の働き 25章13〜27節

1.「前回」
 前回は、エルサレムからカイザリヤへやって来たユダヤ人達により、新しい総督フェストの前に訴えられたパウロを見て来ました。当初は、ユダヤ人達はフェストに頼んで、エルサレムへ再びパウロが連れてこられるところを密かに襲って殺害しようと計画していましたが、フェストはすぐにカイザリヤへ戻らなければならないと言い、ユダヤ人達に一緒にカイザリヤへ上り訴えるように言ったことに始まっていました。人間のいかなる力や悪知恵による謀略も神がパウロへ与えた約束と計画の前には成らず無力であることをまずは示されていました。フェストの前でも、ユダヤ人達は、「人の前」での律法に対する敬虔さこそをプライドとしている人々にも関わらずに、その律法を動機とした信仰は、結局は自分中心となり、神の前の自分を見失い、人間的で愚かな行動や主張しかできないのに対して、パウロは、「人の前」では孤独で困難ではあっても、「神の前」にある信仰に支えられてこそ、フェストの前でも恐れることなく堂々と潔白を主張し、最後には、エルサレムで裁きを受けるのではなく、皇帝カイザルに上訴すると言ったそのところまでを見て来ました。そのようにパウロは、イエスが「あなたはローマでもわたしのことを証ししなければいけない」と約束した通りに、ローマへと導かれて行くのですが、そのローマへと移されるまでの出来事が続けて書かれています。

2.「フェストの言葉」
「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た。 」13節
 アグリッパ王とベルニケという人物が登場しています。アグリッパ王は、ヘロデ・アグリッパ2世というユダヤの領主です。彼は、ヘロデ大王の曾孫で、ローマとは親密な間柄にありました。ベルニケはアグリッパの妹ですが、もう一人の妹は、24章でも見て来ました、フェストの前任の総督であった、ペリクスの妻ドルシラです。ですから、ベルニケとドルシラは姉妹になります。ベルニケはいつも兄のアグリッパに付き添って行動していたと言われています。その二人が、フェストに挨拶をするためにカイザリヤへやって来たのでした。アグリッパはこの新しい総督フェストととも親密な間柄であったようです。
「ふたりがそこに長く滞在していたので、フェストはパウロの一件を王に持ち出してこう言った。「ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。 私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。」14〜15節
 フェストはアグリッパにパウロのことを話します。率先して話したということではないようで、「二人がそこに長く滞在していたので」とある通り、すぐにカイザリヤを離れるのであれば別に話をする必要もないことであり、長い滞在のゆえに彼らの交わりの時間が多かったゆえに、話す機会があったという程度のものであったことでしょう。フェストは自分がエルサレムへ行った時のことから話し始めますが、彼はアグリッパにはその時にユダヤ人達に対してこう言ったと述べています。
「そのとき、私は『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない』と答えておきました。」16節
 と。しかし25章の初めでフェストとユダヤ人達のやりとりは、こうあります。
「ところがフェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし自分はまもなく出発の予定であると答え、「だからその男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが、私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい。」と言った」4〜5節
 こうありました。そこでフェストは、間も無く出発する予定だからと、時間のなさのゆえに、訴えたいことがあるのなら、一緒にカイザリヤへ上り訴えるようにと言っただけでした。もちろんその時、16節『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない。』と実際に言ったとも言えるかもしれませんが、同時に、言わなかったとも言えます。少なくとも4〜5節のところではその文言を伺うことはできません。16節の言葉にある、『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない。』という言葉自体はまさにその通り正しいことであり、ローマの訴訟法に従った正しい手順ではあります。しかしフェストは、25章9節で、ユダヤ人達の歓心を買うとして、翌日の法廷でもユダヤ人の要望の通り、パウロをエルサレムでの法廷へ引き出すように誘導しようとしていたともありましたから、最初にユダヤ人達からエルサレムに連れてくるように求められた時に、16節の客観的な正論で答えるような言い方をしなかったのかもしれません。ところがアグリッパには、彼はユダヤの領主とは言え、ローマに近い人間でありローマの文化に慣れた人間です。ですからそのアグリッパの前では正しいやり方をして来たことを示すためにフェストは本当は言ってもいなかった16節の言葉をここで言ったかのように述べているとも言えるのです。体面や体裁を上手に取り繕うということは人間の都合のいい対処方としてよくあることで、自分にもあります。しかしこのことは、人間は、それがどんなに権力の座に座っているものであったり近しい親しい間柄であっても都合の悪いことや真実は言わなかったり、都合のいいことばかり言ったり偽りがあったり、自分中心さや矛盾は必ずあることを物語っています。私自身はもちろん人間はどこまでも罪深いのです。それはこの後も見ることができます。

3.「フェストは正しい裁きをしない」
「そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか。』と尋ねたところが、」17〜20節
 確かにカイザリヤへ帰り、翌日には裁判を開いているのは事実でした。しかしここでフェストはアグリッパにはっきりと言っています。ユダヤ人の訴えは、「私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。」と。ローマの法廷で訴えにたるような事実も証拠もないとフェストは認めています。そして事実、訴えの内容は、「彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロが主張していること」だとまでわかっています。もちろんそれは誤解してはいけないのは、ユダヤ人ではなくパウロが主張したことであり、ユダヤ人の訴えにあったことでは全くありませんでした。つまりどういうことかというと、フェストは、そこまでわかっているのなら、訴えをエルサレムに持って行く必要もカイザルへ持って行く必要もなく、パウロを無罪で釈放しなければならなかったのです。そうでなければローマ市民を不当に拘束することにもなるでしょう。しかしそれをフェストはしていません。しかもここでアグリッパには、20節に「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか。』と尋ねた 」とフェストは言っていますが、しかし実際は、このような問題をどう取り調べたら良いかわからないから、パウロに「エルサレムで裁判を受けたいか」と尋ねたのではなくて、9節を見ると「ユダヤ人の歓心を買おうとして」そう尋ねたことが書かれています。ここでもフェストの八方美人というか、自分に都合のいい発言が見ることができます。むしろ彼が正しい裁判官であるなら、そんな質問をする必要もなく、パウロを釈放する判断も十分にし得たはずなのです。それは26章の最後でアグリッパがパウロの話を全て聞いた上で、「もしカイザルに上訴しなければ釈放されたであろうに」(26:32)とあることからも明らかです。しかしフェストは「人の目」「人の前」を気にする余り正しい裁判をできていないのです。それは皇帝の信託を裏切っていることにもなりますが、これはフェストにとってはまさに神は皇帝カイザルですが、ユダヤ人達同様、「人の前」を中心にする余り、彼らローマ人にとっての神である皇帝の「神の前」も失われ、結局、自分中心になっているという面白い皮肉も見ることができます。

4.「すべてに働いて「証し」」のために導き用いる主」
 しかし、そのような人間の罪深ささえも全てご存知で、それさえも用いられた上で、パウロは「釈放されず」、ローマのある意味、保護の元、ローマまで導かれているくことになるという、背後のイエスの約束の完全さと、働きと実行の矛盾のない完全さにこそ、私たちに与えられている信仰は驚かされます。
 そして不思議なことに、アグリッパがフェストからそのパウロの話を聞いた時、自分もパウロから話を聞いて見たいと言い、その通りにパウロはアグリッパにも証しをすることにもなるのです。パウロは一囚人のような扱いを受け、ユダヤ社会から罵られ殺意も含めた敵意を向けられ、一人孤独でありながら、このように時の権力者である総督や、王にまでも証しをする機会が与えられるというのは、パウロが予測し計画していたことでは決してありません。しかしそのパウロの思いや計画などをはるかに超えてイエスはパウロをどこででも証しする時を備えておられる恵みの計り知れない大きさを教えられているのではないでしょうか。綿密な話し合いや知恵による計算や価値観の総意などで対象や時を定めて効率的にとか合理的にとかで証しをし、計画通りで右肩上がりの効果を出して行くことが「宣教」「伝道」だと人は思いやすく、その通りになることが祝福だとも思いやすいものです。そしてその通りにならないと、失望や悲観、強迫観念が生まれ、批判や裁きあいが教会に生まれることも少なくありません。教会は福音の家であり、平安を与えるところ、愛し合うところであるのにもかかわらずです。結局、人間中心の価値観に導かれた計画はどんなに合理的で理想的にことが運んでも、律法主義に帰着します。それは目に見えた繁栄があり、行為義認の一時的な世が与える平安があっても、イエスが与えると言われた「世が与える事のできない平安」という意味での「平安の家」ではなくなります。そのように「キリストの証人」としてのその「証し」は律法ではないし、律法主義の範疇でもないのです。パウロを見ればわかります。どんな予期せぬ艱難があり迫害があり計画通りの実を結ばず思いもしないところへと導かれ、失敗し挫折し孤独であっても、いつでも「神の前」の自分に導かれ、悔い改めとイエスが与えると言われた平安に新しく立たされ、思いもしない証しの場が備えられている。宣教も証しも律法ではない、イエスが備え導き、平安のうちにさせる「福音」なのです。だからこそ強迫観念や律法主義に駆られる熱心は決して真の伝道ではないのであり、喜んで証しをして行くところにこそ真の宣教があるのです。

5.「フェストは人間を表す:その罪のために」
 さて、フェストはその名によりアグリッパの前にパウロの尋問の席を設けます。そこでも、フェストは言っています。24節以下ですが、
「そこで、フェストはこう言った。「アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。 」24〜25節
 フェストは、ここでも彼には死罪に当たることは何一つしてはいないと言っています。そうであればそこで釈放すればいいのです。しかしユダヤ人の歓心を買おうとして、エルサレムの裁判をしたいかと質問したから、パウロはカイザルに上訴すると言ったにすぎません。彼がこの後、カイザルへ上訴するための理由なども、そのユダヤ人の歓心を買うための質問がなければ釈放で解決したはずなのです。しかしそれができなかったフェストであり、その矛盾に気づかず自分の地位とプライドを誇示しようとするフェストなのです。ところがフェストは決して人ごとではない。フェストの姿も、そしてユダヤ人の姿も人間の姿であり、私の姿、私の罪であり、人間の姿、人間の罪深さではないでしょうか。裁きの権限を委ねられている裁判官であっても、完全でもなければ矛盾があり罪も犯す、それがユダヤの敬虔さの象徴でもある宗教指導者達やユダヤ人達であってもそうであるし、皇帝、教皇、神父であろうと牧師であろうと、どこまでも罪人であり、自分中心で自分のための行動であり、そのためには偽りや他を蔑むこともあります。それはクリスチャンであっても決して例外ではない、私たちは「義人であり同時に罪人」です。むしろ自分は自分の行いを根拠に人より敬虔だ思いながら、その自分の神の前の罪深ささえ気づかないで、パリサイ人のように祈り、隣の取税人のようではないことを感謝しますと、自分の罪深ささえ忘れ軽んじるものです。私自身がそうであることを気づかされ刺し通されます。
 しかし、そんなどうしようもなく罪深い弟子達、周りの十字架につける人々、いや私のためにこそ、そのような罪の深さ醜さ身勝手さの現実をご存知の上でこそ、イエスはその罪の贖いのため、罪の赦しを与えるために十字架にかかって死んでくださり、日々、罪の赦しに安心して新しい命の道に遣わすためにこそよみがえってくださった、それが福音であり、そのイエスの死といのちに日々与らせるのが、私たちが受けている福音の恵みではありませんか。
 今日も「神の前」にある自分、それはどこまでも罪深い自分であることを改めてみ言葉から気づかされ刺し通されます。悔い改めに導いてくださっています。その通りに罪を悔い改めましょう。そしてそこにまさにイエスが、イエスの方から、手を差し出し「受けよ」と提供されている、罪の赦しとの宣言をそのまま受け取り、安心してここから遣わされていこうでありませんか。確かに現実は困難で不安な世の中ではあります。しかしイエスはこのような状況でも、私たちを社会、家庭へと使わしてくださり、それぞれのところで不思議な予期せぬ証の場を備えていることでしょう。期待しつつ平安のうちに遣わされましょう。