2020年4月26日


「困難の中でも「福音が動機」の幸い」
使徒の働き 25章1〜12節

1.「前回まで」
 前回は、囚われの中であったパウロが、「キリスト・イエスを信じる信仰」について知りたいという総督ペリクスとそのユダヤ人奥さんに呼び出され、二人にその「キリスト・イエスを信じる信仰」を語った出来事でした。総督夫妻という影響力のある権力者を前にしても、パウロは決して聞こえのいいことを言うような方法で信じさせるように導くようなことはせずに、あくまでも律法と福音の言葉で「キリスト・イエスを信じる信仰」を伝えました。ペリクス夫妻は、その最初の言葉である律法から、正義と節制で思い当たることがあり刺し通され、それが裁きのことに関わるので恐れました。それこそ律法の健全な働きとして、十字架の福音に導かれるための備えであったのですが、ペリクス夫妻にとってはそのパウロの語る教えは都合が悪く気に入らなかったのでしょう。悔い改めることができずパウロをそのまま帰してしまいます。そのような機会が2年間、何度もありましたが、結局はペリクスはユダヤ人の機嫌を取ろうとしてパウロを解放もせず悔い改めることもなかったのでした。人間の打算や価値観からみれば、もし有力者や権力者が救われなら教会にとって非常に有益なことになるのだからと、人間的な考え方では、伝道し福音を語るにももっとうまくやればいいのにと思うかもしれません。そんな聞きたくない、律法や罪や悔い改めから語るのではなく、聞こえのいい、躓かないような優しい言葉から語って、信じた後に律法で導けば合理的ではないか。つまり「福音が最後の言葉で福音によって遣わされる」のではなく、福音を最初の言葉にして律法を最後の言葉する、そんな伝道の方が効率的でうまくいく。現代の資本主義や消費主義に慣れ成果主義に浸かっている私たちにはそのように思えるかもしれませんし、実際、そのような手法の教会が成功しているようにも見えることでしょう。しかしパウロはどの状況でも、誰に対しても、律法と福音の言葉、律法を最初の言葉、そして福音を最後の言葉として語っていったのでした。それが神の前にも人の前にも誠実な宣教でもあると、私たちは学ぶことができたのでした。さて、そのペリクスから総督がフェストに代わります。パウロはもう2年以上、ローマ兵によってカイザリヤの兵舎に捕らわれの身です。

2.「再びユダヤ人たちの陰謀」
「フェストは州総督として着任すると、三日後にカイザリヤからエルサレムに上った」1節
 フェストは管轄するエルサレムへやってきます。2年前、ユダヤ人達は祭司達と議会を巻き込んで、パウロがもう一度議会へ招集し連れてこられる途中でパウロを殺害するという陰謀を立てましたが、失敗に終わっただけでなく、時の総督ペリクスへの訴えも結局、総督が判断を下さず終わり、ユダヤ人と祭司長達のパウロを捕えて殺害したいという計画も2年を過ぎていました。新しい総督フェストがエルサレムへやってきた時、彼らはそのチャンスを逃さず、再度、動き出すのです。
「すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを訴え出て、パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。」2〜3節
 彼らはこの2年間も諦めていませんでした。総督へすぐ訴え出ます。パウロを取り調べるからパウロをエルサレムへ呼び寄せて欲しいと。しかしそれは本当の理由ではなく、真の目的は2年前と何ら変わっていません。パウロが連れてこられる時に途中で待ち伏せしてパウロを殺害することが本当の目的でした。パウロへの執着心と殺意は弱まることを知りません。しかし前述の通り、どれだけ権力と数による巧妙な謀略がパウロを襲ってきたとしても、人の計画はイエスの約束と計画の前には無力です。

3.「イエスの計画の前に人の計画は無力」
「ところがフェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし、自分はまもなく出発の予定であると答え、「だから、その男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい。」と言った。」4節
 フェストは「間も無く出発の予定」であると答え、カイザリヤへ一緒にやってきて訴えるようにと返しました。フェストのエルサレムへの滞在期間は6節に「八日あるいは十日ばかり滞在」とありますが、カイザリヤからパウロをエルサレムへ連れてくる手はずをするには時間が十分ではなかったのでしょう。フェストは祭司長やユダヤ人たちの計画を知っていてパウロを守ろうする意図があるわけではありません。むしろフェストが「ユダヤ人の歓心を買おうとした」(9節)とある通りに、パウロの味方をして故意に守ろうとした訳でもなかったことも窺い知る事ができます。ですからフェストは本当に「間も無く出発の予定」でユダヤ人たちの要望には答えられなかったのでした。ですからここでも、パウロ自身はもちろん全くそのような動きがあったのも知らなかったことでしょうし、何かエルサレムの教会の誰かがその陰謀を聞きつけてローマ兵に働きかけたというようなこともありませんでした。ユダヤ人のその計画は成っていかなかったのですが、イエスがパウロに与えた「あなたはローマへも行き、わたしのことを証ししなければならない」という約束の計画の前には、彼らのどんな作戦も力も、権力や仲間を駆使しての上手く行きそうに思えたであろうその計画も全く無力なのでした。もちろんイエスがパウロを守ったということも真実ではありますが、それは「主の御心と計画に従って」この時、ユダヤ人の計画から守られたということだと言えるでしょう。この後を見ると、それでもパウロへのユダヤ人の攻撃は止まず、フェストがユダヤ人たちをアドバイスした通りに彼らはフェストと一緒にカイザリヤへと登るのです。

4.「フェストの前にて:律法を動機とする人々」
「フェストは、彼らのところに八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、カイザリヤへ下って行き、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。 」6節
 カイザリヤへ到着し、翌日、フェストは裁判にパウロの出廷を命じています。そして7節にある通り、そこにはエルサレムから下ってきたユダヤ人達もそこにいてパウロを囲み訴えるのです。しかし彼らのその殺意も目的も2年間変わらなかったように、パウロを訴えるその訴えに証拠を立てることができないということも全く変わりませんでした。つまり本当に事実も証拠にも基づかない、ただ彼らの殺意や感情に先立つものは何もない、そんな行動であったという事です。繰り返しになりますが、前回の訴えの時と同じように、宗教指導者たちがそこにいて、律法をよく知りよく守る敬虔なユダヤ人達もそこにはいたでしょう。彼らも信じる信仰があった事でしょう。しかし律法に基づき、律法を動機とし、律法を基準とし、律法によって価値を測るその信仰は、人間中心を超えることができません。彼らは自分の正しさや正義に捕らわれ「裁き」の正義で行動するがゆえに「神の前」の罪深い自分を見失っています。いや「神の前」そのものを見失い、客観的にみれば感情的で矛盾した正義であると私たちは気づくその正義に、まさに感情と人間的な衝動に任せて邁進しているのです。律法はもちろん神から聖なる言葉であります、神が、誰一人例外なく、それが大祭司であっても牧師であっても、神の前に罪と罪人である事を示し刺し通すために用いるからこそ聖として働くのですが、人間が自分や人のために律法を拠り所としたり、あるいはそれが神殿のため、教会のため、宣教のためと、どんな崇高な目的のためでも、律法を動機とし律法によって導こうとするなら、それは矛盾し限界があり、むしろ神の御旨に盲目にさせ逸れさせ、そして結局は人間中心や狂気にさえなる事を教えられます。それはカルト等はそうですし、キリスト教会でも、本来は教会の健全さは福音にこそかかっているのに、そうではなく何か律法を最後の言葉にした律法による運営によって、どんなに上手く行きどんなに数的な結果を残せたとしても、教会員に平安がなかったり常に裁きあいがあったりと、知らず知らず律法主義やカルト的要素と隣合わせになっていることもあるのではないでしょうか。律法を動機とした信仰や宣教や教会ではなく、私たちに与えられている恵みは、福音を動機とした信仰、宣教、教会である事を改めて気付かされます。そのようなユダヤ人達の訴えに対してパウロは弁明し「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません。」とはっきりというのです。しかしです。ここでフェストは明らかにユダヤ人達からエルサレムにいた時に聞いていた要望に応えようとします。
「ところがユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか。」と尋ねた。」9節
 フェストはエルサレムでの裁判を願うかと聞いていますが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたとその動機がはっきりと書かれている通り、それはパウロのための質問ではなくユダヤ人のための質問でした。パウロはこの時もユダヤ人たちは何を企んでいるか、はっきりとは分からなかったでしょうけれども、前回はっきりと知ったその陰謀のこともありましたから、エルサレムに行けば何からの策略はあって命の危険が圧倒的に高まることは推測できたことでしょう。しかしここでパウロは焦らず逃げる思いでもなく冷静に答えます。

5.「フェストの前のパウロ:しかし神の前のパウロ」
「するとパウロはこう言った。「私はカイザルの法廷に立っているのですからここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。 もし私が悪いことをして死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかしこの人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」 10〜11節
 パウロは言います。「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません」と。本当に彼らの訴えが正しく証拠があり、自分がその訴えに当てはまる悪い事をしているのであるなら、死罪であっても逃げも隠れもしない。法律にはきちんと従いその行為の発生地であるエルサレムでも裁判を受けるとパウロはいうのです。つまりパウロには人の前だけでなく、決していかなることも隠し通すこともできない「神の前」にある自分をしっかりと認識してことがこの言葉にも見ることができます。そして事実として、ユダヤ人たちはその訴えについて何ら証拠を示すことができないのですから、彼らのいう事件の発生地であるエルサレムに上って彼らの訴えに従って裁判を受ける必要も全くないのでした。パウロの言っていることはもっともなのです。フェストは陪席の者たちと協議したうえで「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」と言ったのでした。
 しかしここでパウロがカエザルに上訴すると言ったのはなぜでしょうか。フェストはローマ皇帝に代わって同じ権威でここで裁判を開き、その判断もローマ皇帝の権威として下されます。証拠がなければフェストはローマ市民であるパウロを有罪にすることもできないですし、パウロの弁明に反論の余地はないのですからエルサレムに行く必要もありません。この先見て行くと分かりますが、フェストはアグリッパ王とパウロについて話している場面で「パウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと願い出た」 (25:21)と上訴のことを述べています。ユダヤ人のその圧倒的な憎悪と殺意のこと、そしてフェストがユダヤ人に気に入られようとしていることを察してパウロは保護のために上訴をしたと思われるのです。ちなみにですがその時、フェストからパウロの話を聞いたアグリッパはパウロから話を聞きたいとフェストの名で呼び出し話を聞くのですが、話を聞いて最後、アグリッパはフェストともに「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」といい、そしてアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。」(26:31以下)  と言ったことが書かれています。アグリッパでさえも釈放されたであろうと判断できるその裁判で、パウロがカイザルへ上訴したのも、もちろんパウロの言葉であり、パウロが警戒して保護を求めればこそでもあったでしょうけれども、しかしここにもそこにパウロの思いや計画を超えて、パウロ自身やその言葉や考えや弱さや心配までも全て用いた上で、約束と計画を実行しようと働いておられるイエスに私たちの信仰は気づかされるでしょう。

6.「神の前にて:福音を動機とする人々」
 多くの困難と災いです。しかもずっとパウロは一人です。もちろん面会は許可されていますから教会の兄弟姉妹やルカ自身も会いにきたことでしょう。しかし法廷の総督の前でもユダヤ人の偽りの訴えの前にも彼は一人です。しかし目にはそうであり人の前ではそうであっても、神の前には彼は決して一人ではない。事実、イエスはパウロとともにい守っているし、何よりイエスがパウロに与えた「ローマに行ってわたしを証しする」というその約束と計画をその通りに果たそうと働いておられる。パウロも神の前にあって、そのことこそが何よりも見えていて、その確信が彼を強め常に平安と希望を与え彼を立たせ、そして総督の前でも偽りなく誠実に答えさせていることが教えられるのです。イエスから素晴らしい天の宝である信仰を与えられている私達にとって、神の前こそ、人の前にどんなに孤独で蔑まれ罵られて背水の陣でも、その神の前こそ私達の平安です。なぜなら私達のために死んでよみがえられた、それほどまでも愛してくださりともにいてくださる十字架のイエスの前だからです。常に全てのことに働いて益としてくださるイエスの前だからであり、決して裏切らない決して捨てない常にともにいるイエスの前だからです。そして律法によって遣わされるのではない、私達に信仰と平安を与え「安心していきなさい」と遣わしてくださる福音の言葉、十字架の言葉が、私達の新しいいのちとして日々、今日も、今週も、時がよくても悪くても、絶えることなく脈打っているからです。今日もイエスは「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と私達に宣言してくださいます。福音の言葉によってここから平安のうちに遣わされていきましょう。