2020年4月19日


「キリスト・イエスを信じる信仰」
使徒の働き 24章22〜27節

1.「前回」
 前回は、エルサレムから大祭司たちが、弁護人をともなって総督の下にやってきてパウロを訴えたところを見てきました。彼らは心にもない総督への賛辞を並べ立てることによって自分たちの訴えが有利に判断されるように努力はするものの、その訴えは脚色や誇張にあふれた偽りの訴えであり証拠も示すことができませんでした。一方で、パウロは総督こそローマ皇帝から信託されている「地域の民を正しく裁く」お方ですと、重みのある事実を伝えることによって、正しい裁判を求めると同時に、自分は神の前にあって何ら彼らが訴えるようなことはしておらず、彼らは証拠も示せないばかりか、むしろ21節にあるように、「死者の復活のことで」つまり、彼らの律法と預言に矛盾もしないし、何より、パウロが伝えてきた福音の核心である、イエス・キリストの復活のゆえに訴えられていることを示唆するのでした。ユダヤ人たちに遣わされた大祭司たちは宗教の指導者でありながら、神の前を忘れ、人の前の事柄に終始しているのに対して、パウロはどこまでも「神の前」にある信仰であり、それゆえに人の前にもなんらやましい事がない訴えたのでした。その両者の訴えを聞いていた総督のことが今日のところでは書かれています。

2.「ペリクスの対応」
「しかしペリクスはこの道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るときあなたがたの事件を解決することにしよう」と言って裁判を延期した」22節
 まず総督ペリクスは「この道について相当詳しい知識を持っていた」とあります。24節にはペリクスの妻ドルシラがユダヤ人であったともあります。ユダヤ人において、このユダヤ教のナザレ派と呼ばれた異端の一派のことはもちろん、エルサレムで処刑されたイエス・キリストや、著しく増えたキリストを信じる人々のことについて知らない人はいないほどであったでしょう。ですからローマ総督のペリクスももちろん知ってはいたでしょうけれども、ユダヤ人奥さんのおかげでさらに「相当詳しい知識」を持っていたのでした。そこでペリクスは、「千人隊長ルシヤ」、彼は、21章のことで、アジヤからやってきたユダヤ人達の暴動が起こった時に、最初に駆けつけてパウロを捕らえた隊長でしたが、その目撃証言なども踏まえて判断をするということなのでしょうか、千人隊長ルシヤがやってくるまで裁判を延期したのでした。と言っても、26節にあるように、少なくとも、2年先の総督の交代に至るまで、ペリクスによって裁判は再開されることはなかったようなのです。23節にこう続きます。
「そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。」23節
 ペリクスはパウロを裁判の再開まで再び監禁するように命じますが、ある程度の自由が与えられ、パウロの友人達がパウロに会ったり世話をしたりすることを許可したのでした。パウロがローマ市民であり、死罪や投獄に当たる罪は見られないということは千人隊長からの手紙にもあったことからもペリクスはパウロを厳重に監禁するようなことはしなかったのでした。しかしペリクスにはパウロについては別の目的もあったようでした。

3.「パウロが語る「キリスト・イエスを信じる信仰」」
「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。 」24節
 ペリクスの妻ドルシラとありますが、彼女は、かつてクリスチャンの扱いには非常に無慈悲で使徒ヤコブを暗殺した(使徒12:1)あのヘロデ・アグリッパ王1世の娘に当たります。彼女は19歳でしたが、一度シリアの王と結婚し別れこのペリクスと結婚していました。ペリクスとこの妻ドルシラは、キリスト・イエスを信じる信仰について知りたいと思ったようです。わざわざ呼び出してパウロにキリスト・イエスを信じる信仰について話させたのでした。これはパウロが計画し予期したわけでもありませんが、このように図らずもパウロの思いを超えて福音を伝える機会が備えられたのでした。パウロはこの自分を監禁し裁判をしようとする総督夫妻にも「キリスト・イエスを信じる信仰について」語るのです。しかしその内容が重要です。

A,「まず律法から:律法ははじめの言葉」
「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。 」25節
 パウロは、「キリスト・イエスを信じる信仰について」彼らに語るのですが、まず彼は、
「正義と節制とやがて来る審判とを論じた」のでペリクスは恐れを感じたとあるのです。つまり、パウロは「キリスト・イエスを信じる信仰」を語るとき、まず律法から語ったということです。律法というのは、律法と福音の区別で言えば、「神が人に求めておられる人がしなければいけないこと、してはいけないこと」であります。そこから始め、その律法を語る中で、おそらく「ペリクスは恐れを感じ」とあるのは、そのパウロの語る律法の言葉から、正義と節制とやがてくる審判について心刺され、心揺さぶられ動揺することがあったのでしょう。前回のところで、大祭司と弁護人のテルトロは、ペリクスに会うなり、歯の浮くような心にもないおべっかから始め、総督の調子を取ろうとしましたが、それはある意味ペリクスの性質や日頃の裁判の傾向をもちろん知っての戦略でもあったはずです。それに対して、パウロのペリクスに対する言葉である、「閣下が多年に渡り、この民の裁判をつかさどる方である」という言葉も、ペリクスの的を射ている皮肉とも言えるかもしれません。彼はローマから託された正義、正しい裁判を行う上で、何か正しくない、やましいことがあったとも思われます。それは節制、ESV聖書ですと「セルフコントロール」とありますが、自制に置いても何か彼の罪深さがあったことでしょう。その罪の意識は当然、審判における怒りにも繋がってきます。ペリクスは、パウロが語る「キリスト・イエスを信じる信仰」のまず最初の律法で刺し通され、恐れを抱いたのでした。しかし、そこでペリクスは、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言って、パウロを帰すのでした。

B,「悔い改めないペリクス」
 律法によって刺し通されたときに、ペンテコステの日のペテロの説教の時から福音への招きは変わりません。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」使徒2:38
 しかしペリクスは、律法で刺し通されながらも悔改めませんでした。そこには26節にもある通り、パウロから金銭的な利益をもらいたいという下心、強い物質的な欲望があったからでもありましたが、彼はそれから何度もパウロを読んでは「キリスト・イエスを信じる信仰」のことを聞きますが、しかし彼は2年の間、悔い改めることはなかったようです。そして27節にある通り、総督が後任に変わるときには、ユダヤ人に恩を売るために、パウロを牢獄から解かなかったのでした。キリスト・イエスを信じる信仰への関心がありながら、しかし結局、ユダヤ人の方に自分の利益を感じ、ユダヤ人の利益になるように計らったのでした。この後の、ペリクスと妻のドルシラはキリストを信じる信仰については、どのようになったのかはここではわかりません。

C, 「律法と福音:福音が最後の言葉」
 この所から教えられることは何でしょうか?それは「キリスト・イエスを信じる信仰」を伝えるとは、ここでも律法と福音の言葉であるということです。それも福音が最初の言葉で律法が最後の言葉という意味での律法と福音ではなく、律法が最初であり、福音が最後の言葉であるという意味での律法と福音のみ言葉です。つまりもちろん、律法は信仰も救いも与えない、刺し通し、殺す言葉ではあり、福音こそが信仰を与え義認を宣言する救いの言葉ではあるのですが、その前にはこのように福音への案内係として、人の「神の前」での罪深さを明らかにさせ、キリストの十字架が救いのためにどうしても必要であるとさせるための不可欠な備えとして「律法」が語られることが必要なのです。

D,「律法、あるいは罪や悔い改めを語ることは宣教の妨げなのか?」
 このところは、パウロは福音宣教においてストレートすぎる、実直すぎで、何の策もないと思う人はいるかもしれません。人間中心の価値観に照らしたり、合理的に推論し期待するような結果を望むのであるなら、時の権力者で影響力のある人を「信じさせ」救いに「導く」ためには、もっとうまくやればいいのに。そんな聞きたくない都合の悪いところには触れないで、つまり律法や罪や悔い改めなどは語らないで、自由な解釈で、心地よくなるような、あるいは心理的に安心するような、彼が聞きたいような、感動するような話から始めればいいではないか、そのように自由に都合よく解釈された「福音」から始めて、信じたら律法を教え、律法で導いていけばいいじゃあないか、それが合理的だ、現代の福音宣教もそのような教会の方が「結果」が出ているだからと、思う人もいることでしょう。だから福音が最初の言葉で、律法を最後の言葉、導く言葉にした方が、成長するんだと。現代はそのような律法を最後の言葉にして結果を出すあり方の方が合理的で思えることでしょう。事実、ペリクスと奥さんは、ここでは悔い改め、信じるには至りませんでした。2年間の間に何度も話す機会があったのに。だから時の権力者、有力者を「信じさせ」救いに「導け」なかったのは、教会の成長や安全にとって「もったいない」「失策だ」とそう思うでしょうか。そのような人間中心の価値観や、まさに栄光の神学からみれば、失敗に映るかもしれないし、合理的でもないかもしれません。二人は、悔い改めなかったのですから。「人の前」だけ見る人、「人の前」に重きをおく人にはそう思えるでしょう。

F,「福音とは何か?から真の「キリスト・イエスを信じる信仰」が導き出される」
 しかしです。パウロは「神の前」にある自分こそ彼の信仰の前提でした。それはここでも、「神の前」にあるからこそ、偽りでも脚色でも、都合のいい解釈でもない、「神の前」にある真の「キリスト・イエスを信じる信仰」を誠実に、忠実に彼は語ったのではないでしょうか。福音とは何か。それは、人中心の勝手な解釈。人の都合や欲求や感情に合わせた、都合のいい空想話や虚像や虚構を示して、心理的に満足させたり感動させたりすることではありません。パウロにとって、福音は「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(第二コリント2:2)その言葉であり、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」だが、「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵」(1:23?24)、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(同)それがパウロにとっての信じる福音でした。その十字架の言葉こそ愚かでもつまずきでもなく、神の力、神の知恵として、罪の赦しと新しいいのちが信仰として与えられ平安となるためには、律法が最初のことばとして語られ罪を示し、ペリクスとその妻が神の前に罪人であることを示すことこそ、ペリクス夫妻が唯一の救いである十字架のイエスとその平安を知るためには必要なことです。パウロは人の前に迎合し人間的な成果を望み人に示そうとする「人の前」の宣教者ではなく「神の前」に誠実で忠実な宣教者であったのです。このパウロにこそ本当に忠実なしもべは何かが教えられていると言えるでしょうし、このような忠実な宣教こそ何より伝えるその相手に対しても、人間の期待や願望で都合よく作り変えられた虚像の福音とその後の「最後の言葉としての律法」で導くのではない誠実で正直な福音宣教とも言えるでしょう。

G, 「私たちの信仰でもある」
 そしてもちろんこれは私達の「キリスト・イエスを信じる信仰」であることも忘れてはいけません。私逹も日々、律法と福音の言葉によって信仰を導かれています。もちろん律法やその行い、私逹の良い行いが義認や救いの根拠や拠り所には決してなり得ません。福音のみです。しかしだからといって私逹に律法は必要ないのではありません。私達は救われてなおも日々罪人です。今日悔い改めた罪を明日もしてしまうものです。そうでなくても何より私達は第一の戒こそを完全に行えない自分であることを日々、気づかされるものです。神をも人をも完全に愛せない者。罪があっても覆い隠したり「自分はそんなに悪くない」「自分は正しい」としてしまう者。正しい神の前にあって自分に正直になるならそのような罪深い自分を認めざるをえません。私達は神の前にどこまでも罪人です。信仰によって義と認められてはいますが、義となったのではない、どこまでも罪人であり、「義人にして同時に罪人」です。しかしそんな罪深い私たちのためにこそ、神はイエスを約束の通り、世に与えてくださり、十字架の死に従わせ、死からよみがえらせたのでしょう。そのキリストの復活のいのちに日々与かって生きることこそ、キリストのバプテスマに与る幸いだとパウロはいっています(ローマ6章)。そうであるなら私達のキリスト・イエスを信じる信仰の歩みは、日々罪を示され、日々悔い改め、日々罪赦され、日々新しくされ、日々遣わされることにつきます。そのためにこそ律法は語られ、罪は日々示され、私たちは悔い改めに導かれるのです。

H, 「宣教の評価は、人の基準に決して縛られない。それは神の前にある」 
 ですから、人間の期待通りにはならず、ペリクス夫妻は悔い改めなかったのは事実であっても、それは私たちの心配することや、それで宣教の良し悪しや、成功や失敗を決めることも全くナンセンスです。なぜなら、信じさせるのも、救うのも、信仰へ導くのも、人のわざ、パウロのわざ、ではなく、イエス・キリストと聖霊のみわざ、み言葉が語られるところに働く、主のわざだからです。ですから、パウロは忠実にそのことを行った。そのことを私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。

4.「結び:派遣」
 私たちも、神の前にあり、いつでもみ言葉が語られています。悔い改め、十字架の言葉に生かされるようにと。そこにこそ、この不安と恐れの時代と世にあっても、世が与えることが出来ない、イエスだけが与えることができる平安の日々があると言えるでしょう。イエスは今日も宣言されます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひここから、罪赦され、安心して遣わされて行きましょう。