2020年3月22日


「勇気を出しなさい」
使徒の働き 23章11節

1.「前回」

 23章のはじめ、アジヤから来たユダヤ人によって始まったパウロに対する暴動が、パウロの弁明によっても治まりがきかなくなり、次にパウロはユダヤ人議会へと連れてこられました。議会でパウロは、自分は「神の前」にあってなんら訴えられるようなやましいことはないと始めました。「人の前」では圧倒的に劣勢で、味方も仲間もいない、孤独な状況に彼はおかれましたが、そこで彼は「人の前」に正当性の根拠や証明する方法を求めたりはしなかったのでした。それに対して、大祭司や周りの人々は、どこまでも「人の前」の根拠や方法でパウロに対抗しました。パウロの口を打つように命じたり、それに対して、パウロが、大祭司は「白く塗った壁」だと、そのきよさ正しさは外面だけであり、内側は汚れていると言ったことに対して、周りの大祭司の取り巻き達は、権威ある大祭司になんて口をきくんだとと戒めます。他の議員達も、パウロが自分は死者の復活のことで告発されていると言ったことに対して、やはり、人の前を気にした応答しかできませんでした。結局、議会も混乱に包まれ、パウロはそこからもローマ兵によって連れ出されたのでした。パウロの状況はなんら好転せず、混乱と危険はずっと続くのですが、しかしそこでイエスがパウロに語りかけたのでした。


2.「勇気を出しなさい:苦難にこそイエスはおられる」

「その後、主がパウロの側に立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。」

 これまで見てきた、群衆の前も、続けて起こった、議会の前も、「人の前」には、全く好転しないように見えるこの状況、人の期待からみるなら、全く期待はずれで、望まない状況です。敗北感と挫折感にも感じるこの劣勢、そして、孤独と恐怖の中にあるパウロ。しかしここにもはっきりとわかります。それは、このような地上のどん底とも思えるようなところに、キリストはおられないのではない。それどころか、このどん底、まさに「死の陰の谷」にこそ、イエス・キリストはおられる。それも、パウロの前に立って、パウロを責めるのでも裁くのでもない、律法の秤でパウロを断罪もしません。イエスはパウロの側に立っています。ともにあります。そして「勇気を出しなさい」と言われる。そのようにイエスはここにこそおられることをこの箇所はまさにはっきりと私たちに伝えているのがわかるのです。

A,「イエスは約束を変更しない」

 この言葉にはもう何重もの幸いと恵みが溢れています。まず第一に言えることは、イエスは決して約束を変えないし弱めていません。この言葉はいくつかのイエスの約束を思い起こさせます。一つはパウロがコリントで大失敗をした時です。18章のはじめのところでした。コリントの会堂でパウロが語ったときに、ユダヤ人達は福音を受け入れず暴言を吐きました。パウロは怒り感情に任せて言いました。18章6節でしたが、

「あなた方の血は、あなた方の頭上にふりかかれ、私には責任が無い。今から私は異邦人のほうに行く」

 そう言って、パウロは会堂を出て行きました。その後、パウロは、恐れ、語ることができず黙ってしまったのです。しかしそんなパウロにイエスは語りかけます。その励ましからもパウロがまさに恐れ、黙ってしまっていたことがわかるのですが、イエスはパウロにこう言いました。

「ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。誰もあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、私の民がたくさんいるから」と言われた。」18章9節以下

「恐れるな。語り続けよ。黙ってはいけない」とイエスはこのようにどこまでも励ましますが。なぜですか?イエスが安心していい。恐れる必要がない、と言ってくれるその根拠、その保証はなんですか。それはこの言葉、約束、「わたしがあなたとともにいるのだ」であることがわかります。この時からイエスは全く変わりません。責めるのでも裁くのでも無い。「恐れるな」と言い、「勇気を出しなさい」と、時と場所が変わり、状況がどんなに悪くても、イエスの語りかけ、励ましは全く変わりません。そして、事実として「あなたとともにいる」も全く変わっていないでしょう。今日の11節にありました。

B,「主は変わらずともにいる」

「主がパウロのそばに立って」

 と。イエスは変わらず、パウロが直面したエルサレムのこの困難な中でも、常にそばにいるのです。変わらずともにいることがわかります。ですから、この時、この場所、この状況でも、「恐れる必要はない」であり、「勇気を出しなさい」なのであり、それはイエスが変わらず本当にともにいるからこそ、決して気休めでも、口だけの実態のない、宣伝文句ではなく、本当にそこにイエスはともにある、だから本当に恐れなくていい、本当に安心していい言葉であり、その実現がここにはあるということなのです。

C,「聖霊を与えられているものすべての約束」

 そして皆さん。この約束は決してパウロにだけ固有の、特別にパウロにだけの約束ではないことは、よく知っているのではないでしょうか。イエスがご自身の霊であるもう一人の「助け主」を約束されたところでイエスは言っていたでしょう。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はいつまでもあなた方と、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。?その方はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられるからです、」ヨハネ14章16〜17節

「ともにおられる」ーこれは聖霊の約束です。ですから、聖霊を受けている私たちにも、この約束は当然、実現しているということでしょう。そうなのです。私たちに一人一人にとっても主イエスは、先週も今週も、いまも、そしてどんな場所、どんな状況であっても、私たちがイエスにとどまり、信仰とキリストの恵みと福音にあって生かされるものであるなら、イエスがいつでもどこでも、私たち一人一人とともにおられるのです。それが本当の現実であり、私たちに与えられている信仰によってそのことに拠り所と信頼をおいているのであるなら、私たちはなんら恐れる必要はありません。イエスは私たちにも常に語っているのです。「恐れてはならない。勇気を出しなさい」と。イエスがいつでもともにおられるからなのです。

D,「不完全で罪深いからこその約束」

 しかも大事な点は、それはむしろ、信仰が弱り果て、躓き、立てないときは尚更だということです。私たちはそのような時の方が多いものです。日々十分な恵みを与えられても、私たちは同時にいつでも肉の性質によっても生きざるを得ないものであり、ゆえに、信仰にあって義であっても、肉にあっては同時にいつでも罪人でもあります。今日悔い改めた罪でもまた、明日も同じ罪を犯してしまう者です。今日、あの人を愛せなかったと悔い改めても、明日、その人を完全に愛することなどできないものです。神に対してもそうです。私たちの神への愛も信頼も常に不完全です。日々、神を愛せない自分、第一戒を守れないことを悔い改めでも、明日、完全にできるという人はいません。私たちは日々、罪を示され悔い改めるものです。そのように信仰によって恵みにあって生きるといっても、不完全で不十分で常に罪深い、私たちです。主イエスを、信じきれない、委ねきれない、第一にできない、そんな私たちなのです。しかし、そんな私たちだからと、イエスはともにおられないということではないでしょう。常に不完全で罪深いから、あなたととはともにいないといい、その約束は、私たちがいつでも完全に従えているから、私たちがまず神のためにその要求を果たせているからと、そんな制限付きの約束ということなのでしょうか。そんなことはありません。

 まさに使徒18章はその状況です。パウロは、怒りと感情に任せて、コリントのユダヤ人たちの血の責任は自分たちに降りかかれと、見捨て、立ち去り、そして恐れ、語れなくなり、黙ってしまったのです。不完全な罪深い挫折したパウロです。しかしそんな彼にこそ、イエスが語りかけたのが、先ほど読んだ言葉であったでしょう。

「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。誰もあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、私の民がたくさんいるから」と言われた。」使徒18:9

 皆さん、このイエス、このイエスの約束、この現実は、全くの恵みとして、今の私たち、義人であり同時に罪人である、私たちにこそ、イエスは私たちの罪深い現実を全てご存知の上にで、語りかけ、与えてくださっている、約束であり、現実だということです。だからこそ、私たちが罪深いからこそ、イエスは今日も悔い改めとともにその先に、語ってくださっているのです。「恐れるな。勇気を出しなさい。なぜなら、わたしがあなたとともにいるのだから、わたしがあなたを十字架で購ったのだから、わたしが今日もあなたに宣言するのだから、「あなたの罪は赦されている、安心して生きなさい。」と。私たちはこの幸いに今日も生かされているのです。


3.「イエスを指し示し証することこそ」

 このイエスの言葉は、他にも幸いがあります。それは、イエスは、このエルサレムでの彼のことをしっかりと見てご存知で、それを正しく認め、喜んでくださっているということです。パウロは、エルサレムでは、怒り狂う群衆のもとで語りました。福音を語りました。しかし福音を語ったからと、怒り狂う群衆は喜んで受け入れ、信じるようになったとは書いていません。ますます暴動はエスカレートしました。議会でも、神の前の正しさの根拠を示し、大祭司の白い壁を指摘しても、イエスの復活のことを語っても、混乱と分裂が起こるだけで、彼らが信じるとはなりませんでした。人の目から見るなら、なんの成果も見られない結果です。しかし、イエスは、そんなパウロのことをこう言っています。

「あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように。」

 と。イエスは全てを見て知り喜んで、パウロの働きを肯定しているのです。「あなたはエルサレムでわたしのことを証しした」と。つまり人の目に見えて、人の期待通りになり、人の期待通りの成果と結果になったから、祝福される。成功したんだ。主の前に義であるということではないということです。神の前にあって、イエスの心にあって、何が求められ評価され、何が正しいことか、それは、「イエスのことを証しした」かどうかです。それは人間の都合のいい神ではない。イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んでよみがえられた、その十字架と復活の言葉を証しし、イエスを指し示したかどうかにつきます。その言葉は、知恵を求めるギリシャ人やしるしを求めるユダヤ人にとっては、愚かでつまずきであり馬鹿馬鹿しい言葉であったように、多くの世の人には受け入れられず、反発されます。むしろ人間に都合のいい教えで味付けされた、福音のような福音ではない言葉の方が、人は好きで、望ましく、求めているかもしれません。福音のような律法のことばを語り、律法こそを指し示したほうが、ユダヤ人たちや議会の賞賛は得られたかもしれません。罪深い人間にとって律法の教えや律法の導きの方が合理的てわかりやすく、世の中やその社会の営みにあっているからです。しかしそこでイエスを証しすることと、十字架のキリストを指し示すこと、十字架の言葉を語ることを辞めたり歪めたりするなら、人間に与えられた神の国への唯一の道、開かれた門を実は閉ざしてしまうことになるのです。閉ざされた門のこちら側、人の前や地上のことがどんなに繁栄し、成功し、合理的に筋が通り、平和があってもです。

 イエスは、パウロがエルサレムでただ反発を受けるだけで終わったとしても、そのパウロを正しく評価しています。

「あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように。」

 と。パウロは人の前では孤独で仲間もなく誰からも評価されず、なんの成功も収めてないようで、まさに「神の前」では本当になんのやましいことはない。イエスご自身が、「パウロよ、あなたはエルサレムでわたしを証しした、わたしを指し示した」、そのように正しさを証明してくださったのでした。


4.「計画も変わらない」

 そしてこの言葉は、イエスが約束し指し示し、導く先も全く変わらないこともわかります。それは、パウロは、

「ローマでも証しをしなければならない」

 ということです。パウロは19章21節で見てきたように、イエスからエルサレムとそしてローマへ行くこという召命を与えられていました。その召命のとおり、イエスは、エルサレムへと導き、到着させました。そして、その怒り狂う群衆と議会の前でイエスを証しするという使命を果たさせました。そのようにこのところでもイエスはその約束と計画、パウロに与えた召命を全く変えていないし、そして、これからも変わらないということです。それは「エルサレムでイエスを証したように」とあるように、ローマでもです。そこでも困難な使命とはなることでしょうけれども、イエスの召命と計画は本当に全く変わらないし、イエスはご自身が導き、ご自身が励まし、ご自身がパウロに実現されるのです。それはまさに、本当にイエスがパウロとともにいる、だからこそそう言えるのです。そしてそれが真実で事実であるからこそ、イエスが励まされるように「恐れる必要はない」「勇気を出しなさい」、なのです。イエスがともにいることの真実さ、素晴らしさ、本当に幸いではないでしょうか。私たちはこれほどまでの恵みによって取り囲まれていて、守られています。恐れてはなりません。勇気を出しましょう。イエスが私たちとどんな時でも、時がよくても悪くても、どんなところでも、それが荒野であっても、荒れ狂う嵐の海の上、死の陰の谷、明日、たとえ、滅びの日が来るとしてもです。安心しましょう。今日も罪の赦しを受け、安心して、ここから遣わされて行きましょう。