2020年3月1日


「私たちへの最後の言葉は律法?それとも福音?」
使徒の働き 22章1〜30節

1.「前回まで」

 21章後半。パウロがアジヤからやってきたユダヤ人逹に捕らえられ暴動が起き、殺されそうになる寸前のところで、騒ぎを聞きつけたローマの千人隊長と一団がやってきて今度は彼らがパウロを捕らえ鎖につなぎます。ローマ兵は、パウロから事情を聞こうとしますが、ユダヤ人の暴動は激しさを増したため、パウロを兵営に連れて行こうとしました。しかしそこでパウロはローマの隊長に、群衆に話をさせて欲しいと当時の公用語であるギリシヤ語でお願いしたことに、ローマの隊長はパウロが普通の市民であることを知り語ることを許した、そこまでを見てきたのでした。その出来事は、聖霊が導いてやってきたエルサレムであり、その聖霊が、パウロがエルサレムでは捕らえられる、と伝えていたその通りになった出来事です。それは人の目から見るなら、なぜイエス様はそんな災いと試練へと思われるような状況にパウロを置くのかという状況であり、あたかも神が失敗し敗北し、神がそこにいないかかのような状況にも見えるのですが、決してそうではないということを学びました。なぜなら、その苦難の道は、イエス様が歩まれ、またステパノの苦難の道と同じであり、神はその困難な状況にこそおられ、人の思いをはるかに超えて、その状況にこそ計画を立て全てを益とするために導き、その状況を用いてこそ、パウロをその益のために用いられるのだからです。そのことを学ぶ事が出来たのでした。事実、パウロは、そのように暴動になるほどの殺意に満ちた群衆に対して、ある意味、ローマ兵に守られた形で語り出す事ができるのでした。その事が今日のところでは書かれているのです。


2.「兄弟たち、父たちよ」

「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください」1節

A,「福音の力」

 まず注目したいのは、この語り掛けの言葉です。「兄弟逹、父逹よ」というこの言葉です。それは憎しみや恨みや裁きではない、親愛の込めた語りかけです。怒り狂い、殺そうとする相手です。そんな相手に、憎しみや敵意の言葉ではありません。彼は「兄弟逹、父逹よ」と、愛する家族に語りかけるように話し出す事がわかるのです。それは、あのステパノにも見られた事ででした。7章2節ですが、そこにもこうあります。

「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。?」

 と。これは人間の常識や感情では決して理解も実行もできない事です。自分を全否定し、誤解し、憎しみ、殺そうとするそんな相手に対して、愛の語り掛けをし、そしてこれから見て行きますが、律法ではなく福音を語っていきます。それは人間の感情や欲求では決してわかり得ない、行えないことではないでしょうか。しかしそれは、人にはできない、まさに福音とそこに働く信仰と聖霊の働きだからこそ、イエス様がパウロを通して、その恵みの福音のわざをさせているという事がここに見えてくるのです。これは、福音には私たちの思いを超えた神からの無限の行動力があるという事の一つの証しなのです。

B,「律法を動機とするユダヤ人との対称として」

 そして、このパウロの、福音を動機とした福音への信仰による「語りかけ」の言葉は、まさに一方の真逆のユダヤ人逹の律法を動機とした信仰と、対称として描かれていることも見えてきます。前回も触れました。彼らのその怒り狂う行動も、いわば「信仰から」出た行為であると。しかしそれはイエス・キリストの福音から出た福音への信仰ではなく、律法から出て、律法を拠り所とした律法主義的な信仰でしかないと。しかしまさにこのようにパウロの福音と信仰から出た愛に満ちた語りかけとは正反対の、そのような律法主義的な信仰は、パウロのような人への愛を生むどころか、その逆で、むしろ人を裁く剣にしかならない恐ろしさがあるのだ、と前回は触れましたが、そのコントラストです。彼らの律法主義的な信仰は「信仰という名の攻撃」を生みましたが、イエス・キリストの福音から生まれる信仰と行動は、このように、人の感情や欲求や理解をはるかに超えて、溢れてる愛のわざを行わせる事ができるという事が、この「語り賭け」には示されていると言えるでしょう。神の前における真の良い行いと隣人愛を私たちに起こさせるのは、決して律法の動機ではないし律法のためでもないのです。それは福音から、福音を動機にして、福音から溢れ出てくる、良いわざ、隣人愛こそ、罪のない本物だという事なのです。


3.「パウロは何を語るのか?」

 では、そのように呼びかけ語り出すパウロですが、何を語るでしょうか。それもとても大事な事なのです。パウロは彼自身がどう思うか、パウロ自身が何をしてきたかを語るでしょうか?自分を誇るような何か、自分を指し示すような何かを語るでしょうか?あるいは律法の指示的な教えを語るのでしょうか?

A, 「自分の何について?」

 2節以下でパウロの語るメッセージの内容が書かれています。もちろん、そのはじめは、自分のことを語ってはいます。しかしそれは自分の紹介です。どんな自分ですか?3節、自分の生い立ち、そして彼がユダヤ人の中でももっとも厳格なパリサイ派の教育を受けてきて、律法に熱心なものとして育ったのだと。そのように自分のことももちろん語りますが、4節以下を見るとわかる通り、決して自分を誇るような内容をではない事がわかります。それは「自分が何をしたか」ではありますが、その証しは、パリサイ人にありがちの、「自分がどんなに立派なことをしたのか」という証ではありませんでした。

B, 「罪深い現実の自分」

「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。」4〜5節

 このようにパウロがどんな自分を語っているのかわかるでしょう。それは自分が神の前にどれだけ立派であるかということではない、自分は自分が伝えているキリストの道、福音の道を、率先して迫害し、男女問わず逮捕し、死にまでも至らせたと。それはまさにユダヤの最高指導者である大祭司や長老のみならず、サンへドリンと呼ばれる最高議会でさえも知っていて証言してくれることだと。なぜなら彼らから承認を得て、自分はダマスコのクリスチャン逹を迫害し逮捕するために、エルサレムから向かったのだからと。彼は自分のことを語ります。しかしそれは神の前にある罪深い自分です。神の前を忘れ、自分はどれだけのことをしてきたと自分を誇るような一般的なパリサイ人のようではありませんでした。もはや彼は律法を動機としていません。彼は、真の神の前にあっての自分を探す時にまずはじめに、自分の罪深さしか見えてこなかったのでした。自分は神の御子キリストを迫害した一人、いや急先鋒でありリーダーであったと。彼が「自分のこと」を話すにしても、そのような神の前には何も誇るものがない自分の現実でしかなかったのでした。彼はそのように律法を動機に自分を誇るのではなく、むしろまずは神から、聖なる言葉である律法に責められ、罪を明らかにされていることがここにわかります。その全ての人は神の前に罪人である現実を教えるために、神が私たちに対して律法を用いるのです。

C,「律法は最後の言葉ではなく。?「キリストは何をしてくださったのか」こそ」

 しかし大事な点はそれで終わりではないということです。つまり、律法によって罪を責められることが聖書の目的、神の最後の言葉ではありませんでした。パウロは続けます。そこにパウロが群衆に伝えたいことの本質がありますし、キリストの証人である私たちは何を証しし、教会は何を伝えるのかが現れています。

「ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。」6?8節

 パウロは圧倒的な罪人でした。キリストを迫害し、キリスト者を迫害しました。そのためにダマスコへと向かっていた。そんなキリストの敵であり、神に敵対するものであっった。それなのに、「天から」とあるとおり、イエスの方から、そんなパウロの方にきてくださり、「サウロ、サウロ」と名前を呼んで語りかけてくださった。そればかりではありません。人の目から見ればキリストの敵であるようなサウロを、裁くのでも、責めるのでもない、滅ぼし殺すのでもない。イエス・キリストは、盲目となってしまったサウロを導き、アナニヤと会うように教え、そしてアナニヤを通して、こう語りかけてくださったと証ししているでしょう。

「彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』14〜16節

 イエスの方から迫害者サウロに現れて、怒り、裁き、攻め立て、滅ぼしたのではありません。それどころか、そんなサウロこそを、イエスは選び、そしてキリストの証人として召し出してくださっているという、恵みを伝えています。そして、罪を示して終わりではなく、「その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」と、罪の赦しのための洗礼へと招いているでしょう。さらにそれだけでなく、17節以下では、まさにステパノ迫害し殺すことに賛成していたような自分を、イエス様が、異邦人のために遣わしてくださったと、もう何重もの憐れみと恵みを伝えるのです。


4.「キリスト者はキリストを指し示し福音を証しする」

 パウロも、一人のキリストの証人として、この群衆に何を語っているでしょうか?自分が何をしたか、その功績ではありません。自分を誇るような自己弁護でもありません。相手を攻め立てるような律法の言葉でもありません。パウロは、「自分が何をしたか」ではなく「イエス・キリストが何をしてくださったのか」をどこまでも語っていることがわかるのではないでしょうか。そう「イエスが私たちのためにしてくださったこと」、つまり福音を語ったのでした。このパウロの説教から教えられることははっきりとしています。キリストの証人である私たちは何を証しし、何を説教するのかです。それは「自分が誰が何をしたか」ではない、自分が感じたことや思っていることでもない、自分や誰かの誇りや誉れ、自慢話でもない。「イエス・キリストが何をしてくださったのか」をどこまでも語るのです。それはペンテコステの日の朝のペテロの説教もそうであり、そして教会の一執事に過ぎなかった信徒である、ステパノもそうでありました。使徒の働きで見てきたペテロやパウロの説教者も、ステパノやピリポのような信徒も、皆、指し示す先は、パリサイ人のような、律法を動機をする人々がするような、自分や自分の行いではありませんでした。彼らはどこまでもイエス・キリストを指し示してきたし、イエス様が私たちのために何をしてくださったのか、その恵みを語ってきたのでした。キリスト者の証しも、教会の説教もそのことと同じなのです。


5.「最後の言葉が律法ではなく福音であることの幸い」

 事実、私たちはキリストとその恵み、その福音、キリストが何をしてくださったのかを、指し示され、証されるからこそ幸いです。なぜなら、律法が終わりの言葉ではなくなるからです。神はもちろん、私たちににも律法を用いて語りかけます。それは罪を示すことによって、私たちの本当の現実、本当の痛い、絶望的な真のありのまま、罪深い私たちをの現実を教えるためです。それは必要なことです。パウロも自分がいかに迫害者であったのかに日々気づかされていました。そのような現実への直面は誰にでも日々あり、むしろ蓋をしたり避けたりすることができません。なぜなら、そこでこそイエスは、「そんな罪深いあなたが多々のためにわたしはこの十字架で死んでよみがえり、その十字架があるからこそ、あなた方は罪赦され、復活があるからこそ、あなた方は今日も罪赦され新しいのだ」と、そのイエスがしてくださったこと、福音を、私たちの信仰としてくださるのです。律法が最後の言葉であるなら、私たちには救いも平安もありません。いつでも、私たちは自分が何をしたか、その行いでどう評価されているか、等々、自分の誇りを求め、自分のわざを誇ることでしか安心ができません。パリサイ人のようにです。しかし律法が最後の言葉ではなく、「イエスがしてくださったこと」「十字架と復活」こそが最後の言葉であり、それが私たちへの救いの言葉でありいのちの言葉であるからこそ、私たちは律法から解放され、それこそ偽善でも装うのでも表向きの敬虔でもない、自分のための動機から自由にされ、純粋にイエスが何をしてくださったのかを、語っていくことができるし、そこに生かされ、真に良い行いにも駆り立てられていくのです。私たちが「イエスが何をしてくださったのか」を知り、福音こそ派遣の言葉として平安のうちに聞くことができるのは、知恵やしるしを求める人にとっては愚かに聞こえます。しかしそれは本当にキリストを信じるものにとっては、それこそ神の力であり、いのちの言葉であり、平安の源なのです。感謝ではありませんか。ですから、続けて、まず神様から律法によって罪を示され、真の罪深い自分を日々知らされ、悔い改めつつ、そしてそこに輝いている福音、十字架のイエス様から恵みを受け、イエス様とその福音に結びついてしっかりと離れず、平安のうちに、安心して歩んでいきましょう。