2020年2月2日


「神の恵みの視点から見る幸い」
使徒の働き 21章17〜26節

1.「エルサレムにて」

 パウロはエルサレムへと到着します。エルサレムの兄弟たちは喜んで迎えてくれます。そしてエルサレム教会の監督であるヤコブを訪問します。

「次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。」18〜19節

 ヤコブは、イエスの兄弟であり、復活の後に信じて弟子となり、エルサレムの監督となりました。そこでエルサレム教会の長老たちが集まっていたとありますが、ヤコブも長老でありますから、ヤコブをはじめとする長老たちが集まっていたのです。20章でも見てきたように、長老というのは監督をはじめとする牧師のことを指しており、み言葉に仕え、説教と聖礼典を執行する牧師、説教者のことです。エルサレムには複数の説教者が立てられていてその長老たちが集まったところで、パウロは挨拶をし、そして、

「彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。」


2.「神がなさったことを話した」

 これまでずっと見てきました、パウロは、アジヤ、そしてギリシヤでの宣教のことを話したのでした。それは「神が異邦人の間でなさったこと」でした。イエスの復活の後、ペンテコステの約束の聖霊を受けてから、宣教がエルサレムから始まったのですが、その宣教の対象は最初はユダヤ人のみでした。しかしイエスがペテロとコルネリオに与えられた幻と御使の導きによって、イエス・キリストは、異邦人をも信仰と福音の約束から除外していないという確信を与えられたペテロは、ローマ人であるコルネリオとその家族に洗礼を授けました。しかしそのような主の御旨が示されたとしても、エルサレムの教会では最初は、異邦人へ洗礼を授けたペテロには批判が向けられました。ペテロはそこで主が語りかけ働いてくださった出来事を証しすることによって、エルサレムの教会の人々も受け入れたのでした。しかし教会の人々自身は、ユダヤ教の中心であるエルサレムにおいて、その異邦人への恵みはピンと来なかったともいえるでしょう。そこで異邦人への宣教を主のみ心として、積極的に信じ、教会ぐるみで異邦人への宣教の召命へと導かれたのは、エルサレムではなく、シリアの国際都市であるアンテオケの教会とそこを拠点として仕えていたパウロでした。アンテオケの教会は、パウロとバルナバ、そして後にパウロとシラスを、祈りをもって遣わしたところに異邦人への宣教は本格的に始まりました。

 その道のりは、ユダヤ人やユダヤ人クリスチャンからの壮絶な迫害にもあり死ぬような思いにも何度も直面しています。そして人の目には決して、計画通り、期待通りになっていたことではありませんでした。しかしそのような逆境や人が計画し思い描いた通りにいかなくても、それでも、主イエスが確実に働いていて、パウロを用いて、その地その地で、異邦人に目を留めて、信仰に導き、洗礼を授けてきた事実が紛れもなくありました。それはまさに人の目には計り知れない、人知を超えたことであり、イエスの計画こそがその通りになされた恵みの出来事であり、主イエスは、異邦人をも救ってくださるという恵みの事実であったのでした。パウロは、そのように出来事の事実を単に一つ一つ語ったということではなく、ここに「神が異邦人の間でなさったこと」とあるように、つまり全ては神の恵みの導きであると語ったのでした。そのように、パウロの宣教は表面的な現象だけを見て人の目から判断すれば、決して成功ではなく、上手く行かないことの連続であったのですが、同じ出来事を見るにしても、「神の恵みの視点から」見ることができることは幸いなことです。それこそが、人は肉あってはもっぱら肉的なことを考えるが、霊によって生まれたものは、霊的なことを考える、信仰の見方と言えます。私たちもいつでもそのように信仰が福音によって強められるように祈って行きたいです。


3.「ユダヤ教から信仰に入っている人々」

 さて、そのように神が異邦人になさったことを伝えたことに対して、エルサレムの長老たちは、神をほめたたえます。しかしここでパウロ自身も宣教旅行で、何度も直面させられた問題の現実が出てきます。

「彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。」20〜21節

 いわゆる、ユダヤ教からキリストへの信仰へ入った人々でした。当時は異邦人クリスチャンは極少数で、ユダヤ人クリスチャンが圧倒的でした。「幾万といます」とありますから、その人数は非常に多かったことでしょう。そして彼らはユダヤ教からキリストへの信仰へ入ったとは言え、ユダヤ教の教えをきっぱり断ち切って、いま私たちが信じるような信仰義認の教えに立っていたかと言えばそういうことではありません。むしろ、もちろん信仰義認はイエスが教え、使徒たちに受け継がれたことではあったとしても、救いは「行いよることではない」とはっきりと言って行ったのも、そのキリスト教の教理を手紙に書いて発信して行ったのもパウロでした。それまでのエルサレムの教会、キリスト教のはじめというのは、ユダヤ教の一派として社会からは見られてもいましたが、ユダヤ教クリスチャンたちは、ユダヤ教のモーセの戒律を厳格に守りながら、例えば、割礼へのこだわりなどはしっかり守って、の信仰であったのでした。ですからガラテヤ書にもあるような、行為義認的な様相が強く、それが救いのために必要だと主張される時には、パウロはノーと言ったのでした。そのことからも、ユダヤ人クリスチャンたちの性格はわかるのです。

 これは止むを得ないことです。人間にとって文化の影響は決して小さなものではありません。それを急に変えることは簡単なことではなく、むしろ難しいことです。もちろん、使徒たちや長老逹はその救いの真理はわかっていましたが、それでも彼らもイエスに示されるまでは異邦人は除外されているとも思っていました。その使徒たちが、福音はこうだと教えても、律法による救い、行為義認で生きてきた人々が、キリストの恵みのみに委ねることができるのには、抵抗があったのでした。


4.「偏見や決めつけ」

 それはある意味、止むを得ないことではあっても、問題は、そのような彼らの行為義認の正義と言いますか、その律法主義的な信仰からくる、勝手なパウロ解釈、パウロへの思い込みや偏見があったということなのです。

「ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。」21節

 パウロは決して、「異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えている」なんてことはありませんでした。「割礼を施してはいけない」というどころか、ユダヤ人クリスチャンに合わせるために、弟子に割礼を施すように進めたり、あるいはこの後出てきますが、これまでもナジル人の誓いを立てたりもしてきました。パウロにとっては律法は聖なる言葉ではあるのです。しかしその律法が救いや信仰の歩みにおいて力があるのではなく、その力は、十字架の言葉であるイエス・キリストの福音のみであるということを教えたのであり、決して「守ってはいけない」「してはいけない」などと言うことはいってもいなし、教えてもいないし、彼の考えにもないわけです。しかしユダヤ人クリスチャンたちの問題は、その律法的な視点で信仰や教えを解釈してしまうことによって、パウロが言っていないことを「言った」と決めつけてしまい、それを批判の道具にしてしまったということであったのす。

 このことは大事です。私たちクリスチャンは、実は、みんなそれぞれの神学を持っています。神学と言うと、牧師や神学校だけのものだと思う方も多いかもしれませんが、ここで言う「神学」というのは、そのようなアカデミックなことではありません。神や信仰をどう理解するかの視点のことです。その神や信仰をどう見るかは、それはクリスチャンであれば、良い悪い、正しいか否かに関係なく、誰もが持っているものです。そしてそういう神学の意味で、人はその自分の神学に従って、みことばを聞いたり、解釈するものです。ですから律法主義的な神や信仰の価値観や視点、つまりそのような神学にある人と言うのは、そのようにパウロの教えていることを、本来はパウロが言っていないことなのに、あたかもパウロが「こうするな」と教えたと言うように解釈してしまいます。それは、彼ら本人が意図していようが意図していなくてもです。もちろん、意図的にパウロが教えていることは気に食わないと、偽りを作り上げる人もいた訳ですが、無意識にそのように解釈して、パウロの福音を間違って理解する人もいたのでした。意図的にせよ無意識にせよ、各地に広がるユダヤ人クリスチャンの間には、パウロがそのように教えていると言う偽りの噂が苦情として広がっていたようなのです。21節はそのことを示しています。


5.「エルサレムの長老逹の方策」

 エルサレムの長老たちは、パウロのことを理解し、パウロの教えているところに一致こそすれ、このユダヤ教の中心地、ユダヤ教の影響を受けているクリスチャンたちが何万といるエルサレムに、パウロがやってきたことによって、そのことが一つの心配であったのでした。そこでこう続いています。22節からですが、

「それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳にはいるでしょう。ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。信仰にはいった異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。」22〜25節

 エルサレムの長老たちのパウロを思えばこその葛藤と苦肉の策と言いますか、アドバイスです。そのように彼らユダヤ人クリスチャンたちの耳に必ず入ることをむしろ利用して、その彼らの耳に、パウロが、請願を立てている4人を連れて神殿に行き、パウロも一緒に彼らと身を清め、そしてその4人が請願のために必要な献金を出してあげることを実際に実行すれば、その出来事は、彼らの耳に当然入ることになります。それによって、決して、パウロは「守るな」なんてことを言っているのではないと言う誤解が解ける、一つの助けになるであろうと考えたのでした。27節のことは、以前も異邦人の救いに関することで各教会へあてた公式の文書のことでした。ここには、エルサレム教会のヤコブをはじめとする長老たちが、パウロと信仰と教えに同意し一致していることがわかるとともに、むしろユダヤ人クリスチャンの誤解や偏見からパウロをなんとか守ろうとする思いが伝ってきます。パウロはその通りに行ったのでした。しかし28節以下、結局、それは上手く行かず、ユダヤ人たちの言われのない告発に晒されることになるのです。ここでもエルサレムの長老たち、人間の思惑や計画の通りには決してなって行かないことが見ることができます。そしてかつてアガボという預言者を通して聖霊が示した通りに事は起こって行くことになるのです。「人の謀は成らず、主の計画だけがなる」ということが現れています。しかしその計画の通り、パウロは攻撃に晒されるのですが、そこに主の御心は必ずあり、そのことを通してのイエスの宣教が必ずある、それこそが私たちが学び、かつ信頼し委ねて行く、主の恵みに他なりませんせん。


6.「イエス・キリストの恵みにあって」

 私たちには確かに文化的な影響もあれば、それぞれの価値観や神学、そして正義があるとしても、人から出たものは決して人を自由にも平安にもせず、むしろ攻撃的にするものです。しかし私たちを、そのようなみことばの勝手な解釈や、偏見や思い込みや決めつけから解放するのは、神からでたものであり、十字架の言葉である福音から裏付けられる十字架の視点、恵みの視点です。そこに真の信仰にあって、ともに交わり、祈り、平安のうちに遣わされていく道が開けているということが教えられていると言えるでしょう。

 聖書には、そのイエスの福音が私たちに指し示されています。それはもちろん律法の言葉によって罪が示されることから始まりますが、律法が指し示すのも、それはイエス・キリストとその十字架であり福音に他なりません。バプテスマのヨハネが指し示し、使徒たちが指し示し、パウロが指し示したようにです。今日もこの聖書が指し示す、キリストはここにおられ私たちに語りかけ、パンとぶどうを通してイエスのからだと血を備え、私たちに受けよと差し出してくださいます。受けましょう。そしてイエスが「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださいます。福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。