2020年1月26日


「すでに受けているキリストの恵みにあって」
エペソ人への手紙 3章17〜19節

1.「キリスト・イエスの囚人」

さて使徒の働きの方では、パウロが、エペソの長老たちに別れを告げて、エルサレムへと向かったところを見ておりますが、彼はやがてローマへと行き、そこで捕らえられ牢獄に繋がれた時に、エペソの教会にこの手紙を宛てて書いています。この時のパウロは、囚われの身で、苦難と危険の中での生活ではありましたが、彼は、その状況でも、この手紙では、自分は「人によって囚われの身」とは言わずに、「キリスト・イエスの囚人」(3:1)あるいは「主の囚人」(4:1)と言うのです。それは,例え目の前に、どんな苦難があっても、あるいは人の目には納得できない状況であっても、どこまでも全ては、神の恵みの御手のあることの信仰の告白でもあったのでした。キリストとその福音こそクリスチャンの全て、教会の全てであり、つまりクリスチャンは、キリストにあって、福音によって、福音に促され、福音を動機として、行きて行くのだと、どこまでもキリストとその福音を指し示しているのがこの手紙です。それは使徒のと働きでちょうど見てきたように、パウロはこの獄中の中でも、あのエペソの長老たちへ別れの説教をした時と一貫して何ら変わらないことが気づかされるのではないでしょうか。エペソの長老たちの何人かが、間違った福音や空想話にそれて行き、まさに凶暴な狼が教会を表し回ることを悟っていた状況でも、パウロは、福音を十分に教えてきた自分には責任はないと言いつつも、彼らに律法や強制で戒めるのではなく、どこまでも神の恵みの言葉である福音に委ねるといい、キリストとその福音を指し示しました。パウロは時が良くても悪くても揺るがなかったのでした。いつでも語ることは同じでした。文字通り、キリスト以外は知らないのでした。そのことがこの箇所にもはっきりと現れているのがわかります。


2.「すでにある恵みへ立ち返らせるための祈り」

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」17節

 まず、この部分は、14節からの彼の祈りの言葉です。そして「こうして」とありますから、その前の部分があるわけですが、16節ではこう書かれています。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」

 神の栄光の豊かさのゆえに、御霊の力によってあなた方が強くされるように。パウロは祈ります。この「強くされるように」とあり、17節でも「住んでくださいますように」とありますから、私たちは、まだこれを受けていない、実現していない、と考えるかもしれません。だからそうなるように祈っているのだと。しかしそういうことではありません。パウロは、このエペソ書で、どこまでも私たちは溢れるばかりの恵みと祝福を「すでに」受けているものとして励ますことから始めています。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(1:3)

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(1:7)

「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(1:11)

 このように、すでに私たちはキリストのゆえに、祝福も恵みも「すでに」受けている。神の国の相続人に「すでに」されていることを伝えています。そして「信仰によって」のその「信仰さえ」もパウロはこのエペソ2章ではっきりと言っている言葉を私たちは何度も引用して見てきたでしょう。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」2章8?9節

みなさん。私たちは、聖書のパウロなどの祈りの言葉を見る時に、何かそれはまだ実現しておらず、まだそのような者ではなく、しかも何かをそれを律法的に捉えてしまい、その祈られている通りのことを、自分たちが実現しなければいけないかのように思うかもしれません。しかしここの祈りもそうですが、それはそういう実現していないことの律法の促しという意味では決してないということです。それはすでに受けている大いなる、計り知れないほど大きな神の救いの恵みと祝福を、私たちが肉の思いや行いに依存することで日々忘れてしまい、そして不安になり迷ってしまう。そんな私たちがいつでも聖霊によってその既に受けているキリストに恵みと祝福に「立ち返る」ことができ、霊的な信頼と神の力による生き方へ「戻る」ことができるようにという祈りであるということなのです。

 みなさん、私たちはいつでも既に多くの恵みと祝福を受けています。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」ガラテヤ3章26?27節

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ2章20節

 キリストはすでに私たちのうちに生きています。それを信じる信仰によって私たちは古い肉の生き方から解放された、聖霊による新しい生き方を与えられたのです。しかし私たちの肉の思いはいつでも律法による生き方へ戻ろうとします。パウロの祈りは私たちをその素晴らしい恵みとして、すでに受けている信仰により、キリストのいのちにあって生きるようにという祈りなのです。


3.「愛に根ざし」

 そしてその祈りがこう続いていることからもそのことがわかってきます。パウロは、こう続けています。

「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」18?19

 「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなた方は」とパウロは言っています。その言い方からも、私たちが「すでに」受けている愛、愛されているその愛のことを指していて、私たちクリスチャンの存在は、その愛に根ざし、基礎を置いているからこその存在だと、やはり「すでに」であることがわかるのです。しかし、みなさん、その「愛」というのは、何を指すでしょうか。それは私たちが理解できる、あるいは私たちでも普段でもするような、ありきたりな人間の愛を指しているのでしょうか。そうではないことがここにわかります。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」「人知をはるかに越えたキリストの愛」ーそう書かれているでしょう。その愛は、私たち人間の肉の欲や力や理性では決して理解できない。わからない。行えない。計画することも到達することもできないような広さ、長さ、高さ、深さであることをパウロは指しています。それは人知を超えたキリストの愛であると。そう、パウロは一貫しています。彼にとって、福音は「十字架の言葉」であり、「キリストの十字架のほかは何も知らない」ということは誇張でも脚色でも格好をつけたのでもない、本当に福音は彼にとってはキリストの十字架と復活だったのです。そしてそれこそ神の恵みであり、人知を超えた世の救いです。彼にとっては「愛」というのは、キリストの十字架であり復活であったのでした。そのキリストの十字架とそこに現されている愛こそ、神のなさった完全な救いのわざ、完成された出来事であり、それこそ私たちがすでに受けている最高の賜物であり、天の奥義です。


4.「愛を忘れてしまう現実のための祈り」

 その私たちが受けているこの十字架と復活のイエスに、その福音の言葉、そこにあるキリストの計り知れないほどの愛、アガペーの愛、敵であり反抗し罪を犯す神を否定する私のために死んでくださったその無償の愛に根ざし基礎をおくのがクリスチャンであるのに、私たち、私自身、そのアガペーの愛を忘れてしまうものです。離れてしまうものです。神も人も愛せないもの、赦せないもの、律法の剣で、自分の感情や正義で、悪意を持って隣人や愛せない人に報いようとするものです。私たちはどこまでも肉にあっては肉的なことを考える罪深い性質を持っており、すぐに十字架、神の愛という基礎から離れてしまうものです。しかしこのパウロの祈りは、そんな私たちへの愛の祈りなのです。自分にない愛や基礎を、自分が頑張ってこのキリストの愛の基礎を達成できるようにという祈りではありません。その私たちがすでに受けている愛にいつでも立ち返るように、そのすでにある揺るがない土台、砂の上ではない岩の上に、帰ってくることができるように、立ち返ることができるように、そしてキリストの恵みにますます満たされて行くように、主よ、聖霊様、働いてください、そのような祈りに他なりません。


5.「キリストの愛と福音から始まる」

 そして、幸いなのは、その真の愛の基礎に立つからこそ、私たちは世にあっても、人知を超えた愛のわざへ用いられて行くことができます。私たちは良い行いのために、隣人を愛して行くためにイエスに召されています。ですから、私たちの日々は、隣人を愛して行くことこそ全てです。しかし、それは確かに新しい戒めではあっても、古い戒めではないことに注意してください。イエス様は「新しい」と言ったのです。つまり古い戒めは、従わなければいけないから従いました。しかし新しい戒めは、それはそんな古い戒めと全く違います。従わなければならないから従う、行い、愛するのではないということです。そうその出発点、源泉、動機、つまり、その愛を無い者から有る者とする、無から有へと愛を生み、行わせるのは、律法ではないから全く新しいのです。そう、それこそ愛です。人間的な愛ではありません。そうこの十字架に現された愛です。どこまでも罪深い、神を否定し、反抗し、自分中心で、自分が神であるかのように神にも人にも要求するような罪深い私たちのために、裁くのでも無い、責めるのでも無い、滅ぼすのでも無い、私たちの裁きと罰を受けてくださった、死んでくださった、敵をも愛し、赦すその愛です。その愛が、つまり福音が、新しい戒めの、良い行いと隣人愛の原動力、源泉、動機であるということです。だからこそ、この祈りがあります。「知ることができるように」と。イエスも新しい戒めでこそこう言っているでしょう。

「互いに愛し合いなさい」「わたしがあなた方を愛したように」

 と。イエスが私たちをどれだけ愛してくださったのか、知らなければ、その土台、基礎、そこに根付くことがないなら、新しい戒めを行って行くことはできません。もちろん古いままの私たち、肉によって、律法の縄目、土台に戻るなら、しなければいけないと律法的にして行くことはできるでしょう。しかしそれは新しい戒めの実践でもなければ、それは福音への応答でもありませんし、それは平安も自由もありません。私たちは隣人を愛するために召され、遣わされています。しかしそれはイエスがしたようにであるなら、あまりにも高度なこと、できないことです。しかしイエスはそれこそ私たちに与えてくださった「新しい戒め」です。できないこと。その通りですが、しかしイエスが私たちのまことの神であるなら、私たちは知っています。イエスは無から有を創造された。私たち自身も滅ぶべきものが救われた。無から有ではありませんか。同じです。私たちがイエスの愛を知るからこそ、福音を知るからこそ、福音という土台にしっかりと立ち返り基礎とするからこそ、私たちにイエスは、無から有を、できないことをさせてくださる。それが福音の素晴らしさであり、それが本当の良い行い。隣人愛。そして真の応答です。私たちの原点、源泉、原動力、動機、出発点は、律法ではない。もちろんイエスご自身は律法と福音の言葉で語りかけますが、それは私たちの現実を教え、福音にこそ信頼させるためです。どこまでもその福音からこそ、始まる。遣わされて行く。キリストとその福音が、私たちの全てなのです。だからこそパウロは、キリストの十字架の他は何も知らないというのです。なぜならキリストの十字架からこそ真の応答、良い行い、隣人愛が溢れ出るからです。だからこそパウロは、こうも言っています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソの2章10節

 私たちの良い行いさえも、キリストは私たちのために、すでに備えてくださっています。幸いです。感謝です。安心があるでしょう。ここから始まります。律法的にではない、イエスの愛と救いの喜びと平安と自由にあって、遣わされていきましょう。イエスに祈りすがり、イエスが人の思いをはるかに超えて私たちを用いてくださることを期待しましょう。