2020年1月19日


「「主の御心のままに」への導き」
使徒の働き 21章1〜16節

1.「エルサレムへ」

 パウロはミレトの街で、エペソの長老たちを集め、もう会えないかもしれない彼らに、イエス・キリストとその神の恵みの福音を指し示し、彼らもその神の恵みの福音にあって、語り、かつ行って行くようにと伝えました。パウロは彼らに別れを告げ、そして示された地エルサレムへと向かうのです。

「私たちは彼らと別れて出帆し、コスに直航し、翌日ロドスに着き、そこからパタラに渡った。そこにはフェニキヤ行きの船があったので、それに乗って出帆した。やがてキプロスが見えて来たが、それを左にして、シリヤに向かって航海を続け、ツロに上陸した。ここで船荷を降ろすことになっていたからである。」1?3節

 パウロとその一行、そこにはルカ本人もいることがわかりますが、ミレトから船で出発しますが小さな船だったようであまり沖に出ずに、地中海沿岸に沿って進み沿岸のコス、ロドス、パラタという町々で止まり、パラタから、大きな船に乗ってシリア、パレスチナ地方のフェニキヤへと向かったのでした。フェニキヤは11章19節にありましたように、ステパノの殉教と迫害によって散らされた人々がやってきて、ユダヤ人たちへキリストを証しした地でもあります。そのツロという港町に到着するのでした。そこで4節です


2.「御霊は何を示したのか」

「私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに七日間滞在した。彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」4節

 ツロには迫害によって散らされたキリスト者達が少なからず生活していたのでした。パウロ一行は彼らとともに七日間そこに滞在するのですが、そのツロのクリスチャン達は、

「御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」

 とあります。この言葉は、「パウロがエルサレムに上らぬように」ということを御霊によって示された、と思われるかもしれません。しかし思い出してください。

「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。」19章21節

 思い出していただくとわかる通り、パウロがコリントにいたときに、エルサレムとローマに行くように示されたのは「御霊」「聖霊」であったでしょう。ですから、ここでツロのクリスチャン達が御霊によって示されたことが、「パウロがエルサレムに上らないようにと示された」、つまり御霊が「パウロよ、行くな」と示したと理解するなら、御霊は矛盾することになります。ではこの時、ツロのクリスチャン達が御霊によって示されたことは何でしょうか。今日の箇所を見て行くとわかるように、この後、10節以下の預言者アガボは、パウロが具体的にどのような姿で捕らえられるかを、聖霊のお告げとして語っています。ここに聖霊が矛盾することなく示すことの鍵があります。ツロのクリスチャン達が、御霊によって示されたことは、「パウロはエルサレムに行くな」ということではなく、彼らも、パウロがエルサレムで「捕らえられる」ということを示された、ということがわかってくるのです。そのような示しがあったからこそ、ツロのクリスチャン達は、「エルサレムに上らないように」とパウロに忠告したというのが、4節の意味することになります。


3.「御霊は導く。しかし苦難へ」

 皆さん、ここをどう思われるでしょうか。主なる御霊が行くように示されたエルサレムです。しかしその示すエルサレムでは、迫害が待っていることも同じ聖霊が示されています。そこには「明確な」神の御心がここにあります。しかしどうでしょうか。人間の価値観や感情では、神である御霊が示されるところであるのにそこに苦難も約束されているということ。神は理不尽で矛盾するように思うかもしれません。「神であるなら、全てを、私たちが願い期待するような良い状況へ、安心の状況へ、苦難のない状況へ導くはずではないか。それが神ではないか。」ーそう思うのではないでしょうか。しかし、神が約束すること、神があえて与え導くこと、示すこと、それはそのような私たち中心の思いや常識、理性やこうあるべき、願いや感情的願望を超えたところにあるということがここにわかります。ときに非常に逆説的でもあります。苦難のない問題のない状況ではなく、あえて苦難をよしとされ、計画され、そこに導かれることがあるのです。ですから、私たちは短絡的に、あるいは感情的に、状況が悪いからと、そこに神の御旨にも計画にも反対していて、そこには導きも示しもない、何の益も祝福もないかのようにネガティブに、後ろ向きになるのは、信仰的ではなく肉的で早急かもしれません。何よりそれは神のなさることを、人間の期待や願望の枠に閉じ込めてしまうことになりますし、神が苦難の中でこそ福音を通して伝え霊的に教え成長させたい、大事な霊的な恵みを見失うことにもなるでしょう。御霊は、明らかにパウロをエルサレムへ、そしてそのエルサレムの地での苦しみへと示し、導いているのです。その時はパウロ自身にも神の計画はわかりません。しかしそのように、私たちの思いをはるかに超えた神の全てを実現し益としたもうその恵みと力をパウロとルカを始め一行は見ているからこそその忠告の通りにはしないのです。


4.「苦難が目の前に示されても:祈りへ」

「しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た。そして、ともに海岸にひざまずいて祈ってから、私たちは互いに別れを告げた。それから私たちは船に乗り込み、彼らは家へ帰って行った。」5?6節

 彼らは旅を続けるのです。エルサレムへの旅です。そして、そこにはその船出の前に一行は「ともに海岸にひざまずいて祈ってから、私たちは互いに別れを告げた」とあるのです。困難は先に待っています。人間の思いでは「エルサレムへ行かない方が良い」「迫害など起こってほしくない」です。しかし御霊が示された待っている困難です。それは、まさに人間の思いや感情、願望をはるかに超えたことです。それは人間の力や理性や感情、常識などでは決して理解できない、受け入れがたいことです。しかし、だからこそ、そこに人間的な方法や論理でことを自分たちの都合のいいように、何とか納得の行くように収めようと、パウロとクリスチャン達はするでしょうか?そうではありません。彼らは、ともにひざまずいて祈ったのでした。それは、何が起こり、何にどこに導かれたとしても、主にすがり、主に求め、主に委ねたのでした。20章でもそうでした。32節でパウロは「恵みのみことば」に委ねるといい、そしてやはりともに祈っています。ここでもそうです。祈りました。しかもひざまずいて祈っています。まさにイエス・キリストへの圧倒的なまでのへりくだりです。つまり、神を神とし、神の力、神の導き、神が全てのことに働いて益とすることへの、跪いて頭を上げられないほどの信頼です。それほどまでにパウロと一行、ツロのクリスチャン達は祈ったのでした。納得できないこと、目の前の問題、などなど、そのことを前に、人間の常識や理性による、思いや感情、判断や方法優先で、ああだこうだとするのではなく、ともに彼らは祈った。主イエス様とそのみことば、福音、その御旨、そこにある圧倒的な私たちにとっての真の益に求め、委ね、期待したということです。これはとても大事なことではないでしょうか。


5.「パウロは祈り、そして従う」

 そのことはこの後も見ることができます。ツロから、今度はトレマイ、カイザリヤへとやってきます。そこで8節にある通り、「あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。」とあるのです。ピリポは思い出すことができます。彼はステパノと一緒にエルサレム教会で、選ばれた7人のうちの一人でした。しかし迫害で散らされたときに、その散らされた地で、ピリポは、エチオピアの宦官にイザヤ書からイエス・キリストの福音を語り、洗礼を授けた一人でした。彼はカイザリヤで「伝道者」、英語ではエヴァンジェリストですが、「福音を伝える者」として会堂で福音を語っていたのでした。その彼には、四人の娘がいて、その娘は預言をする賜物があり用いられていたようです。そこにその4人ではなく、10節ですが、「アガボという預言者がユダヤ」から、つまりエルサレムがある地域がユダヤですが、そこからわざわざやってきたのでした。その預言者アガボは先ほども触れたように、11節にこうあります。

「彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。」

 やはり聖霊のお告げです。その聖霊の言葉を預言者アガボが預かってパウロに語ったのでした。この言葉を見てわかる通り、聖霊はエルサレムで起こる事実は伝えていますが、だから「エルサレムへ行ってはいけない」とは言っていないことがわかりますね。聖霊が示したエルサレムであることには変わりないですし、そしてその地でパウロは捕らえられ縛られ、異邦人の手に渡されることも示されるのでした。しかし周りの人は、神のみ心以上に、愛するパウロに害が無いようにと望むのは当然ですね。12節にあるとおり、

「私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。」

 のでした。しかしここでもパウロはその頼みには従いません。むしろ彼は言います。


6.「キリストへの信頼を持って」

「するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。」13節

 周りの人は「パウロのために」と頼み、涙し、泣いたことでしょう。しかし、パウロのその心、その目は、やはりどこまでも主イエス・キリストへと向いているのです。その頼みも、涙も、泣くことも、それはその「キリストへ」の心、召命、信仰をくじくものだというのです。「あなた方は一体何をしているのですか」とまで言うのです。せっかく泣いてくれている周りに対してなんて厳しい応答なんだと思うかもしれません。しかし、キリスト者の道を確かにするのは、人間の思いや計画、それが理性や感情、それが感傷や素晴らしい感動による思いであっても、それでは無いということがパウロの応答にはあらわられています。もちろんパウロにも人間としての別れの悲しみもあれば、エルサレムへの恐れもあったことでしょう。しかし彼は御霊によって生まれた者、つまりクリスチャン、信仰者は、御霊によって、信仰によって歩むのであり、その歩みは主によって確かにされることを周りの同胞やそして現代の私たちにも教えてくれています。人間的な合理的な判断は、確かに目の前のひと時の解決と安心は提供するかもしれません。しかしそれは「道を確か」には決してしません。むしろ、賜物である信仰と祈りにおいて、主に委ね、主に求め、主がなさることに期待するところにこそ平安はありますし、それで終わりでも無い、主から福音を受け、律法ではなく恵みの信仰において応答し行っていくからこそ、不安や恐れに勝ったキリストからの平安と自由のうちに前に進み、行い、愛していくこともできるでしょう。律法を動機とした行いは神の前には偽りでしかありません。福音、信仰からの行いこそ神の前にも人の前にも本物です。パウロの言葉にはそのことが見ることができるでしょう。


7.「「主の御心のままに」へ」

 そのパウロの人間的な判断の道ではなく、信仰の道に、納得できない人、理解できないひともいたことでしょう。何度も説得もしたことでしょう。しかしパウロの心はくじかれません。14節の終わりで周りは黙ってしまうのですが、14節にこうあります。

「彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。」

 パウロの信仰へのこだわり、キリスト中心の教えと道は、周りにはなかなか理解できなくとも、信仰にあるキリスト者の最終的で最高の祈りの言葉は、この「主のみこころのままに」です。イエスのゲッセマネの祈りも、3度も杯を取り除けてくださいと血の汗を流して祈りましたが、その祈りはいつも「父のみこころのままに」でした。主イエスが教えてくださった主の祈りにもあります。「御心の天になるごとく地にも行われますように」と。信仰はいつでもここに導かれます。私たち、私自身、何をするにも罪深く、無力で、理解も遅く、また不信仰でもあるものです。キリスト不在で、信仰や祈りそっちのけの議論や判断をしてしまいます。しかし私たちに語られる律法と福音の言葉と、聖霊は、賜物として与えてくださっている信仰にいつでも働くことによって、ここに必ず導いてくださるのです。「主のみこころのままに」へ。そしてこの祈りと告白に真に導かれたときにこそ、平安もあります。そして事実、主は私たちの思いをはるかに超えた主のみこころを行うのです。十字架と復活がそうであったように、あるいはステパノの死が、パウロの迫害から回心への変化が、教会が散らされたことが、まさに神様の大いなる宣教へと繋がって行ったようにです。私たちも世にあっては艱難があり、様々な問題を抱えていますが、導かれているところは同じです。それは、福音に始まる信仰と祈りであり、「主の御心がなるように」と福音による救いと祝福を喜んで安心して日々、応答し行動し隣人を愛していくことだと言えるのではないでしょうか。それは何も力がないようで一番力があり確かです。なぜなら人から出たことではなく、キリストから、福音から出ているものだからであり、その神の恵みの信仰から生まれる応答と祈りだからこそ力があるからなのです。