2020年1月12日


「恵みのみ言葉に委ねる幸い」
使徒の働き 20章29〜38節

1.「前回まで」

 パウロがエルサレムへ帰る途中、ミレトの街に滞在し、そこにエペソの長老達を集めて語った説教を見ております。「長老」とは言いましても、新訳聖書では「長老」というのは、監督、牧師、説教者のことを指しています。パウロは牧師であり説教者である彼らに、彼らが伝え教え語るべきは、どこまでも「神の恵みの福音」、イエス・キリストと十字架の罪の赦しを指し示します。なぜなら教会は「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」であり、「神の恵みの福音」「十字架のことば」こそ救いを得させる御国に与らせることのできる神の力だからでした。ゆえにその「神の恵みの福音」を逸れる事も曲げる事もなくまっすぐと語り続け教えることによって群れを導くようにと彼らを励ますのでした。パウロがなぜそんなことを別れ際に言ったのでしょう。それは彼は御霊によって示され、パウロが去った後、「狂暴な狼」が教会の「中にはいり込んで来て、群れを荒らし回」り、それが長老達、つまり監督や牧師や説教者たちの中からも「いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」事をパウロは知っていたからでした。その巧妙にすり替えられる間違った福音の教えこそが、教会の霊性、つまりキリスト者の信仰を、疲れさせ重荷となり平安を与えない律法による信仰に変えてしまうことによって教会が荒らされることを、パウロは見ていたからなのでした。だからこそ31?32節の言葉があったのでした。


2.「恵みの言葉に委ねる」

「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」31?32節

 と。ここで「恵みのみ言葉にこそあなた方を委ねる」とパウロはいっています。24節でも「神の恵みの福音」とありましたが、、ここにも「恵みのみ言葉」とあります。そしてそのその「恵みのみ言葉」にパウロは、その長老達一人一人を「委ねる」というのでした。この言葉にはパウロの信仰が、決して律法的な信仰ではなく、どこまでも福音の恵みへの純粋な信仰であることがまず教えられるように思います。パウロは自身でも述べているように、彼らに「福音を余すところなく伝えてきた」彼らの教師であり、人間的な言い方をすれば師匠でもありリーダーでもあり、人間的に見れば、地位的には上位ということになるでしょう。この時パウロはすでにエペソの長老たちの何人かやその彼らの語る説教にそのような間違った教えが語られるような「兆し」を見ていたからこそ、26節の「裁きに責任がない」とか、29節以下の忠告があったともいえるでしょう。そこで私たちが人間的な価値観や「律法の視点」でみれば、組織を問題なく収めるためには、パウロはその権威と立場から、律法的な戒めや具体的な指示や強制を持って、そのような人たちを制したり正すべきではないか、と思うのではないでしょうか。人が人の力で「上から上から」「律法で」と思う。それがリーダーシップだとも思うでしょう。しかしパウロはここで律法を手段として用いもしないし、律法に委ねてもいません。ただの「みことば」に委ねるとも言わない。「神とその恵みのみ言葉とに委ねます」という言い方をしているのです。なぜなら「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができる」からです。つまり恵みの言葉である福音こそ真に力があり真に育成し真に御国を相続させるのだからと。もちろんパウロがいう通りここで「福音に委ねて」も、第二テモテ1章の言葉にある通り、やがてある長老たちは間違った福音を語っていくことにはなります。ですがパウロがここで「福音に長老たちを委ねる」というのは、「そうならないため」という思いや目的や願望で委ねること以上に、間違った福音を教えていく長老たちは確実にいるとしても、そのような試練を越えて、パウロにもいかなる人間にもできないし知らないような神の計画を完全になし、全てのことに働いて益とする力が福音には本当にある、その神のみ言葉の圧倒的な力と完全さへ委ねるという彼の信仰があるのではないでしょうか。ですから「福音に委ねる」というのは、人の目からみれば無責任のように見えるかもしれない。しかしそれが「無責任だ」と見えるというのは、それは福音の完全な力を信じていないからこそそう見えるのではないでしょうか。神の恵みの福音は本当に完全であり、神の計画を実現し御国に与らせる力があり、すべてのことに働いて益となすのだと信じるなら、「福音に委ねる」ことこそ、何にも勝ることだと見えてくるでしょう。

 私たちも福音によって救われ、福音によって生かされ、そお福音は神の恵みの言葉であり、私たち召されたものには救いを得させる神の力と信じるなら、律法ではなく福音にこそ求めすがり、委ねていくことこそ何よりの幸いですし、そうであるなら隣人のこともその福音に委ね神のなさる人の思いをこえた恵みに期待し祈っていくのは素晴らしいことだと言えるでしょう。


3.「「受けるより与える」幸い」 

 さて、パウロの説教はここで終わりません。パウロはここでさらに自分が長老たちに表してきた良いわざや愛について語って説教を閉じるのです。

「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」33?35節

A,「受けるより与える」

 このところは33節一節だけを見ても何のことかわかりません。これは35節までを一つの言葉として見ると理解できます。何より言いたいことは、35節、弱いものを助け、そのためにもパウロは、何か受けることは求めず、どこまでも弱いものに「与えてきた」ということ、そしてそれこそが「幸いである」ということです。パウロはここで「弱い者を助け」とあります。しかし、パウロは決して強かったわけではありません。肉体においては迫害による痛みのみならず、病気による弱さを覚えていたことは、コリントへ宛てた手紙を見ると書かれています。もちろん心や信仰が完全で強かったということでもありません。彼も一人の罪人でありました。見てきた通り、マルコをその行いだけで律法的に断罪して、バルナバと仲違いをしたりもしましたし、アジヤでは、一度、御霊に行くなと禁じられた地へ一度引き返そうともしています。コリントの会堂では、感情と怒りに任せ出て行き、黙ってしまい福音を語れなくもなりました。物質的にも裕福でもなかったでしょう。パウロは強かったのではありません。彼も弱かったのです。弱い一人でした。しかしパウロは、自分は、自分のその弱い肉体の両手を、自分自身はもちろん、隣人の必要のために用いてきた、隣人へ愛を表してきた。与えてきた。弱いものを助けてきた、そのことを「示してきた」とパウロは言っていますね。そしてその前には、主イエスが『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたから、だからそのイエスの言葉を自分もその通りに示してきたとパウロはいうのです。隣人へ仕えること、愛すること、助けることの大切さをパウロはしっかりと教えているのです。

B、イエスが言われた「受けるよりは与える方が幸い」

 ただここでとても大事な点に気づきます。それは、ここで「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを示した」とあります。つまり彼は「自分が」「パウロ自身が」どれだけしたかを示すことやそれを思い出して忘れないでということを言いたいのではないことがわかります。「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出す」ようにと、やはりどこまでも、イエス・キリストとそのみことばを指し示していることに気づくでしょう。私たちは隣人を愛すること、弱者を助けること、その両手を隣人のために使い、仕え、そして受けるより与えること、それはとても大事なことです。決して軽んじてはなりません。いやキリスト者は、隣人を愛するために世に遣わされていること忘れてはなりません。しかし、パウロがここで指し示すイエスの言葉は『受けるよりも与えるほうが幸いである。』という言葉ではありませんか。しかも「受けるより与えること」は「幸いだ」とイエスは言ったのです。では、イエスが言うその「受けるより与えること」はどんなことでしょうか。それは物質的なことはもちろんですが、それだけでははありません。例えば、相手を「赦す」ということも、それは自分の自我や守るべきものを捨てて「与えること」です。私自身、赦せない罪深い人間ですが、赦せない時、それは、私が「自分の」こだわりやプライドや価値観や正義などを「渡さない、、譲らない」と守っていて、それに固執し明渡せないからであることを気付かされます。「赦すこと」も「与える」ことです。しかもイエスの「受けるよりは与える方が幸いです」という言葉は、与えるものが、物質にせよ「赦す」ことにせよ、それは与えた後に、見返りや利益を受けることを前提や目的として与えることでもありません。何ら見返りを受けることがなくても、利益や見返りがなくても「与える」ことをイエスは言っています。なぜならイエスの「与える」はそうでしたし、何より、十字架はそうであったからです。ですから「受けるより与える方が幸い」は実は重い言葉です。私たち人間の性質は受けることばかりを求めるものです。与えたり良いことをしたり愛したりするのも、見返りがあるから、自分の利益になるからする場合が多いです。ですから「与えた」後に、「これだけしてやったのに」という言葉も出てくるのです。「受けること」を前提として人は「与える」のです。人は「受けること」を何よりも求めるのです。しかしイエスは、そのような見返りがなくても「受けるより与える」ことを実践され、私たちにもそれが隣人愛であると教え、パウロもそのことをここで指し示しています。皆さん、それが「幸い」ですか。なぜ「幸い」ですか?何より、私たちはそのようなイエス様が求め、パウロが指し示す見返りも求めない打算のない「受けるより与える」ができますか?パウロ自身が弱かったですが、弱いもの、持っていないものが与えることも簡単ですか?難しいですね。とても難しいことです。パウロも一人の罪人です。彼自身の力では決してできないことであったでしょう。「だからこそ」です。だからこそ、パウロはどこまでも律法ではなくキリストと「神の恵みの福音」を指し示してきました。だからこそ、パウロは、神と恵みの言葉に、つまりイエス・キリストとその恵みの福音に委ねるのです。

C,「愛するは、律法ではなく福音から生まれ始まる」

 みなさん、パウロが指し示すイエスの言葉、『受けるよりも与えるほうが幸いである』、弱いものを助けること、両手を隣人のために用いること、赦すこと、敵を愛すること、それは紛れもなくイエスの言葉、新しい戒めですが、そのできない行動の、動機と力となるのは、律法ではない、どこまでも福音であるということです。つまり律法を動機として、「しなければいけない」だから「する」ではありません。どこまでもキリストの十字架の言葉、福音こそがどこまでも動機であり、福音こそ出発点であり、かつその福音によって与えられる神の力、救いを得させ、御国に与らせ、ことを行わせる神の力、それは無から有を生み天地を創造し、キリストを死から復活させ、死んだものに新しいいのちを与え、新しく生まれさせる神の力がそれをさせるということです。そうではなく人の力で律法的にこの隣人愛を行っていかなければならないとするからこそ、隣人愛は「出来ることでいい」に人は都合よく解釈してしまい、イエスが求めていることを薄めてしまいます。できないことをさせてくださるイエスの福音の力があるからこそ、イエスは私たちにはできないと思われることを、「新しい戒め」として教えていることを忘れてはいけません。逆に、自分は強い、自分は持っている、自分はそんなに悪くない、と思っている人には、本当の意味で、福音から溢れ出る愛で、自分を犠牲にしてでも、弱い人を助けることはできないものです。なぜなら律法によって自分の罪深さを砕かれ、本当に神の前には無に等しいという自覚がなければ十字架の福音はわからないからです。福音は、律法で私たちが、罪深い、弱い、無に等しいと心刺されるときにこそ、その福音のイエスの与える十字架のいのちの素晴らしさがわかり、福音はそのイエスの「受けるより与える」をさせる力で満たします。そしてそれが律法ではなく福音による力であるからこそ、私たちはいつでも『受けるよりも与えるほうが幸いである』というイエスの言葉を思い出し行うように導かれることでしょう。そしてその福音が私たちの全てであるからこそ、私たちはそれが心から「幸いなり」ということにも導かれるのです。これは私自身もできない無力なものであるからこそ、福音にすがりつつ、福音から「受けるよりも与える」力が与えられ、そして「幸いなり」という心からの告白が与えられるように祈って行きたいと思わされます。福音は私たちに全ての約束を成就するのです。だからこそ福音に聞き、福音を受け、聖餐を受け続け、福音によって罪赦され安心して出て行くことにこそ、全ての真の良いわざが始まるのです。


4.「終わりに」

 説教が終わった後、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈っています。神の恵みの福音にまさしく祈りを持って委ねたのでした。周りの人々は37節以下にある通り、「声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。」と言ったことばによって、特に心を痛め」、「それから、彼らはパウロを船まで見送った」のでした。しかし実際は再び会うことになるのは述べた通りです。しかもパウロにとっては示されていたように、何人かの長老の間違った教えによって混乱する状況での再会になります。感傷的な別れの言葉や涙が教会を霊的に支え強めるのではありませんでした。むしろパウロがこの告別で伝えたかったことに私たちは耳を傾け聞くことが大事でしょう。福音は神の恵みであり、それは召されたものにとっては本当に救いの力、神の国を受け継がせ、できない隣人への愛さえも実践させる真の力、道でありいのちであり真理であるということを。イエスは今日も十字架の罪の赦し、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださり、今日も平安を与え、平安のうちに遣わしてくださいます。ぜひ神の恵みの福音をしっかりと受け、今日も平安のうちにここから出て行こうではありませんか。そして世にあって「受けるより与える」ために用いられ、そしてそれが「幸いなり」と告白の言葉が口に与えられるように祈り求めていこうではありませんか。