2019年11月24日


「聖霊がはっきりと証しされる」
使徒の働き 20章22〜24節

1.「どんなことが起こるかわからない」
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。」22節
 パウロは「エルサレム」で「どんなことが起こるかわかりません」と続けます。彼はこの文脈では19節で、「ユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で」とあり、23節でも「縄目と苦しみ」、24節でも「いのちを少しも惜しいとは思いません」と述べていることからわかるように、聖霊に縛られて導かれている「エルサレム」では、楽しい良いことが待っているということではなく、壮絶な拒絶と迫害が待っているかもしれず、それは自分の死であるかもしれないということまでも予測している言葉として語っているのです。ところが23節では、そんな縄目と苦しみ、そしてどんなことが起こるかわからない未来において、これこそはっきりとわかっていることがあると述べます。

2.「わかっていること:聖霊のはっきりとした証し」
「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」23節
「これこそはっきりとわかっていること」ーそれは「聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされる」ということでした。それは聖霊の働きの確かさを意味していますが、そのための縄目、苦しみであり、縄目や苦しみは、聖霊の働きが確かであり100パーセント成就するための単なるプロセスに過ぎないということです。それは苦しみや縄目の内容は分からずそれは死に至るかもしれなくとも、しかしそれらに勝る神の働きと救いのすばらしさこそが「はっきりとわかっている」とパウロは伝えていることがわかるのです。
 事実、パウロはこの苦しみや縄目、もしかしたら死が待っているかもしれない状況の中で、次の言葉は、彼の確信と希望と強さが伝わってきます。そこには、その聖霊のはっきりとした証しとは何かが書かれているのですが、こう続いています。
A,「聖霊が「走るべき行程を走り尽くす」を証しする」
「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」24節
 聖霊のはっきりとした証し、それはまず第一に「自分の走るべき行程を走り尽くし」とあります。それは具体的に何でしょう?それは「主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えること」とあります。それが聖霊によってはっきりと証しされると、パウロはいっているのです。ここには大事な言葉がいくつかあります。まず「自分の走るべき行程を走り尽く」すことも、「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えること」も、それは、ここにある通り「主イエスから受けた」ことであり、イエスからきたものであるからこそ、聖霊がはっきりと証しすることであるということです。つまり、決してパウロは、自分の力や自分の言葉によってそれが達成できる、工程を果たし終えることができる、任務を果たし終えることができる、とは思っていなかったということです。それは「主イエスから受けた」ものであり、だからこそ「聖霊によって」それははっきりと証しされる、明らかにされる、実現するということです。
B,「力は人からではない?福音からでないなら」
 もちろん、それはパウロが行い、パウロの口から語られると言う事です。しかしその行動、信仰、言葉の「力」や「強さ」が自分の何かから出て、自分の努力の産物だと思うなら、パウロは自分を誇る事でしょう。自分や人からその功績や力が出ているものは、その栄光も人や自分に帰すものです。しかしパウロは、確かに自分が行い、苦しみ、語り、伝えてきた事であっても、決してそこに人や自分にその原因や力や動機や目的を見ていないでしょう。彼ははっきりと確信を持って言っています。それは「主イエスから受け」「聖霊によってはっきりと証しされる」と。
 どんなに優れた行いや宣教があっても、それが時が良いときばかりではなく、時が悪くともですが、私たちが本当にキリストへの信仰によって行動すると言うのであるなら、その行動の源、原因、力、動機がキリストから、それも救いもいのちもない律法ではなく、私たちの救いの核心である十字架のキリスト、福音から来ているのでないなら、私たちは自分の吟味が必要です。もしキリストではなく、人や律法から生まれている行いであるなら、その人はパウロのような言い方ではなく、結局、自分や功績のある人を誇り栄光を帰すような言い方をする事でしょう。それは聖霊によるはっきりとした証しでもなければ、曖昧な人の曖昧な自信、曖昧な拠り所、そして曖昧な平安に終わる事でしょう。パウロは「自分の走るべき行程を走り尽く」すことも、「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えること」も、それはここにあるとおり。「主イエスから受けた」ことであり主イエスからきたもの、福音から生まれたものであるからこそ聖霊がはっきりと証しすると自信を持って断言できるのです。だからこそそこには強さもあります。時がたとえ、悪くともです。ここはまさに時が悪い時です。悪いことが予測されています。しかしそれでも彼はこれほどまでも強く確信を持って言うことができるのは、自分の新しいいのちの歩みも、その宣教の使命も、走るべき行程も、そしてその達成も、どこに拠り所をおき、どこに原因と動機があり、その原動力もどこから来ているかがはっきりとしているからです。それはイエス・キリストとその十字架、福音であると言うことに他なりません。

3.「競争と格闘?「自分を打ち叩いて」の意味」(第一コリント9:24〜27)
 事実、この「走るべき行程」と言うと、私たちは思い出すところがあります。コリントの9章でパウロはやはり競争のことを取り上げて言っています。9章24?27節
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」第一コリント9章24?27節
 パウロはここで有名な言葉を記しています。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」と。ある教会は言います。「パウロは「自分のからだを打ちたたいて従わせる」と書いているではないか。だからそのように信仰や良い行いや、奉仕や服従などなど、「自分の体を打ちたたいて従わせ」なければダメなんだ、人にものように「自分の体を打ちたたいて従わせ」るように教えなけえればダメなんだ。」そのように律法や意志の力を強調する教会はそう教えるかもしれませんし、実際、他教団の教会ではそのような説教を確かに聞いたことがあります。しかしパウロはここではっきりと言っています。
A,「何のためか?」
「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」9章23節
さらに、9章16節では彼はこうはっきりと言っています。
「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」9章16節
 パウロは「何にために」、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っているかと言うと、全ては「福音のため」であり、「福音を宣べ伝えるため」であると言っていることがわかります。そして、ここに競技も格闘も、福音のため、福音を宣べ伝えることを指していることだとわかるのです、つまり決して、信仰を律法にしてしまって、そのような律法として信仰、律法としての良い行いや奉仕のために、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っているのではありません。まして、そのような「律法のために」、律法によって、人に「自分のからだを打ちたたいて従わ」せなければならないと言うための指針や方法論でもないのです。しかもパウロは、9章18節では、そのように「福音のために」「福音を宣べ伝える」ということは、報いを求めないで「与えること」だとも書いています。律法の動機から出て、律法のために人に求めたり、あるいは人から出て人に求める場合も同じですが、それは、必ず相手に報いを求め、そこには打算が必ずあります。こうすればこうなるはずだと。しかし福音のため、福音を宣べ伝えるという時には、そのような律法や人から生まれるものとは別次元です。それは求めるのではなく「与えるのだ」と。ですから、パウロは「何のために」、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っているのか。それは律法のためか、福音のためか、あるいは「律法を人に行わせるためか」あるいは「福音を宣べ伝えるためか」、で180度違います。パウロは「福音のため」「福音を宣べ伝えるため」と言っているのです。事実、
B,「朽ちない冠はどこから?決勝点はどのように?」
「私たちは朽ちない冠を受けるためにそうする」9章25節
とあるでしょう。「朽ちない冠」は、誰が何のゆえに何を通して与えるものですか?律法ですか?律法の行いを果たすからですか?律法の行いを律法でさせるためですか?そうであるなら、聖書も福音も全て矛盾します。そうであるならキリスト自身が必要ありませんしクリスマスもありません。そして結局、救いも朽ちない冠も私たちには決してありません。「朽ちない冠」、それは神がイエス・キリストにゆえに、イエス・キリストを通して、イエス・キリストの十字架の福音によってではありませんか。さらにこうあります。
「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」26節
 決勝点、ゴールとはなんですか?その決勝点やゴールを約束しているもの、与らせ、そこに導くのは何ですか?律法ですか?律法のために律法で、自分を鞭打たせて従わせる先にあるのですか?もしそうであるなら、救いは信仰義認ではなく、明確な行為義認であり、福音もイエスの十字架も全く必要ありません。そう、その決勝点もゴールも、イエス・キリストからであり、イエス・キリストの十字架の福音によってではありませんか。だからこそ、決勝点がどこかわかるような走り方ははっきりとしているでしょう。それは福音によってということです。自分が福音によって生かされ、福音によってその素晴らしさ、その平安、その自由を知り与っているからこそ、私たちは福音のその素晴らしさや平安や自由を伝え証することができるでしょう。しかし自分が律法に生き、人に律法を求めていながら、同時に福音を語ることは決してできません。それは福音を語ることも律法にしてしまっていますし、何より福音によって自分が平安も希望も喜びも経験していないなら、それを証しするは難しいでしょう。それこそパウロが「私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなこと」に陥っていることを意味するでしょう。パウロは福音こそ全て、イエス・キリストの「十字架の他には何も知らない」と言うほどに、福音によって生まれ、福音に全ての力、平安、希望、喜びがあり、福音によって全ての益、全てのプロセス、福音によってゴールがある。キリストの十字架の福音こそ伝える全てであり、それこそがパウロの「走るべき行程」であり、それはイエスから来たものであり、それはその福音に働く聖霊によって証しされるものだということを私たちに伝えているのです。

4.「あなたにとって福音は愚かでつまずきか?それとも神の力か?」
 みなさん、福音は、知恵やしるしを求める人々にとっては愚かでつまずきではあっても、信仰を与えられた私たちにとってはこれほどまでに素晴らしいものはないとわかるはずです。しかしその通り、罪の世は知恵やしるしを求め、それで判断するからこそ、十字架の福音は愚かであり躓きです。その福音にしっかりと結び合わされ生きることは決して簡単なことではありません。なぜなら私たちの罪の性質は、すぐに知恵やしるしに依存してしまい、十字架の言葉、福音なんて力がない、何もできないと思ってしまいやすいからです。だからこそ本当に福音のために、そして「律法に化けていない福音」、「福音のような律法」でもない、真の十字架の福音を宣べ伝えることは、困難な競争であり格闘であります。私たちは律法のためではなく、人に律法を行わせるためではなくて、いのちであり道であり、真理であるこの福音のためにこそそれこそ鞭打ってでもとどまり続け、伝え続けることは大事なのです。しかしその福音からこそ逸れ律法に向かい依存しやすく、サタンはそれこそを狙っているその現実を知ることも大事なことです。しかしそのような弱さがあるからこそ、聖霊が与えられているし、毎週、十字架の福音は語られ聖餐は与えられるのです。その弱さを知るからこそ主に祈り求めることもできます。そのように律法ではなくキリストの福音に力をいただき、聖霊の豊かな助けを日々いただきながら、私たちも福音に生かされ、そこで経験する平安、喜び、自由を、つまり福音の素晴らしさを、律法ではなく福音を動機ずけられ証ししていこうではありませんか。