2019年11月10日


「聖霊によって心を縛られ」
使徒の働き 20章22節

1.「聖霊によって」
 パウロは自分が主への恐れをもって語ってきたことは「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」だと教えます。つまり「十字架の言葉である福音」でした。それこそが世が与える益とは違い、世が与えることのできない神からの本当の益をもたらすものなのだとパウロは始めたのでした。パウロはさらに続けますます。22節に注目します。
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。」20章22節
 ここでパウロは「心を縛られて、エルサレムに上る途中です」とあります。この「心縛られて」という言葉です。これは英訳(ESV)だと”constrained by the Spirit”とあります。つまり「誰によって」心を縛られているのかが書かれています。「聖霊によって」です。ルカは、教会やパウロ自身もいつでも聖霊によって導かれていることを強調してきました。13章ではパウロとバルナバがアンテオケの教会から最初の宣教旅行に遣わされるその時も「聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた」(13:2)とありましたし、そのようにして祈りを持って遣わされる二人についても「ふたりは聖霊に遣わされて」(13:4)とあるのです。つまり、聖霊によって宣教へ遣わされました。さらには16章、二回目の宣教旅行ですが、アジヤを巡ろうとしたパウロですが「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」(16:6)とあり、「こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」(16:7)とあったのでした。パウロが行こうとする方向を、聖霊がそちらではないと示し、この後、マケドニア人の青年の幻によってパウロは、主がそのように禁じていたのは、そのようにマケドニアへと導くためであったと悟ったのでした。そして事実、エルサレム行きについては「パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした」(19:21)とありました。このように教会、何よりパウロ自身が「聖霊によって」行くところへ心を縛られ、導かれていた事がわかります。

2.「心縛られる」
 この御霊によって「心縛られ」ということ。どう思うでしょうか。「縛られ」とあるので、何か不自由な、束縛されているような。マイナスのイメージに捕らわれるかもしれません。しかし私たちは気付く気付かざるとに関わらず「何かに縛られて」生きているものです。挙げれば色々出てきます。法律、社会的責任や国民の三代義務もあります。潜在的なものもあります。「縛られている」は「支配されている」という言い方もできますが、明らかにお金とかスマホとか、物に縛られ支配される場合もありますし、流行、価値観、あるいは偏見、先入観、思い込み、決めつけ、等々もあります。あるいは正義とか、しかも一方的な正義に縛られる場合もありますし、自分自身の願望、期待、欲求とかに縛られる場合も人は多いです。あるいは宗教であれば、その教えや命令、カルトなどでは「こうすれば幸福になる」「こうしないと悪い事が起こる」とか強迫観念を煽りますが、それに縛られるからこそ彼らは一生懸命にもなります。聖書ではどうでしょうか。「律法による束縛」という言葉が出てきます。「こうでなければ救われない。祝福されない」「こうでなければダメだ」等々、そのような律法の束縛によって行動したり、あるいは人にさせたり、禁じたり、責めたり裁いたりがあります。あるいは「罪の奴隷」という言葉も出てきます。それは人の性質でもあり遡れば堕落の時の「神のようになれる」という誘惑によって、神と神の言葉を退けた、その誘惑へ従おうとする、全ての人にある思いであり、それは自分中心な思い、自分勝手な思い、自分の正義や価値観や欲望や感情のままに判断する「思い」です。行動ではありません。「思い」です。ですから「罪の奴隷」と言う時、「どう悪く思っても行動しなければいい」というレベルのことを聖書は言っていません。心が神を退け、心が神のようになりたいと思ったのです。そして「神はその心を見られる」とある通りです。この心が縛られるのです。むしろ「行動の」制約や縛りよりも、この「心が縛られている」、あるいは人は必ずその心が何かに縛られているのですから、むしろ「何に心が縛られているか」の方が実は私たちにとって大切なことかもしれません。

3.「聖霊によって心縛られるーそこに自由がある」
 では聖霊によって「心を縛られる」とはどういうことでしょう。それはこれまで挙げてきた「縛り」「束縛」とは違うものです。世の心を束縛するものは、それらが主になり中心になり、その支配の下におかれる事で、何より私たちの心も行動も不自由にするものです。しかしその聖霊については、パウロはコリントの教会に宛てた手紙第二の3章17節でこう言っています。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
A,「パウロの資格」
 御霊によって心を縛られる。しかし縛られるはずなのに、その主の御霊、聖霊のあるところには自由があるとパウロは言います。どういうことでしょうか。パウロはこのところで、聖霊に対して、人が依存し用いやすい「律法による束縛」のことを言っています。パウロはこのコリント第二の3章で、みことばを説教する自分の資格や推薦について語り初めています。それは2章最後からの続きで2章17節にはこうあります。「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」と。コリントへの第一の手紙でわかるようにコリントの教会には多くの間違った教えが入ってきました。そんな中、コリントの信徒たち、クリスチャン達も説教の内容であり中心であるキリストに聞くのではなく、人を見て、自分は雄弁なアポロに着くとか、ペテロに着くとか、パウロに着くとか、パウロを支持する人もいつつも、人間的な価値判断の束縛や人との比較で、アポロのように雄弁ではないがパウロの混ぜ物のしない真っ直ぐなキリストの十字架を語ることに対して、資格がないとか、そんなメッセージ聞きたくないと批判する人はいたのでした。キリスト以外の中心に「心を縛られて」教会や説教や説教者を判断する人たちです。
 しかしそのような資格や誰からの推薦か、つまり誰からの「召し」かということに対して、このコリント第二3章で彼は述べ始めます。パウロは自分でも推薦はしないし、誰か人からの推薦状も受けてないし、それは重要な事ではないと。むしろ律法という石の板に書かれたことではない、パウロの福音の説教を聞いたあなた方一人一人の心にキリストが書き記したキリストの十字架の福音が刻まれており、その心が福音によって生かされていることこそが何よりの推薦状であるのだと言います。そして第二コリント3章5節でこうあります。
「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」第二コリント3章5節
B,「資格についての誤解と、「資格は神から」の幸い」
 ここでパウロは「私は」とは言わずに、「私たちは」とも言っています。それはクリスチャン一人一人についてです。クリスチャンは誰であっても、皆一人一人、「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません」と。皆さん。これは幸いな言葉です。私たちは皆この「資格」で躓く経験があります。自分の資格を、律法で判断します。律法は「要求するのみ」ですから、つまり自分が何をしたか、何ができるかで資格やふさわしさを判断することになるですが、そこに自分の資格をこう判断します。こんなに自分は何もできないから、何もしていないから、これをしなかったから、これを間違ったから、こんな失敗をしたから、自分は資格がないと。そうですか?私たちのクリスチャンとしての資格は、そんなものだと聖書は教えているでしょうか?それとも逆に、こういう人もいるかもしれません。「これこれを自分は一生懸命したから、クリスチャンにふさわしい。天の御国にふさわしい。資格がある」と。そうですか?イエスはそう教えていたでしょうか?むしろ逆です。ルカ18章10節以下、二人の人の祈りで、そのように祈ったパリサイ人ではなく、罪を認めただ「憐れんでください」と言った取税人の方が、義と認められて家に帰った。イエスはそう教えたのでありませんか。私達は、私自身も含めていつもこの「勘違い」をします。クリスチャンとしての資格、救いの資格は自分の行いにあると。そうではないでしょう。
「私たちの資格は神からのものです」
 そうではありませんか。神がキリストを私達に与え、そのキリストが、神を罵り、否定する、自分勝手な、何度も裏切る私達のために、十字架にかかって死に罪の赦しを与えて下さったからこそ、その信仰をみことばを通して与えてくださったからこそ、私達はそのキリストの十字架のゆえに神が義と認めてくださるのでしょう。それは神が私達の行いや罪を見るのではなく、それがすべて処理されたこのキリストの十字架を見るからこそ、十字架を私達に当てはめて見てくださるからこそ、キリストのゆえに義とされることです。私達の資格は神からのものでしょう?神の前の義を、私達自身に、私達の行いや心に探しても「絶対に」見つかりません。つまりそこに探しても私達の平安はありません。十字架のキリストを見るからこそ私達の義、私達の資格、推薦状はそこにあるのです。私達のクリスチャンとしての義、資格、推薦状は、十字架のキリストにこそあるし、キリスト以外には絶対にないということです。
C,「聖霊はどんな霊?」
 そしてそのことを明らかにして、信仰を日々、支え、新しくし、強め、平安のうち歩ませるのが聖霊ではありませんか。聖霊についてイエスは言いました。「助け主」だと。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14章26〜27節
「与えられる「助け主」なる聖霊こそ、あなた方に全てを教える。あなた方にわたしが教えたこと、福音の言葉を思い起こさせる」と。「そのように平安を残すのだと。それは世が与えることは決してできない。神であり救い主であり助け主であるまことの神であるわたしだけが与えることのできる平安なんだ」と。だから恐れてはいけないと。皆さん、イエスは、私達が自分では何もできないことを知っています。「聖霊が全てを教える」とある通り、私達は自分では何も学び得ません。「聖霊がイエスが語ったことを思い起こさせる」とあるとおり、私達は自分たちでは思い起こすこともできないものです。忘れてしまうものでもあります。しかしイエスはそんなことも全て知っているということです。しかしそのために、全て教えるため、すべて思い起こさせるため聖霊を送るのだというのです。ここに律法と逆のことがあるでしょう。律法だとどこまでも要求であり、主体は行う自分、私達自身です。自分がどれだけ自分で知り、何度も繰り返すことで思い起こし、それを実行することに資格があります。「律法による束縛」は自分か誰か他の人にかかっています。しかも行った先の報酬に心配し、できない、できなかった時の罰に怯えたり心配したり、人に期待し思い通りにならないことに躓き、責め、批判しながらです。律法は決して誰にも平安をもたらしません。しかも神の前に律法を決して自分で達成できない上に罪に定めますから希望もありません。そして何よりその束縛は要求するだけですから誰にも自由がありません。律法の行いにせよ、感情や願望や価値観や評価にせよ、人の何かに心が縛られるということは平安もなければ自由もありません。
D,「聖霊のあるところに自由がある」
 しかし御霊は私達のために助ける霊であり、ことを行なってくださる霊であり、約束を成就させてくださる霊です。教えてくださり思い起こさせてくださる霊です。パウロは「主の御霊のあるところに自由がある」と言った後こう続けています。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章18節
 つまり御霊は目を開いてくださる霊であり、栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えてくださる霊でもあるのです。つまりここには「キリストは模範である」という律法からも解放されます。もちろん「キリストは私達の模範」ということは正しいです。しかしそれは「私達が頑張ってイエスと同じ形に変わらなければいけない」という律法ではないことがここにはっきりと分かるでしょう。「キリストは私達の模範」は、律法ではなく、福音であり約束です。それはここにある通り、変えられていくのです。主の御霊によって、福音の力によってです。それは「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと」ある通り、神の栄光であるキリストの十字架を復員によって見るときに、その福音の言葉を聞きキリストから目を離さないとき、鏡が光を反射させるように極自然に御霊が働いてしてくださるということを意味しています。ですから十字架の言葉に聞きイエス・キリストを見上げ歩み、そこに働く主の霊に助けられ御霊にすがりながら歩むことは重荷も束縛もないです。御霊に心を縛られるというのはそういうことです。そこには本当の平安、安心、希望、そして自由があるのです。皆さん。それは今日の箇所の使徒20章23節にある通り、苦難が待っていることがはっきりとしていたとしても揺るがない自由です。

4.「終わりに:何に心を縛られるか?」
 私達は必ず何かに心が縛られて生きています。それは何かに依存し、何かを拠り所としていることと同じです。では私達は何に心を縛られて歩んでいきますか?私達にはいのちの言葉であり義である、イエスの十字架の言葉、福音が与えられているではありませんか?信仰が賜物として与えられているではありませんか?そしてそれを助ける聖霊が与えられているではありませんか?それは世の知恵やしるしを私達が求めるときに愚かで弱々しく見えます。しかし私達が主の栄光、イエスの十字架を見上げるなら、それは私達にとって神の力、平安であり自由であることがわかるはずです。ぜひ見上げましょう。福音と聖霊によって心を縛られ、安心してここから遣わされていきましょう。