2019年11月3日


「益になることは、少しもためらわずに」
使徒の働き 20章13〜21節

1.「エルサレムへ向かう前に」
「さて、私たちは先に船に乗り込んで、アソスに向けて出帆した。そしてアソスでパウロを船に乗せることにしていた。パウロが、自分は陸路をとるつもりで、そう決めておいたからである。」13節
 まずパウロを除いたルカを含む一行は、先にトロアスから船で出発しますが、パウロは船に乗らず、トロアスから海沿いを南に行ったアソスという街まで歩いて行きます。そして14節にある通り、アソスからパウロも船になり、ミテレネ、サモスと寄港して、そして途中の沿岸のエペソには立ち寄らず、エペソを超えてさらに南へ行った、ミレトという沿岸の町に着くのです。16節にはその理由としてこうあります。
「それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである。」16節
 見てきましたように、それまでエペソには2年以上と非常に長く滞在しておりました。パウロは聖霊によってエルサレムへ行くように示されていましたので、その示されたエルサレムにはできれば五旬節、ペンテコステの日までにはついていたいと思って急いでいたので、エペソであまり時間を取らないようにするためにエペソには寄港しなかったのでした。それでもパウロは17節にあるように、ミレトからエペソに使いをやり、エペソの教会の長老たちを呼び寄せるのです。その理由がこの後を見ていくとわかるのですが、パウロはエルサレムへ行くことにより、もう彼らに会うことができないと思い、その別れをするために呼び寄せたのでした。18節からそそのパウロの言葉が始まっています。

2.「主への謙遜の限りを尽くし主に仕え」
「彼らが集まって来たときパウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなた方と過ごして来たかよくご存じです。」18節
 パウロはエペソの長老達、そしてミレトのクリスチャンたちを前にして言います。「アジヤに足を踏み入れた最初の日」、それがいつの最初の日なのか、つまりアンテオケから出発し、アジヤの地中海沿岸の港町パンフリヤへと足を踏み入れた第一回目の宣教旅行の時なのか。2回目の宣教旅行で立寄った時なのか、あるいは3回目の宣教旅行で陸路、エペソに入ってきた時なのか、いつを指すのか曖昧ではありますが、何れにしても、アジアで宣教を始めたその最初の日、最初の時からです。パウロはあなたがたと共に過ごしてきたと行っており、パウロがどのように過ごしてきたのか、あなたがたは知っていると始めます。それは、
「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」19節
 とまずあります。宣教のはじめの時からユダヤ人による反発、迫害の連続であり、行く街街で暴動が起こり、パウロとその一行も教会も試練の連続でした。そこには涙もあったことが書かれています。患難なのですから、パウロも人間ですから涙することがあったことがわかります。それは肉体的な苦しみもあったことでしょう、第一回目の宣教旅行では、鞭打ち、石打で、死ぬような思いもしましたし、そのような反発や迫害や、肉体の危険の中で、精神的にも苦しかったでしょうし、無理解や理不尽な扱いもありました。そればかりではない、自分の思い通り、願い通り、期待通りにはならないのですから、「主よなぜですか?」と思うようなことの連続もあったことでしょう。しかしそれでも謙遜の限りを尽くして主に仕えてきたと彼は言います。ここに「謙遜」という言葉ありますが、その「謙遜」は「主に仕えてきた」とあるように、主への謙遜であることがわかります。それは主への恐れと謙りを意味しています。そのような壮絶な苦難と涙の連続であったパウロすが、その状況では、主への恐れ、つまり「主を神とする」ことなくしてはむしろ進んでは来れなかったことでしょう。むしろ逆にそれが「主を神とする」のではなく、人への恐れや人への謙りであったなら、人や人の動向によって結局左右されることになり、試練や壮絶な痛みや涙が起こった時に、それでも主に仕える、つまり召命に従うことはできず人に流されていったことでしょう。ですからこの「誰への」謙遜であったのか、その謙遜の限りを持って「誰に」仕えてきたかは重要なことなのです。神を神とするか、人を中心にするのか。パウロは、神を神とし、主を恐れ、主への謙遜であったからこそ、つまり主を拠り所とし、主と主の言葉、主の約束、主の真実さに信頼してきたからこそ、主に仕えてこれたのです。
 それでは次に、謙遜の限りを尽くしてパウロは、「どのように」主に仕えてきたのでしょうか?それは20節でこう続いています。

3.「どのように主に仕えてきたのか?」
「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、」20節
 パウロは、「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました」とあります。人々の前でも、家々でもそのように教えてきたと。ではその「益になること」とは一体なんでしょうか?それはこう語っています。21節です。
A,「「益になること」とは?」
「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」21節
 「益になること」と何でしょう?ーそれはユダヤ人にとってもギリシャ人にとっても、「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」だとあるのです。つまり、律法と福音の言葉です。そして何よりその「主イエスへの信仰の言葉」というのは、パウロにとっては、第一コリント1章にもありますように、それは「十字架の言葉」であり「十字架につけられたキリスト」を意味しています。パウロにとってはそれこそが福音であったでしょう。この「ユダヤ人にもギリシャ人にも」という時、事実、パウロは第二回目の宣教旅行のときには、ユダヤ人にもギリシャ人どちらからも壮絶な拒絶にも会っていますが、パウロは、彼らにも「益になる言葉」をやはり語ってきたのです。それは「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」、つまり「十字架につけられたキリスト」こそ彼らにとっても真の益をもたらすものであると。パウロはこういっています。
「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」第一コリント1章23〜24節
B,「人の求める益か?神が与える真の益か?」
 皆さん、このエペソの長老達、ミレトのクリスチャン達、そしてルカにとってもパウロにとっても、そして私たち現代のクリスチャンにとっても、変わることのない本当の「益になること」は何ですか?ーそれは、「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」、「十字架につけられたキリスト」ではありませんか?「益」とある時に、人は大にして、人間の側の自分たちの思いや願望や価値観を中心にして益として推論し仮定し見てしまうことがあるかもしれません。そして自分中心の視点から、こういう話がいまの自分に必要だ。こういう話を聞きたい。もっと楽しい面白い、心地よい、そういう話の方が励まされる。喜んで帰れる。逆にこういう話は面白行くない。耳に優しくない。聞きたくない。そのような自分が求め、期待し、思い描くその「益」に合致する話が、「益となる話」となる。それはあるかもしれません。私自身、そういう聞き方をしていたことがありました。そうなると何が起こるとかというと、「神に対する悔い改め」つまり「神の前の罪深さを認めさせられる」ということですが、そんな言葉なんて耳に優しくない。できれば閉ざしたい、蓋をしたい、聞きたくないと思うものです。しかしそのような自分から見た「益」を、聖書が約束する「益」だと当てはめてしまうと福音が見えなくなります。むしろ十字架につけられたキリストの福音が全く光ではなくなり、当然「益」でもなくなることになるのです。事実、パウロは、そのような人間の罪深い性質を知った上で、弟子のテモテにこう注意しています。
C,「「神が何を私達に語っているか」ではなくなる時」
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」第二テモテ4章1〜5節
 パウロは知っています。「神が何を私達に語っているか」ではなく、人基準、人中心で求める益やニーズに従った言葉を求めるようになる時に、健全な教えである悔い改めもキリストの十字架の言葉にも人々は耳を貸さなくなるばかりか、人々は「自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」とパウロは知っていたのです。この初代教会の時代にもそれは既にありましたが、それはいつの時代も衰えることなく起こってきました、今もあります。悔い改めや十字架の言葉である福音をむしろ脇に寄せて、十字架のキリストではない、単なる模範のキリストであったり、十字架は関係ない、癒しや優しさだけの神であったり、聖書の都合のいい言葉を利用しただけの心理学的な教えであったり、逆に律法で煽り立てたり、義務化するような合理的で規律的な教えであったり、上げればきりがありません。共通しているのは、「人基準の益」であること、そしてそこに悔い改めと罪からの救いであるキリストの十字架がないこと、そしてそこには救いという本当の益がない、神の前では空想話しかないということです。それがパウロのいう困難な時代でもありました。しかし「それでも」パウロはみことばを、つまり、真に益となること、「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても。そのように人々が都合のいい教師を呼びあつめ、空想話を求めたとしてもです。そしてテモテにも言っています。「どのようなばあいにも慎み、困難に耐え」と。今日の19節と同じです。謙遜を持って、困難の中でも、主を恐れ、神を神とし、召命に答えて行くようにと。
D, 「少しもためらわずに」
 そしてこの言葉は実に印象的です。20章20節ですが、パウロでさえもこう言います。
「益になることは、少しもためらわず」
 と。この「少しも躊躇わず」という言葉。変だと思いませんか。もし私たちの価値観で見て、万人が受け入れ喜ぶような「益」になることであるなら、ためらう必要がないはずです。しかし伝えることに「躊躇い」が起こる現実があるからこそ「少しもためらわず」とあえて書いているのがわかります。そうまさにその本当に益となる言葉、「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」、「十字架につけられたキリスト」の言葉は、まさにパウロが言うように、世の人々にとって、つまり知恵を求めるギリシャ人にとっては愚かであり、しるしを求めるユダヤ人にとっては躓きです。そのようにしるしや知恵を求める世の人々は、十字架の言葉に神の力などあるようには思いません。むしろ十字架の福音こそを絵空事、空想事、非現実的なこととします。だからこそそのような人々はいうのです。「そんなことは聞きたくないと。十字架、福音、合理的でも実際的でもないなんて弱々しい、愚かで、力もないような、益にもならないようなことを言っているのか。もっと自分たちから見て実際的な結果や成功するようなこと、私たちの利益になること、楽しいこと、心地よいこと、聞きたいことを聞きたいんだ。あるいは、もっと人の力と義務で人を規律するような律法を語って欲しい」と。自分本位で自分基準のしるしや知恵を求める人はどこまでもそう求めてきます。そのような声の嵐の中で、確かに実際的で合理的で万人ウケするような言葉を語る方が人間的には楽かも知れません。しかし神の言葉に誠実であろうとすればするほど、そこには躊躇いが当然起こる。いやパウロでさえも十字架を語ることに「躊躇い」が起こりうるようなそんな世の現実を見ていたらこそ「躊躇い」のことを口にしています。しかし、それでも、そうであっても、パウロがこれこそあなた方の、つまりギリシャ人であってもユダヤ人であっても、何人であっても、「これこそ本当の益とである」と確信するからこそ、
「あなたがたに知らせました。ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
 とパウロが言っているのがわかるのではないでしょうか。

4.「終わりに」
 皆さん。ここに神は私たちに何を語り、何が本当の益となる言葉であり、何に私たちにとっての神の力があるのかが教えられます。それは昔も今も全く変わらない。律法と福音の言葉。「神に対する悔い改め」と「私たちの主イエスに対する信仰」、それは「十字架につけられたキリスト」の言葉です。人間の都合で呼び集める空想話は、その通り、空想話です。どんなに合理的で聞こえの良い、心地の良い教えであっても、悔い改めと十字架の福音がなければ、新しくされることも、平安も、何より救いもない、真の益をもたらすことのない言葉です。皆さん。私達が受けているのは「十字架につけられたキリスト」のことばであり、それがいのちのことば、真の益です。今日も、悔い改めに導かれつつ、そこに輝く光である「十字架につけられたキリスト」の言葉こそ私の平安、救い、神の力であると今日も告白し、ぜひ感謝と確信を持って聖餐を受けましょう。そして、イエスが与えてくださる平安のうちに、ここから遣わされていこうではありませんか。