2019年10月13日


「主イエスは艱難を通して」
使徒の働き 19章21〜41節

1.「前回まで」
 パウロがエペソの会堂で、イエス・キリストの十字架の言葉である福音の言葉を通して「神の国」を語りました。パウロはユダヤ人やギリシャ人を信じさせようと説得しようと勤めますが、彼らはますます心を頑なにしました。それは信仰は人の説得のわざではなく、聖霊によらなければ人に信仰は生じないことを意味していました。ですからパウロはそこで尚も説得し努力しようと前に出るのではなく、一度、会堂から身を引いたのでした。それは全てをなされる主へ委ねるためでした。その通りにパウロが身を引いて講堂で福音を伝え続けて2年あまり、パウロが意図も計画もせずして主イエスが行動を起こされました。パウロを通して不思議なわざが次々と起こり、悪霊が逃げ出すほどでした。ユダヤの祭祀の息子の霊媒師たちもイエスの名で同じことをしようとしましたが、彼らには聖霊がいないので悪霊の反撃にあってしまったのでした。このことによって恐れをなしたエペソの人々は、パウロが伝えるイエスキリストを信じるようになり、霊媒師たちも高価な霊媒のための書物さえを焼き払うほどであったのでした。そのようにして福音は、人間の説得の力ではなく、聖霊の力によって人に信仰を与え広がって行ったということを見てきたのでした。

2.「御霊の示しにより」
「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しによりマケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。そこで自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出したがパウロ自身はなおしばらくアジヤにとどまっていた。」21節
 パウロはマケドニヤとアカヤへと行きます。それは「御霊の示し」であったことが書かれています。御霊とはイエスの霊のことですが、パウロの向かうところは「御霊の示し」があったのでした。「御霊の示し」があったということは主の言葉があったということでもあります。このことは、彼やあるいは彼を招く人々が思うところ計画するところに、彼がどこに行くか、どこで宣教するかが決まっていたのではなく、どこまでもみ言葉と「御霊の示し」によってであったことがわかります。2回目の宣教旅行のはじめ、アジヤで最初、彼は行きたところにいこうとしましたが、しかし御霊によって二度も禁じられ、そしてマケドニアの青年の幻が与えられました。その時パウロは主イエスが行くべきところを導いておられる、主が行くべきところの御心と計画を持っておられることを悟りました。この時も「御霊に」示されるのです。そしてエルサレムへと向かいエルサレムから今度はローマへ行くように御霊に示されたのでした。

3.「主が示す道は主の手の中に」
 しかしです。この先を読んで行くとわかるのですが、パウロがこの後、その聖霊の示されたエルサレムに着くまで、さらにはローマに行くまでも、それは直ぐにそうなるのではなく、その示される地に至るまでには決してスムーズに何事もなく着くのでもなければ、それこそ彼が計画した通りにではなく、予期せぬ紆余曲折があってその示された場所に着くことになるのです。ですから21節でそのよう示されつつも、この22節でわかるように、結局、パウロはエペソにしばらく滞在することになります。ですからここからもわかります。主は確かに私たちに召命を与え行くべき道を示し導かれます。それは主イエスにあって確かなことです。しかしその「確かさ」は人間から出た人間にあっての「確かさ」ではなく、あくまでも主から出た主にあって確かなことであるがゆえに、それがいつどうなるのかも主の側のことです。事実、聖書は伝えています。使徒の働き1章、イエスは聖霊の約束をした時、弟子たちは何時とかどんな時とか知ろうとしましたがイエスは言われました。
「イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(1:7)
 私たちはいつとかどんな時とか知りたいものです。知ろうともします。しかしそこでそれが主のわざであり、主の召命と計画によって私たちは用いられているのであるから、いつとかどんな時とか、父がご自分の権威を持って定めている、という「主への信頼」ではなく、人間の力や計画への依存から抜け出せないと、なかなか「いつとかどんな時が」自分の期待通りに実現しないときに、人間は躓きます。そして「主への信頼」がなく「人に拠り所がある」からこそ、結局は、裁き合いや、「誰のせいだ」と、堕落したアダムとエバのように、神や人への責任転嫁になります。パウロのようにはっきりと「御霊の示し」があっても、その御霊が示した通りにエルサレム到着やローマへの出発が実現するのは、パウロはいつとかどんな時とかは解らなかったのです。しかしそれはイエスが言われた通り、「いつとかどんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになってい」るということがここに教えられるのです。

4.「十字架の言葉(福音)は世にっては愚か」
 さてそのようにパウロがエペソになおもしばらく滞在している時です。さらに一騒動起こるのです。23節以下ですが、「この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった」とあります。「この道」は、パウロが伝えていたイエス・キリストの福音のことで、見てきたように、エペソではイエスが起こした驚くべき出来事によって多くのユダヤ人やギリシア人が福音を信じ、ユダヤ人の祈祷師などは高価な書物を焼き捨ててその職業を捨ててついて行くほどであったのですが、しかしそのような多くの人が信じたことによって、エペソ社会には小さくない問題が起きたようです。デメテリオは銀細工人の棟梁のような人であったのでしょう(24)。銀でアルテミス神殿の模型を職人たちに作らせ、それを売って利益を得ていたのでした。職人たちもその恩恵に与っていて彼らの産業は繁栄していたようです(25)。しかしパウロが伝える福音は、大勢の人々に影響を与え、大勢の人が福音を信じました(26)。しかしデメテリオは「迷わせている」と言っているように、福音を非常に「悪影響」と捉えているようですが、どこまでも自分本位な言い方です。しかし利益によって彼らが生活し食べていたであろうし、豊かさもあったのでしょうから、それが突然なくなる時、怒り、恐れ、不安が起こるのも当然です。しかしそのような目に見える繁栄や豊かさや経済は流動し栄枯盛衰するものであるのも事実であり、そこに依存したり価値基準を置くことには不安や恐れと紙一重である事実もここには現れています。そして何よりそのような浮き沈みのあるものに拠り所を置くことから不安や恐れは必ず生まれ、その不安や恐れの持って行きどころは、必ず「人」である。初めの人の罪の結果と同じ「責任転嫁」であるということもわかります。ここではパウロに向けられていくのです。

5.「不安の世、しかしキリストにあって平安」
 キリストの福音は信じるものに揺るぎない平安を与えますが、周りはそのように拠り所が違うがゆえに不安と恐れが生まれその矛先が向けられることは当然あるわけです。まして福音は人からではなく神からのものであるがゆえに、自分勝手な罪深い人間の社会にあって、福音が愚かに見える人々にとっては福音が災いに映るのも当然のことです。このように信仰はキリストにあっては平安であっても世にあっては艱難があるとはこのことです。イエスも言われる通りです。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16章33節
 みなさん。キリストにある信仰の生涯は世が決して与えることのできないものであるがゆえにこそ、世にあっては艱難はなくなることはありません。しかしイエスはそんな私達の現実を知った上で、あなた方は「世にあって」「世から」平安をもちなさいとは勧めていません。イエスは「あなた方はわたしにあって平安を持つためです」とはっきりと言っています。認めたくなくても、この世の繁栄はいずれ過ぎ去り形あるものは必ず朽ちて行きます。そこに拠り所をおいても決して平安はありません。世の一時的な安心は不安や恐れとは紙一重です。しかしイエスは、
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
 と言われました。イエスにあってこそイエスが与える世が与えるのとは違う真の平安はあるのです。事実、世の不安の声は攻撃し続けます。デメテリオの告発を人々も支持し、彼らは大いなる怒りを持って「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と叫びます(27)。そしてついにはエペソの街は大騒ぎになり、パウロではなくパウロの同行者である「マケドニヤ人ガイオとアリスタルコ」を捕えます(29)。パウロは黙っていられずその集団に入っていこうとしますが入らないようにいうのです(30?31)。それは騒ぎ立てるものたちの目的は捕えた二人ではなくパウロ本人だからでした。ところが32節は人間を表しています。

6.「不安な世の現実」
「ところで、集会は混乱状態に陥り、大多数の者は、なぜ集まったのかさえ知らなかったので、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいた。」32節
 デメテリオと彼に仕事をもらっている銀細工職人たちは目的は分かっていたかもしれませんが、この騒ぎに乗じて大騒ぎをして集会に集まってきた人々の中の大多数は、なぜ集まったかさ知らなかったというのです。これは大衆心理の怖さというか人間の弱さと罪深さを表しています。人は、とかくそのような表向きや見た目の良さとか大多数派の価値観の勢いとか流れに流される傾向があります。メディアがこぞって不安を煽り立てるとそれが本当かどうかを確かめることもなく大騒ぎをします。多数派が一つの方向に流れると、その方向がどのような意図があり何を目的としどんな危険があるのかもわからず、そちらへ行こうともします。みんながある人を悪い側に仕立て上げると、皆こぞってその人を叩き始めます。本当にその人が悪いのか、そこにある様々な事情や事実を全く知ろうともせず確かめもせずに、そこに先入観や偏見を勝手に作り上げ、こぞって犯人探ししたり攻撃したりするのを現代にもよく目の当たりにするものです。それも人間の不安の心理かもしれませんし、自分本位で自分の感情や思い込みが基準の人間の罪深さでもあります。この混乱を収めたのは、町の行政官でした。町の書記役とありますが、彼はエペソの街で信仰されてきた偶像であるアルテミスを称えますが、捕えたパウロの同行者である「マケドニヤ人ガイオとアリスタルコ」をも弁護し彼らを「宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもない」と言います。さらに彼は冷静です。38節以下ですが、正式な訴えであるなら、騒乱ではなく裁判に訴えればいいし、今回の騒動は正式な理由もないのだから騒乱罪にさえ当たりそうなるともはや弁護もできないといいこの騒動を解散させたのでした。この書記官については詳しくは書かれていませんが、彼はアルテミスを称えていることからも決してキリスト者であったということではないでしょう。彼はローマからこの街の秩序を治める責任もあったわけですから、大ごとになると自分の責任も問われるためにこのような真っ当な対応をしたことでしょう。しかし彼がどうであれパウロの同行者である「マケドニヤ人ガイオとアリスタルコ」とパウロ自身もこの窮地から救われたのでした。パウロはこう言っています。

7.「十字架の言葉にある「その道」」
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」第一コリント1:23?24
 十字架の言葉、十字架につけられたキリストを信じること、伝えること、キリストにあるキリスト者の歩みは、世にあっては躓きであり愚かに見えるものであることは、聖書が証言している真実です。信仰者の道は、肉の目に見える表面的にバラ色の、なんの問題もない、繁栄と成功の道であるとはイエスもパウロも言いませんでした。ですから人間が願い、祈り、願い通り、思い描いた通りに、人間が達成する成功の先に神がおられ、神の祝福があると考える栄光の神学も、あるいは、信じれば、律法の通り行えば、成功し繁栄するという繁栄の神学も、イエスの教えを歪めた罪深い教え以外の何物でもありません。十字架の言葉、十字架につけられたキリストを信じること、伝えること、キリストにあって生きる歩み、まさに「その道」は、イエスが言われるように十字架の道であり艱難は絶えることがありません。しかしその艱難とそこにある語りかけのみ言葉を通してこそ、イエスは十字架の言葉である福音を私たちにますます分からせ、悟らせ、神の力、神の知恵としてくださいます。それがイエスの御手の中にある揺るがない勝利の「その道」であり、それは平安の道であり、私たちに与えられている「いのちの道」なのです。パウロはこう証しています。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1〜5)
 主イエスにあって、今日も罪赦されいることを喜び感謝して、イエス・キリストにあって安心して出て行き、困難な世であっても、主が共にいて主の確かな導きと平安は尽きることがない希望を拠り所に歩んで行きましょう。