2019年9月29日


「信じた時、聖霊を受けましたか?」
使徒の働き 19章1〜10節

1.「前回まで」
 18章の終わりでは、パウロが、アクラとプリスキラ夫妻に別れを告げた後のエペソでの出来事でした。エジプトのアレキサンドリアから渡ってきたアポロが、イエスのことを語り始めました。アポロは非常に雄弁に、人を惹きつけるように語ることはできたのですが、しかしそれを聞いたアクラとプリスキラは、アポロが、キリストの名によるバプテスマを知らないことを悟ります。イエスのことを「知識として」正確にアポロは語ることができました。しかしキリストの名による洗礼こそ、全ての人に、十字架と復活による、罪の赦しと新しいいのちを与え、聖霊を与えることができるという救いの恵みを、アポロは知らなかったし、知らないということは受けてもいなかったでしょうし、受けていないということは、聖霊も受けていないわけですから、イエスはキリストであると、単なる知識ではなく、霊において告白し教えることができなかったのでした。それはいくら雄弁で優れた知識と能力と熱心さを持っていても致命的で意味がないことでした。しかしそのアポロのためにこそ、アクラとプリスキラはこのエペソへと留まるように導かれたのであり、アクラとプリスキラはそのアポロにキリストの名による洗礼をしっかりと教え、そして授けたのでした。そしてアポロは聖霊なる主の力によってコリントへと渡り、パウロが去った後のコリントにおいて信徒にとっては助けになるとともに、同時にパウロがいた頃、結局最後まで反発し続けたあのユダヤ人達を論破したのでした。パウロ、アクラとプリスキラ、そしてアポロも、それぞれは、救われた「義人にして同時に罪人」である一人一人でした。欠点や弱さ、足りなさ、無力さを覚える一人一人です。しかし彼ら自身が人間の力や能力で誰かを救い宣教を達成するのではなく、主イエスこそがそれぞれが思いも予想もしないそれぞれの時と場所で導き、用い、力を与え、なさせることによって宣教と教会の歩みがあったことを教えられたのでした。

2.「信じた時、聖霊を受けましたか?」
 このところもエペソでの出来事であり、今度はそこに3回目の宣教旅行として戻ってきたパウロが関わりますがバプテスマのヨハネによるバプテスマの問題が続いています。
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、」1節
 アポロがコリントに渡った時、パウロは三度目の宣教旅行として小アジアと呼ばれる現在のトルコの内陸部であるガラテヤ地方を巡り沿岸のエペソまでやってきたのでした。そこで幾人かの弟子たちに出会います。その時パウロはその弟子たちにあることを尋ねるのです。
「「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。」2節
A, 「信仰は聖霊による」
 パウロは彼らに尋ねるのです。「信じた時、聖霊を受けましたか?」と。なぜそのようなことを聞くのでしょうか。なぜなら、もし彼らがクリスチャンであるなら、彼らは聖霊を受けているはずなのです。なぜならキリストへの信仰は人の行いや努力によるものではなく、聖霊こそが「イエスはキリストである」という信仰を創造するからであり、聖霊によらなければ、あるいは聖霊がいなければ、誰もイエスはキリストであるという信仰は生じないし成長もしないからです。
B, 「パウロは「何をしたか」ではなく、「聖霊を受けたか」を問う」
 このパウロの「信じた時、聖霊を受けましたか?」という質問は、はっきりと私たちに証しする聖句です。「信じる」という「信仰」は、律法か福音か、つまり、人の行いのわざかそうではないのか。未信者のみならず、クリスチャンでさえもよく逆に考えるところですが、パウロはこの言葉のように、信仰を問うときに「何をしたか」を問うのではなく、聖霊の有無を問うています。そうなのです。「信仰は、人の行い、私たちの努力や背一杯の行いや服従をするから、その信仰があるという証を立てられる、行いで信仰と救いを証明できる」、そんなものでは決してないということです。聖霊が信仰を創造するのです。パウロはこのことこそをそれぞれの教会に弟子たちに繰り返し述べている大事なことです。コリントの教会へはこう書いています。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」第一コリント12章3節
弟子のテトスにはこう言っています。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3章5〜6節
 そしてエペソの教会にもそのことを書いた有名な言葉があります。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ2章8〜9節
C, 「信仰は行いや律法ではない」
 みなさん、信仰が律法であり、つまり、しなければいけないことであり、行いであるなら、信仰がそのような私たちの何らかの律法の行い、それが奉仕にせよ、献金にせよ、服従にせよ、そのような私たちの行いで、その有無、その真価が計られるのであるなら、救いは、人のわざであるということです。そしてそこに救いの確信も、平安も、喜びも決して生まれません。あったとしても、確信や平安や喜びさえも、義務化し、重荷としてしまうだけです。「平安でなければならない。喜ばなければならない。確信しなければならない」と。それはもはやイエスが与えたいのちの歩み、真の平安ではありえません。そしてもし信仰が神の賜物ではなく「行い」によるのであるなら、それはパウロが言っているように「キリスト」ではなく、行って行く自分にせよ、行ってくれている他人にせよ、人を誇り、人を賛美するようになるでしょう。それはある意味、偶像礼拝と変わりありません。皆さん。信仰は福音とそこに働く聖霊による賜物です。贈り物です。天地創造の聖霊なる神が、私たちに新しい人を創造してくださった、その出来事が信仰です。皆さん。ぜひ信仰を重荷とはしないでください。信仰は律法ではありません。私達の立派な行いで信仰を保証しないし、失敗やだめな行い、罪深い行いで、信仰がないということもできません。大事なのは聖霊です。聖霊が与えられていることが信仰の確信であり、聖霊が福音を通して、信仰を創り与え、育て、そして、前回までの、パウロ、アクラとプリスキラ、そしてアポロに働いていたように聖霊が成長させるのです。

3.「どんなバプテスマを受けましたか?」
 であるからこそですが、前回と同じ問題は、パウロにとっても重要なことでした。
「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。」3?4節
 パウロにとって重要なのは、その出会ったエペソの弟子たちが信仰を証明するために、何をしたのかではありません。
「どんなバプテスマを受けたのですか。」
A,「ヨハネはキリストの罪の赦しを指し示し、キリストは罪の赦しを与える」
 そのことでした。そして弟子たちの受けたバプテスマは、アポロと同様に「ヨハネのバプテスマ」でした。それはなぜ問題であったでしょうか。復習ですが、ヨハネの福音書1章から、バプテスマのヨハネ自身が、自分の授ける洗礼と全く異なりそしてはるかに優れた、聖霊によるバプテスマを授ける方がこられたと言ってイエスを指し示してました。「世の罪を取り除く神の子羊」と。ですからその違いはヨハネ自身も知っていたのです。それはヨハネのバプテスマは、キリストを指し示す「約束」でありますが、罪の赦しを与えることはできません。ただイエスの名によるイエスのバプテスマだけが約束の罪の赦しを与えることができました。つまりヨハネのバプテスマは罪の赦しの「約束」であり、イエスのバプテスマは罪の赦しが約束の通り与えられるのであり、イエス・キリストが全ての約束を成就されたからこそ、もはやヨハネのバプテスマは必要なくなったことを意味していました。ですからパウロも正しく教えています。「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と。ヨハネは、自分の後に来る真の救い主を指し示すために選ばれ、荒野で叫び、イエスを指し示してきました。ヨハネの悔い改めのバプテスマは、そのための洗礼であり、やがて来るイエスによる、罪の赦しといのちを与え、何よりそのための聖霊を与えるイエス・キリストによる洗礼、バプテスマを指し示すものであったのでした。
B,「ヨハネの悔い改めのバプテスマ」
 ヨハネのバプテスマを「悔い改めのバプテスマ」と呼んでいる事も大事な点です。それは「悔い改め」はもちろん大事な事です。律法によって自分がいかに罪深い存在であるかを示され、自分を悔い改めることは大事なことです。現在は、変な「ありのまま」という教えゆえに、罪を犯しても、犯罪に触れない軽微な罪であれば、それは単に人間の弱さでありそのままでいいんだ。悔い改めなんて必要ないんだ。それがありのままでいいということなんだと、いうクリスチャンは少なくありません。しかしそれだと神の聖さも正しさも無意味になり、律法は価値のないものになり、何よりイエスがなぜ十字架にかかって死ななければならなかったのかがまさに無意味になってしまいます。私たちが律法によって罪を刺し通され、私たちがどんな軽微な罪であっても、それが隣人を許せない愛せないというような私たちは不可能だから蓋をするような罪であっても、その罪に蓋をせず直面し、それをできない自分がいて、それは神の前には明らかに罪であることを知ることはとても大事なことです。わたし自身がそうだからこそ言っています。そして都合のいい「ありのまま」で自己義認するのではなく、神の前に罪人である自分が刺し通され、悔い改めることは、クリスチャンのみならず全ての人にとって大事なことです。いや、悔い改めもそのように聖書を通して聖霊が働いている証しでもあり、聖霊を受けているクリスチャンであれば、聖霊は、ますます悔い改めを迫っても来るものです。
C,「悔い改めは必要だが、ゴールではない。その先にキリストの福音がある」
 しかしです。それが聖書のゴール、目的ではないということです。悔い改めがゴールであるなら、ヨハネの悔い改めのバプテスマまででも良かったかもしれません。しかしパウロははっきりと言っています。「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と。ヨハネは悔い改めのバプテスマもその時は必要だから授けていました。しかし、それで終わりではないのです。それで十分ではないのです。パウロが「ヨハネは自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて」授けたとあるのです。そう皆、悔い改めの先に、イエス・キリストの授ける洗礼を受けるように、いのちの福音を受け救われるように、それこそ神がバプテスマのヨハネを遣わした目的であり、イエスを世に与えた目的であり聖書の目的に他ならないのです。
 ですから皆さん。悔い改めは確かにそれこそ自分のある意味、汚い罪深い、真の「ありのまま」を気付かされ刺し通される、痛い、避けたい、耳を閉ざし、蓋をしたいもののように思えるかもしれません。しかしそれは決して蓋をしてはいけない。神の恵みであるということです。それはなぜなら悔い改めの先にこそ、イエス・キリストが指し示されている。自分の罪深さがわかり、それをどうする事もできない無力さを知り打ちのめされるからこそ、私たちは福音を心から受け取り、経験することができます。自分の罪深さとそれに対する無力さを知るからこそ「十字架の死はこの私のためだった。イエスは今日もわたしのためにこの恵みの言葉を一方的に宣言してくださる。「あなたの罪はこの十字架のゆえにもう赦されています。この十字架のゆえに、あなたは神の前に安心して立っていんですよ。神の国はあなたのものです。だから安心して行きなさい」と、そのことに安心できるのではないでしょうか。それは悔い改めがあるからこそ、それは、律法によって罪が示されるからこそ、悔い改めへと導かれる、しかしそれで終わりではない。それで十分ではない。いやむしろその先に、この素晴らしい福音がある。そのためにこそ悔い改めがあった。そのことを教えられるのではないでしょうか。

4.「聖霊を受けるからこそ十字架の道」
 パウロは、5節にある通りこれを聞いたその人々、12人ほどに主イエスの御名によってバプテスマを授けました。そして6節、そのように手をおいて、パウロがイエス・キリストの名においてバプテスマを授けたときに「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」のでした。聖霊による特別な賜物として異言や預言があったわけです。12人の聖霊を受けた弟子がエペソに誕生したのです。しかしそれでも宣教は人の目には困難連続でエペソでも多くの人がこの道を罵りました。しかし、それも決して主イエス・キリストにあって無駄になることはないのは、パウロはよく知っていたのはいうまでもありません。
 悔い改めも、そしてイエスをキリストと信じる信仰も、それは御霊の恵みある働きであり導きであり、私たちはその聖霊にこそ支えられ導かれ、主の道にあることを感謝しましょう。主イエス・キリストとその聖霊にあるなら、確信も平安も揺るぐことがありません。今日も罪の赦しの十字架の福音を受け、安心してここから出て行き、神に仕え、隣人に仕えるために用いられていくよう、祈って行きましょう。