2019年8月11日


「知られない神」
使徒の働き 17章22〜34節

1.「宗教心のあつい人々」
「そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」22節
 パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、アテネの人々にまず、「あなたがたを宗教心にあつい方々だ」と言うのです。少し前16節ではパウロはアテネの街に溢れる沢山の偶像を見て「心に憤りを覚えた」とありました。しかしこの議会で「あなた方は宗教心にあつい、信心深い方々だ」と肯定的な言葉から始めます。それはただ取り繕って言っているのではなくアテネの人々の「事実」であり、パウロはそこで感情的に話し出すのではなく、その事実に従って、次のことを語っていくための導入としてそう言ったのでした。そこでこう続けます。
「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」23節
 最初の「あなた方は宗教心にあつい」という言葉は、このようにパウロがアテネの町で見つけた「『知られない神に。』と刻まれた祭壇」について話すための導入の言葉であったことがわかります。アテネの人々は哲学の伝統とともに宗教心のあつい人々であり、現代は哲学や学問は神の存在なしの議論となっていますが、当時は哲学的探求は神の存在を当然の前提とした議論であり神の存在無しには哲学や学問を語ることはできませんでした。ですから、哲学的探求を好むこのアテネの人々は、多くの神々への信仰を持ちつつ、神や真理を探求する上で、人間である自分たちの現実や限界も良くわかっていました。その現実、限界というのは、自分たちが自らの探求によって決して全てを知ることができるものではないという現実です。つまり沢山の神々がいても、自分たちがまだ、いや決して知り得ないそのような真理の神が必ずいることを彼らは信じていて、そのために祭壇までも建てて、その神がどんな存在かも知らず拝んでいたのでした。パウロはそれほどまでの信心深さに目を留めるのです。

2.「「知られない神」をあなたに教えましょう」
 ここから私たちは一つの事実を見ることができます。当時のギリシャの哲学というのは非常に優れたものであり、それは現代でも役に立ったり、様々な人間の考え方の土台となるものを教えていたりなど今でも参考になるものが沢山あります。彼らは真理や神についても探求し見出そうとしました。しかしパウロが何より目を留め認めているように、彼らギリシャ人が何より優れているのは、人間には探求尽くせない限界を知っていることと、その先に、何か具体的に見て認識できる形ある神ではなく、人間の限界ある知識では決して知り得ない真の神がおられると認めていることでした。このことは人間、つまり、私達は決して自らのその知性や知恵を振り絞ってもその真理にも本当の神にも至らないという事実がまず示されているのです。
 しかしそれと同時に、そこでパウロはそんな人間には知り得ない神を「あなた方に教えましょう。」と続けているのです。つまりそれは人には「知られない神」をパウロは知っているということを意味しています。しかしパウロが「知っている」その知識はどうでしょう?彼はどのように知ったのでしょう?どのように得たでしょう?当然、彼も人間ですから、彼自ら探求し自らわかった真理ではないということでしょう。そうパウロは、その知っていることを「イエス・キリストから」そのことを受けたではありませんか。つまりこの「あなた方に教えましょう」という言葉は、その人間が知識を振り絞って探求してもわからない「知られない神」、本当の真理はどこまでも神がみことばを通して与えてくださる「恵みの啓示」であり、神の言葉なしには私たちは決して救い主を知ることがなかったし、神の恵みによるからこそ私達に今真理の神の知識と信仰がある、つまりその素晴らしい恵みと神が本当に私たちに働いているからこそ私たちも知り信じている、そのことを物語っているのです。でがそのパウロが知っている神の真理ですがパウロはこう続けます。

3.「祀られる神」
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」24節
 その『知られない神』、それは「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」「天地の主」であると伝えます。ギリシャの神々への信仰の中にも、世界を造った神々という教えはあったことでしょう。しかしここでパウロはそのような神を前にしての「罪深い人間に共通する信心のある特徴」を覆すことを示す切り口で、そのパウロが知ってる「知られない神」「天地の主」を伝えるのです。それは、
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」
 と。ギリシャ人が言い伝えられたり、探求したり、思い描いた、世界を創造した神々もいました。しかし人間に共通する信心として、その大きいはずの神は、結局は、人間によって刻まれ、人間の作った箱である祭壇に納められ、仕えられ、祀られる神になります。それは祭壇やその神の座に置かれる物体が、自然にせよ、石にせよ、川にせよ太陽にせよ、どの宗教でも共通に見られることとして、神を目に見える物質、物体におさめようとし、その神は、人から仕えられ、祀られる神になります。そしてそこには共通の信心が成り立ちます。それはまず人間が神のために仕え、祀るからこそ、神は何かをしてくれるという信心です。つまり人の側が精一杯、誠心誠意、仕え、祀らないと、呪いがある、祟りがある、災いが起こるのだと。だからどの宗教でも、神にせよ、神になった先祖にせよ「きちんと祀らないから、蔑ろにするから、神の祟りがあったんだ、先祖が怒っているんだ」となるでしょう。共通するのは、神は人によって祀られなければならない。神は私たちによって仕えられなければならない。そして神はその小さな人間の作った、あるいは目に見える物質、箱、祭壇、何にせよ、そこに住んでいるという考えです。それは無神論者と呼ばれる人々も基本同じで、人は何も信じないでは生きていけないので、信仰の対象が科学にせよ、自分や偉人など、偉人の言葉や思い出にせよ、結局、何らかの対象に信じるべきものを祀っているのと同じです。人間は、どこかに、それが何にせよ、人間の側から都合のいい「刻まれた像」と「祭壇」をおいてそこに信仰の対象を置いて祀るのです。

4.「神は人間の制限によって不自由ではない」
A,「不自由な神ではない」
 しかしパウロはそのこと自体が「知られない神」「天地の主」である本当の神への知識からずれていることを指摘します。本当の神であるなら人間が刻んだり築いたり祀ったりするそんな祭壇や宮や神の家と呼ばれるような、人間より小さいものや所、いかなる物質にも、神は住まないと。確かにそうです。無限で人間の知識には計り知れない真理の神であるなら、人間の定める制限や限界に収められるはずがないのです。むしろそこに収めること自体が、人間の知識に収めようとすることでもありますから、そうなるとその神はもはや「知られない神」ではなく、「知られる神」、それは作られた神、人間から生まれた、人間に仕えられるしかない、つまり実際は、人間に支配されている、被造物の神でしかなくなります。パウロはさらにこう続けます。
「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」25節
 しかし、そのような人間の作ったものや被造物に収められない「知られない神」「天地の主」は、刻まれたり祭壇に収められ祀られたりすることもなければ、「何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。」とはっきりと言いうのです。「不自由」という言葉があります。それは「自由」の反対で、「自由ではない」状態で、何かに拘束、制限されている状態を意味しています。それはパウロは、その前の24節のことを言っているのは明らかで、神が石や木に刻まれて、人の作った祭壇に収められ、人によって祀られたりすることを「不自由」という言葉で表してます。確かに人間は神を刻んだ像や、人が作った祭壇、あるいは特別な石や月星太陽など自然の物質に神を閉じ込めて、それを祭り、期待した通りになるようにご利益を求めますが、しかしそれは実は人の側の期待や望む利益が主になっているのですから、実際は、人間中心の信仰で、人間の思い描く対象に閉じ込めてしまっている不自由な神でしかありません。人間の思いや理想や願望によって束縛された不自由さです。しかしパウロは自分が信じ知っている「本当の天地の神」は「何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません」と明言するのです。本当の神は人間の何かに制限されない自由な存在であるはずであり、誰から仕えられなければ何かができなかったり、御心や計画を行えなかったりするそんな神ではない、人の手によって仕えれる必要は一切ないでしょう、とパウロは教えます。「仕えられるは必要ありません」と。むしろ神はどうであるでしょう?
B,「神が与え、神が保持される」
「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」26節
 ただ全てのものの創造だけではない、むしろすべて国々の人々、その人々を地の前面に住まわせた、それだけでなくいつの時代も変わりなく神の決定があり、そしてその住まいの地境さえ神が定め与えているとまでいうのです。それは神の圧倒的な支配以上に、神の全人類への配慮と介入、そして与え保っていることまでもパウロは意味しています。まさに「人が神のために何か」する前に「神が人のために全てを」が全く先であり、ゆえに「神が人の知識をはるかに超えてどこまでも先に働いてくださっているからこそ」パウロは、神は本来は祀られる必要も、仕えられる必要もないと語っているのです。そのこと自体は27節以下でパウロは、被造物や自然や世の秩序からでもその神の創造や保持は明らかであり、そこからでも本来は神を見出すことはできるのであり、決して神は遠くはなく(28節)、私たちは神の中に生きているとさえ言います。しかし29、30節にあるように私たちは「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考え」るからこそ人の罪の世は「無知の時代」なのだとパウロは示しています。しかし、

5.「神はどこへ:パウロが指し示す「知っている」神」
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」30節。
 そんな無知の時代にこそ、神は「どこででもすべての人に悔い改めを」と招いている。さらにこう続けています。
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」31節
 人々は別のところに神を見出し、神を作り上げ、神を祀ってきました。しかしパウロが知っている、仕えられれることの必要ない、不自由のない、まことの神とその真理、その救いは、「神がお立てになった一人の人のその義によって明らかになったのだ」とパウロは言います。しかしその義は確かに世界を裁く義であるけれども、しかしその裁きと義は
「その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになった」
 とパウロは言うのです。このようにパウロは、「知られない神」つまり「本当の神」、その義、裁き、真理、救いとしてただただ、イエス・キリストと、その十字架の死と復活を指し示しているのがわかるのではないでしょうか。神が私たちに明らかにしたことは、天使の怒りの劔や地獄の炎による裁きではなく、死と復活。つまり御子キリストの十字架と復活によって、私たちに自ら知ることのない神の義とそこにある救いが明らかにされ、それによって私たちはその知られない神を知った。神の隠されたその姿、隠された真理、まことの神は、その十字架と復活にこそ私たちにはっきりと明かにされている。その十字架にこそ本当の神は、もはや知られないのではない、隠されているのではなく、私たちは知ることができるのだ。パウロが伝えるのはそのことなのです。
 もちろん、それはどこまでも人間の知識では何のことか理解できません。ですから「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。」(32節)と続きます。しかしここにもパウロが「十字架のことばは救いに至る私たちの神の力」の信仰がはっきりと証しされているでしょう。私たちは自分たちの力や知恵でどこを一生懸命、探し見つけようとしても神を見出すことはできません。しかし神が私たちのために世にこられ、自らご自身を明らかにされたからこそ私たち人類はそこに神がいることを知ることができます。それはどこでしょう?パウロが示す通り、十字架と復活ではありませんか。今日のところは教えています。私たちは一生懸命頑張る先に神を見たり、神の確証や祝福をみようとしても、決して安心した確証は待っていません。しかしここにこそ、つまり十字架と復活にこそ、神はおられる、パプテスマのヨハネも、使徒たちも、このパウロも、その十字架と復活のイエスこそを指し示しています。「ここを見よ。この方を見よ」と。そのことこそが今日の何よりのメッセージです。そうであるなら、私たちが見上げる十字架におられるのは「仕えられる神」ではありません。私たちのためにどこまでも仕えてくださる救い主、十字架のイエスなのです。事実、イエスは言われます。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)。
 幸いではありませんか。今日も私たちが主イエスに仕えたのではなく、イエスが私たち一人一人に、贖いの代価として自分のいのちを与えた十字架のことばを持って仕えてくださるのです。