2019年7月28日


「非常に熱心にみことばに聞き」
使徒の働き 17章10〜15節

1.「はじめに」
 パウロとシラス一行は、テサロニケでまず安息日にユダヤ人の会堂に行き、聖書を開き聖書の言葉からイエス・キリストを解き明かすことから宣教を始めました。それは宣教の力は人ではなく、どこまでもキリストの言葉である福音であるというパウロの確信から出たことでした。しかし多くのユダヤ人が妬みにかられパウロを迫害し始めました。パウロとシラスはテサロニケを去るのです。三週間ほどの宣教で、それは人の思いでは、それは期待通り思い通りにならない無駄なことのようにさえ思える期間であったかもしれませんが、パウロにとってそれは決して無駄なことではなく全ては主イエスの導きであり益とされると確信していたのでした。そのようにテサロニケから送り出されたパウロとシラスは、テサロニケから南西へ80キロほどのところにあるベレヤという街に入ります。

2.「良い人たち、非常に熱心に」
「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。」1節
 テサロニケと同じように、パウロとシラスはまずこのように会堂にはいり聖書からイエス・キリスト解き明かすことは全く変わりません。宣教の力は福音でありキリストであり「礼拝において」なのです。そのベレヤの会堂のユダヤ人ですが、
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」2節
 テサロニケで救われた人々の多くは、神を敬うギリシャ人や貴婦人など、ユダヤ人から見ての異邦人でした。そして多くのユダヤ人は、パウロの伝えるイエス・キリストの福音を受け入れず、妬みにかられて暴動を起こしました。しかしこのベレヤのユダヤ人達は、テサロニケのユダヤ人とは対照的でした。ここには「テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで」とあります。「良い人」とありますが「良い」というのは抽象的な言葉です。何故に「良い」のでしょうか。それは「非常に熱心に」とも続いています。「熱心」というのも抽象的です。では何について「非常に熱心」であったから、彼らはテサロニケのユダヤ人達よりも「良かった」とルカは言いたいのでしょうか?ルカは記録しています。
A,「みことばに聞き」
「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」
 と。ベレヤのユダヤ人達は「聖書の御言葉に聞くこと」に非常に熱心であったのでした。実はここに聖書が私たちに伝える真の「良さ」「敬虔さ」とはどこにあるのか、どのようなものなのか、がよくわかると思います。真の「良さ」「敬虔さ」、私達はそれは何か立派な行い、振る舞い、奉仕や目に見える私達の行動の良さや、それこそ行いの「熱心さ」にあるかのように思うものです。しかしルカはそうではない。真の良さ、敬虔さは「御言葉に聞く」ことだと示しているのです。そしてこの「御言葉に聞く」ということ、それは語る人がいて、それはもちろん説教者ではあり、つまりパウロやシラスであり、私でもあるわけですが、しかし「この御言葉に聞く」ということについてパウロがテサロニケの教会のクリスチャンたちを称賛した大事な理由がありました。
B,「人の言葉ではなく神の言葉として」
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」第一テサロニケ2章13節
 テサロニケのクリスチャンたちは、パウロとシラスが神の使信の言葉、つまり福音を語った時、それは、人の言葉としてではなく、事実通り、神の言葉として受け入れたからこそ、その神の言葉は、あなた方のうちに働いており、そのことを神に感謝していますとパウロはいっています。つまり「御言葉に聞く」というのは、それは人ではなく神が人を通してしてくださっていること、働いてくださっていることをそのまま受け取ることだという全くの恵みの出来事であることを意味しています。つまり「御言葉に聞く」とは、何かを人から熱心にすることこととは違う体験です。受け取る体験です。ルカはその「御言葉に聞く」ことこそが、「真に良いこと」であり、そして「真の敬虔」であることを伝えているのです。ルカは実は、それこそイエス様が伝えた救いと福音の本質であることを、ルカの福音書でも記しています。
C,「イエスが語ったどうしても必要な一つのこと」
 ルカの福音書10章38節以下ですが、マルタとマリヤの姉妹の話です。姉妹の住む村にイエスがやってきたことを聞き、姉のマルタは喜んでイエスを家に迎い入れます。マルタは精一杯イエスのためにしてあげよう、もてなそうと躍起になるのですが、妹のマリヤが一切手伝わないことに腹を立てます。そしてマルタはイエスにまで言います。マリヤに自分を手伝わせるように言ってくれと。それはイエスを責めるような言い方をしてさえいます。
「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」ルカ10章40節
 マルタは「自分だけにさせているのを見て、イエスは何とも思わないのか?」と言っています。マルタを責めているようでありながら、同時にイエスをも責めているのが気づくのではないでしょうか。最初は「イエスのために」と始まった「もてなし」でしたが、「自分だけにさせて」「他の人にもさせろ」「あなたは何とも思わないのか」と誰かを責め始めるのは、もはや「イエスのため」ではなくなっており、それは自分が中心になった「言い草」に他なりませんが、しかしその動機はどこから出ているかというと人から出ているものです。「自分が」あるいは「誰かが」と「しなければいけない」という律法の動機に他なりません。しかしそのような人から出る、律法的な動機は、結局は人の期待や思い通りにならないときに誰かを責め始め、それは神さえも責め始めるのだということがマルタにはよく現れています。しかしそのマルタに対してイエスは、そのマルタの「熱心な律法的なもてなし」とマリヤや自分への「責め」を聞き、「その通りだ、あなたは立派だ、敬虔な人だ。だからこの怠け者の、熱心ではない、マリヤを注意しよう、責めよう」とは言いません。イエスはマルタに答えます。
「主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」ルカ10:41?42
 イエスは言います。「誰かが、私が、ああしなければいけない、こうしなければいけない。こうであったらいいのに」と心配しなくてもいい。気を使う必要はない。「どうしても必要なことはわずか」と言いながら、「いや」と打ち消しています。つまりどうしても必要なことは「わずか」でもない、と複数あることさえ否定し、「いや一つだけです」と断言します。そしてマリヤはその良いほうを選んだのですと。ここにも「良い」とあります。その「良いほう」「良いこと」、たった一つだけのどうしても必要な真の「良いこと」真の「敬虔さ」ーそれは何でしょう。マリヤは何をしていたでしょうか?39節
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
 「御言葉に聞き入っていた」と。そう。その「良いほう」「良いこと」、たった一つだけのどうしても必要なこと、真の「良いこと」真の「敬虔さ」ーそれは、「御言葉に聞く」、イエスが語る、その御言葉に「聞く」、イエスは、それだけだと断言しているのです。この出来事は他の福音書には記録されていませんが。ルカはその出来事を自分の福音書に記録したのでした。そしてそのイエスの大事なメッセージは、このところにも一貫しているのがわかるでしょう。真の良いこと、真の敬虔さそれは、「御言葉に聞くことだ」と。ベレヤのユダヤ人たちがなぜ「良い人々」で、それは「何に熱心」であったからか、それは「御言葉に聞く」ことに熱心だったからなのです。そんな「熱心」、消極的だ。力がない。弱々しい。やる気がない。そう見るでしょうか?
D,「熱心の動機はどこから?〜みことばに聞くは消極的なのか?」
 熱心であることは良いことです。そして良い行いも隣人愛もとても大事なことです。しかし同じ行い、同じ熱心でもどこから出ているものか、その動機によって神の前には180度違います。何より言える現実は、罪深い人から出るもので「純粋に」神のため、人のためと呼べるものはないということです。どんなに表向きは良い熱心な行いであっても、人は多かれ少なかれいつでも自分の利益のためであることから決して自由ではないことは、何より私自身の心を吟味すればわかります。人とはどこまでも自分中心な存在であり、自分の利益が人の利益より優先するものです。それはそれで、たとえ不純な動機の善行や隣人愛でもこの世の中では必要で、世の中ではそれゆえに助かる人や人の助けになることもあります。しかしそれは神の前では別問題です。まして「神の前の敬虔さ」では、それは全く価値も意味もありません。その様な動機から出たものの結果はマルタに現れています。どんな良い行いや隣人愛であり、それがどんなに熱心であっても、そこに僅かでも自分から出た自分のための動機があるなら、自分の願う通り期待する通りにならない時、そこには必ず責任転嫁や犯人探しや、裁きや責めが生じることになるのです。それはもはや隣人愛ではなくなっています。それは他人とは限りません。責めが自分に向く場合もあるでしょう。ですからまず自分、誰かが「しなければいけない」と人から生まれ始まる熱心は、結局は行き詰まってマルタのようになるか、自己満足になるか、自己卑下になるか、です。
E,「みことばに聞くからこそ始まる神の働き」
 しかしではなぜその逆とも言える「御言葉に聞く」こと。つまり神が語りかけ、神与えてくださるものをまずそのまま受けることをイエスは何より
大切だといい、ルカはそのことを一貫して伝えるのでしょうか。それはこの17章でパウロが一貫している行動にも表れています。パウロはまず安息日に会堂でみことばを開いてイエスを解き明かした。テサロニケでも、ベレヤでも。それ以前のアジアでもそうでした。それは宣教の力、つまり人を救い、人を新しく生かし、人に新しいアイデンティティ、本当の平安と自由を与え、そして良い行いや隣人愛の新しい動機を与え、強いられてではない、喜んで平安のうちに新しく歩ませる力は御言葉にあるからであり、イエス・キリストの福音だからでした。人の力も、知性も理性も、どこまでも限界があります。限界があるばかりではありません。どこまでも罪深いです。自分勝手で、表と裏があり、揺らぎ、何度も間違いを繰り返します。それは人間の歴史を見ても、日々の自分を見ても、人間の理性の限界、罪深さは明らかです。しかし聖書が私達にどこまでも伝えることは「救いは人から、人が達成する、人が人によって神のために立てるユートピア」ではなく、「救いは神から来る」、それは「イエス・キリストとその行い、その言葉によって成し遂げられ与えられるということです。御言葉こそ力であり、御言葉こそ、神からの愛と救いと平安を伝えるものであり、そして御言葉からこそ、本当に何者にも強いられない、自由で平安な真の心からの愛の行いが溢れ出る、それは人間には計り知れない思いもよらない信じがたい、しかし本当に神が働く力であるということです。だからこそパウロのテサロニケの兄姉への感謝も繋がってくるでしょう。
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」第一テサロニケ2章13節
御言葉こそ力でありいのちであり、本当の良さ、敬虔さ、真の良い行いや隣人愛のための真の動機を与えるものだからこそ、熱心に御言葉に聞くことこそ何より本当に必要な唯一つの大事なことであるのです。

3.「聖書から聞き、応答する」
 ベレヤのユダヤ人達は、熱心に御言葉に聞き、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」ともあります。それは一見すると疑いを持って調べたかのように見て取れますがそうではありません。当時の聖書は旧約聖書のことです。パウロとシラスも旧約聖書から、イエスは約束された本当の救い主であると伝えました。つまり「調べた」というのは、旧約聖書が本当にイエスがキリストであることを約束しているのか、聖書から「聞いた」ということを意味しています。反発したテサロニケのユダヤ人たちも聖書はよく知っていると自負していたでしょうし、安息日には会堂で礼拝するようないわゆる敬虔な人々ではあったでしょう。行いは立派だったのです。しかし彼らはパウロの語ったイエス・キリストの福音について、聖書から調べ聖書の言葉から応答するのではなく、妬みから人々を集めて扇動したとある通り、どこまでも方策は人間の感情から出たものであり、感情を満たすための知恵であり方策でした。このベレヤのユダヤ人達に私達も習うことができます。私逹が何に応答するにしてもキリスト者である以上、感情や願望や好き嫌いではなくどこまでも聖書が私達に何を語り教えているか、どんなキリストを伝えているかによって応答することこそ必要であるということです。そのように行動し応答するためにも、私達はどこまでも御言葉に聞き、確かめ、そして御言葉から応答するのです。
 12節にある通り、ベレヤの多くのユダヤ人が信仰にはいり外国人も救われました。しかし再び、そこにテサロニケの妬みにかられ暴動を起こしたユダヤ人逹が80キロも離れたベレヤにまできて群衆を扇動し暴動を起こします。そしてパウロは再びその地を去らなければいけなくなりました。地上では人間の計画が優って勝っているように思える理不尽で望まないことは起こり続けるものです。しかしそのような人間のはかりごとは不完全でいずれ廃れますが、いつまでも残り真の力があるのは御言葉です。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」第一ペテロ1章23〜25節