2019年7月7日
1.「兄弟達は送り出した」
パウロとシラスによるテサロニケでの宣教。そこでパウロとシラスは、まず安息日に会堂に行き、旧約聖書を開き、そのみことばを解き明かし説教することから始めました。なぜなら彼らは「宣教の力」は、どこまでもキリスト、その十字架の言葉、福音であると信じていたからでした。その福音により心開かれ信仰が与えられる人々がユダヤ人だけでなくギリシャ人や外国人にも起こされたのですが、しかしそれ以上に福音を拒むユダヤ人の妬みによる反発が大きく、ユダヤ人達は町のならず者を集めて暴動を起こしてパウロを探し捕らえようとしたのでした。
「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。」10節
テサロニケの兄弟達は、パウロとシラスに危険が及ぶかもしれないことを十分に察したことでしょう。「夜のうちに」とあるように、非常に早急に人の目に触れないように、すぐにテサロニケから送り出すことを決めたのでした。
2.「無駄なこと?」
みなさん、このテサロニケでの宣教は、わずか3週間の出来事でした。確かに信仰が与えられ救われる人々が起こされました。しかしそれ以上の人々、町中が暴動になるほどの迫害が起こり、志半ばで、しかもやむを得ない状況でテサロニケを去らなければなりません。教会の兄弟達もまだ洗礼を受けたばかりの者が多く、彼らはこれからさらにパウロやシラスの語る福音の言葉に触れ教えられて行くはずだったでしょう。この別れは人の目には決して期待した通りに行って満足してのテサロニケの兄弟達の別れとは決して映りません。「こうであるはずだった」「こうなるはずだったのに」「これこれを期待していたのに」という不十分さや挫折感を覚えるような期待通りではない状況での別れではあるでしょう。しかしパウロにとっては全てキリストにあって無駄ではなく益であることを見ているのです。それが彼がテサロニケの兄弟達に宛てて、この時の思いと証しを書き送っている手紙からわかるのです。
「兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。」第一テサロニケ2章1節
パウロは何も無駄なことはなかったというのです。なぜでしょう。こう続いています。
「ご承知のように、私達はまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私達の神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。」2〜3節
私達が16章で見てきた通りのことが、憶測や推測ではなく真実であることがパウロのこの証しから見えてきます。ピリピの壮絶な苦難の中にあっても、その痛みを抱えたままテサロニケにやってきても、彼らの確信と拠り所はどこにあるのかはっきりとしています。それは「神の福音」です。そしてその神の福音に支えられた心、信仰には迷いがない。揺るがない。そして「不純な心」もないとあります。つまり彼の宣教は、「福音から生まれた救いの喜びをただ証しすること」以外の、組織的数的な計算や打算もなければ、自己満足や自尊心を満たしたり、自分を示すためでもないということです。福音と聖霊から生まれた確信と聖なる動機で彼は福音を伝えてきたことを真っ先に伝えています。なぜそれが無駄ではないのでしょうか?たった三週間で色々やり残した計画や期待通りにならなかったことが沢山ある中で去ったのになぜ無駄ではないのでしょうか。人の目、人の期待や推測や計画の視点や動機から見るなら、つまり、私たちが「こうでなければならない」「こうならなければならなかったのに」などなどの律法の動機から見るなら、極めて不十分で不満足であり無駄にさえ思えるのですが、しかしパウロの確信の根拠は「すべてはキリストの福音から」であり「キリストにあって」ではありませんか?その彼の立っている拠り所がどこまでも、時がよくても悪くても、福音でありキリストであるからこそ、キリストにあっては無駄ではないということです。これまで16章で見てきたように、この手紙のこの言葉には「キリストが全てのことに働かれ益とされる」のだから無駄ではないと、彼が信じている証しが現れています。ですから4節以下でもパウロは人を喜ばせたり、人にへつらったり、偽りを持って自分の計画を行ってきたり、自分の名誉のためにやってきたではなく、どこまでも主キリストにあってであり、人ではなく「神がそのことの証人です」とある通り主イエスが全てを証ししてくださるのだと、神が証しするからこそ真の強い確信を持って記してもいます。しかもそれはもちろんキリストにあっての「愛の動機」のゆえであるとも。そしてそれはただ気休めや強がりで言っているのではなく、現実として無駄ではないこととしてこうあるのです。
3.「人間の言葉としてではなく、事実、神の言葉として受け入れた」
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」第一テサロニケ2章13節
A,「「用いられる」は建前ではなく現実」
こういうわけで無駄ではないし感謝すると言います。なぜならまず第一に、パウロとシラスが安息日に会堂で伝えた福音の言葉を、テサロニケの人々は「人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたから」だとあります。確かに「目に見える」説教者、宣教者はパウロでありシラスであったしょう。説教は確かに人が用いられます。目に見え、耳で聞こえる経験においてもその人の口からでる言葉ではあります。しかしその説教はパウロの言葉でしょうか?シラスの言葉でしょうか?みなさんはどうですか?私の言葉ですか?私の言葉として聞いていますか?何度も言いますが、人は「用いられ」、その口や脳や魂や霊などは確かに「用いられ」ます。しかしその「用いられる」という言い方は、本当に「用いる方」がおられるのであるからそういう言い方をしているわけで、決して建前ではありません。事実、用いる方がいるからこそです。そしてその場合、「用いられる側」が主ではなく「用いる側」が主であり重要でしょう。もし「本当に「用いる方」がいる」と信じるならです。しかし逆にそれはあくまでも建前だとするなら、やはり目に見えるその人が重要となり、「建前なのだから」と用いられる側が重要になり、それはその目に見えるパウロとシラスが重要になり、「人の言葉」になり、その人の能力やわざが主になってしまいます。しかしそれによって何が起こるかは、まさにパウロがコリントの教会に宛てた手紙にあるとおり、ある人々は「自分はパウロに着く」、別のある人々は「自分はペテロに着く」「自分はあの雄弁なアポロニ着く」、と人間の側の価値観や好みによる党派が生まれ分裂が生まれることになります。結局それでは、先週も触れたように、人のわざや人に依存する教会は必ず霊的に衰退します。なぜなら不完全で朽ちゆく人への依存や、人を拠り所にする信仰や運営は、土台がキリストという岩ではなく砂の上の家のように揺らぐのですから。クリスチャンは、キリストによって、そしてその福音によって救われたのですから、キリストとその福音を土台にし拠り所とし霊の糧とするのでないなら、必ず飢え渇き、実を結ばず、平安がなく揺らぎ、草のごとく枯れ朽ちゆくのです。
B,「「用いられる人」が主ではなく「用いるキリスト」が主」
ですから「用いられる人」が誰かが、本来の捉われるべき最も重要なことではありません。パウロもシラスも確かに召されました。しかしそれは主イエスの働きのための道具として持ちられたにすぎません。私も同じです。道具が用いる人より重要なのではありません。用いるイエスこそ主であり重要であり、だからこそ私たちが聞くみことばは、人の言葉ではなく神の言葉なのです。何度も言いますがそれは私自身が自分のために「私の言葉が、神の言葉だ」と威張るために言っているのでも自分を誇っているのでもありません。あくまでも私はパウロ、シラスと同様、道具です。しかも不完全な道具です。しかしその不完全な道具こそを用いて、主は私たちに福音を伝えてくれるという神の私たちの思いをはるかに超えたことをしてくださるからこそ、そのことを信じるからこそ、神と神のわざだけが褒め称えられていくでしょう。不完全な道具が自分を誇るほど愚かなことはないからです。神は不完全な道具を用いて人にはできない大きなことをされる。これが宣教でもあり礼拝であり説教であり、つまり今はまさにイエスが私たちに働いている時であり、イエスの語りかけを聞いている時だということなのです。
C,「全ての人の幸い?錆びた斧とその結果さえも」
そしてそれは実に皆さん一人一人の幸いでもあるのです。なぜなら皆さん一人一人も洗礼に与ったクリスチャンであるなら、神のものであり一人一人が用いられるために召されているでしょう。つまりそれも「用いる方」がおられ、私たちの歩みも用いられる私たちの能力や立派さが重要なのではなく、用いる方こそ重要だということなのです。みなさんはどうですか?何か自分は立派だから召され用いられている、用いられると思いますか。そうではありません。私たちはどこまでも用いられるに値しない不完全で不十分で、いや、どこまでも罪深い存在です。私たちは義と認められ救われました。しかしそれは尚も罪深い私たちを、尚も罪深いのにただキリストの十字架のゆえに正しいと「認めて」くださったにすぎません。ですから私たちの実際はなおも罪人です。もし私たちが神の前に何か価値ある能力があり、立派でその目に適っているから救われ召され用いられるというのであるなら、誰も救われないし召されないし用いられることはありません。しかし事実は逆でイエスはそんな私たちこそ、全てをご存知の上で召し救い出し喜んでくださり、そして用いてくださるのです。イエスの働きを行うための道具としてです。もちろんその道具は不完全な傷ばかりの道具かもしれません。けれどもルターは「錆びた斧」の譬えをこう記しています。
「もし人が錆びついたギザギザな斧で持って切るとき、たとえその働き手が有能な職人であっても、その斧で切断された面は粗悪で、でこぼこで、不格好である。これと同じように神は私たちを通して働きたもう。」
ここにルターは、聖書が伝える義認と私たち一人一人への救いと召命とはこのようなものなのだと伝えています。何度もいうように私たちは「義となった」のではなく、なおも罪深いものがキリストの義のゆえにただ義と認められただけです。つまり私たち自身は立派で錆びも傷もない光り輝く未使用の斧になったのではなく、どこまでも「錆びついた斧」のままなのです。しかしその錆び付いた斧を用いてこそ神は働かれるのであり、しかもその錆びた斧で切った断面、つまり用いられた結果も凸凹で荒いように、その行いにはなも罪はあるし完全ではないということです。しかしその人の目には愚かで不完全と思えるところ、罪が溢れていると思われるところにこそ、神のわざと恵みは完全に現されているという「逆説」の素晴らしい真理と恵みがあるのです。それは理性や感情では決して理解できないことですが、福音と聖霊によって与えられ教えられ強められる賜物である信仰によってのみ明らかにされることなのです。思い出してください。ヤコブの子供達は、ヨセフ、いや父であるヤコブさえ含めて全員、不完全で罪深い罪人でした。しかし彼ら一人一人は錆だらけの斧であり、その断面はギザギザで、荒くひどいものであっても、しかしヨセフの兄たちへの言葉でこうあるではありませんか。
「あなた方は私に悪を図ったが、神は良いことのはかりごととしてくださった(創世記50:20)
と。さらにパウロはこう言っています。
「しかし主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12章9節
みなさん、大事なのは用いられる人ではありません。用いるお方こそ主。用いられる主こそがその傷だらけの道具を尊い、大事だと言ってくださり、本当にその方はおられ働かれる。ですから「用いて下さる方」とか「用いてください」は決して建前でもなければ、用いられる側が自分の謙遜を示すための都合のいい言葉ではありません。私たちは知らなければなりません。本当に神が私たちを用いて下さるのです。それが錆だらけの斧であってもです。むしろ私たちはその恵みに感謝しましょう。
4.「終わりに」
用いる主こそが重要だからこそ、礼拝のみ言葉は、人の言葉ではない、人を用いて何より神が私たちに語られる紛れもない神の言葉なのです。テサロニケの兄弟姉妹たちは、三週間にわたる説教で、それを人間の言葉としてではなく神の言葉として受け入れました。そしてパウロはそれが人の言葉ではなく紛れもない神の言葉であるからこそ、信じているあなた方のうちに働いている。だからこそ何一つ無駄ではないと断言できるのです。これに勝る益は私たちにはありえません。なぜなら人の言葉は、神の前には何の力もないからです。神の前、神のご計画のためには人の言葉は働くことはありません。つまり人の言葉は、イエスが与えると言われた救いも平安も決して与えないし喜びも与えないのです。救いの信仰を与え強め、平安と喜びと自由を与え、さらにはそこからの自由な行いを生むのも、それは人の言葉ではあり得ません。福音であり、その福音はキリストの福音であり、キリストの言葉です。その神の言葉こそ、私たちの救いのため、平安のため、自由のため、つまりクリスチャン生活の全てのこと、それが時が良くても悪くても働くことができる力であり、それが働いていることこそ私たちにとって本当の益ではないでしょうか。その「神の言葉、福音」を今日も受けていること、つまり人ではなく神が私たちに今日も語りかけてくださり、聖餐を与えて下さることを感謝しましょう。そして今日もキリストの十字架のゆえに罪赦され新しくされ、安心していくことができること、平安のうちに遣わされ、神が私たちをときが良くても悪くても用いて下さることを感謝してここから出て行きましょう。