2019年6月30日


「いつものように会堂で聖書を」
使徒の働き 17章1〜9節

1.「安息日に会堂で聖書を」
 ピリピを去った2人は西に向かいギリシャ第二の都市テサロニケに入ります。
「彼らはアムピポリストアポロニアを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。」1節
 テサロニケは貿易の盛んな港湾都市ですので外国人も沢山おり、ユダヤ人も多数、居住していたためユダヤ人の会堂があったのでした。そこでこうあります
「パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日に渡り、聖書に基づいて彼らと論じた。」2節
 「いつもしているように」とありますように、パウロのこれまでの各地での宣教は、まず「会堂に入って」でありました。そしてそれが「三つの安息日に渡って」とありますように、「安息日に」、つまり「礼拝のために」「会堂に入って」だったのでした。「礼拝のために会堂に入って」ですから、そこで何をするのかと言うと「聖書に基づいて彼らを論じた」のでした。 「論じた」とありますが議論したわけではなく「解き明かした」のです。22節以下のアテネの他の神々を崇拝し、哲学的な伝統のある人々に対しては少々スタンスが違ってくるという例外はありますが、原則、特に、ユダヤ人や神を恐れる異邦人に対しては尚更ですが、パウロは安息日に、礼拝、そして会堂で、聖書を開いて説教をし、教え、解き明かすという基本的なことに宣教を見ていたし、宣教のための重要な意味を持っていたことがわかるのです。なぜならピリピの看守の家族の場面でも学んできましたが、確かに人は用いられますが、しかし人に救いの信仰を与え新しい誕生をもたらすことができる力があるのは人ではありません。その力はどこまでも神の言葉であり、福音だからに他なりません。しかも「安息日に会堂で」ということにも意味があります。もちろんイエスの力、福音の力は場所や時に制限されるようなちっぽけなものではありません。しかし安息日に会堂で語られる礼拝の聖書の解き明かしに、パウロは、イエスが御言葉、律法と福音を通して働かれる大事な時として見ていたことがわかります。しかも注目すべきは新しい宣教の地に入って最初にすることが、この安息日に会堂に入ってみことばの解き明かしだったということです。つまりパウロは礼拝と礼拝のみ言葉や聖餐こそ、宣教であり、そして宣教は、礼拝から始まると信じていたことを教えられるのです。会堂のなかったピリピでさえも、会堂が無い場合の礼拝と祈りの場であった川岸に行き、やはり福音を語ったでしょう。宣教は礼拝から始まるのです。

2.「安息日に働かれる主」
A,「安息日にも働かれる主」
 事実、イエスはヨハネ福音書5章で、安息日にも主は働いていると言っています。
「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」5章15?17節
 その通りイエスは安息日にこそ会堂に行き福音の言葉を語り、安息日にこそイエス様は働かれ癒しをされていました。それこそがパリサイ人やユダヤ人にとっては「律法にしたがっていない」と気にくわなかったのですが、しかしイエスはそんな彼らに言いました。
「また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」マルコ2章27〜28節
 別の所でもこうもあります。
「人の子が来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10章45節
 このように安息日、そして礼拝の時は、父なる神がそうであるように、主なるイエスが働かれている時だということです。その時はもちろん人の力によってではありません。主なるイエスのみことばにこそ信仰を与え信仰を強める力があるのですから、イエスがその御言葉を持って私達に仕えて下さる時なのです。そして「イエスが」御言葉を持って働かれ仕えてくださるからこそ、その時、その場所が宣教の時になるのです。もしそうではなく「人のわざ」による何らかの力に信仰や宣教や礼拝の根拠や意味があるとするのであるなら、実はその価値も意味もやがて薄れて行くことでしょう。なぜなら不完全な拠り所は揺るぎやすいからです。人に力があるように実感できている時は、価値は高まるけれども、人に力がないように思われるときには、価値は下がり、結局、揺るぎやすい土台に立つものは揺るぐのであり、それはイエスが譬えられた「砂の上の家」と同じだからです。ですから人のわざと力による、宣教にせよ、信仰生活にせよ、礼拝にせよ、教会にせよ、それはいずれ必ず崩れます。「堅固な岩の上」ではないからです。人に拠り所や原因を求めるなら、キリストが与えると言われた救いも平安も自由も私達からみれば必ず矛盾するように見えてくるのです。しかしイエスは矛盾しない真理を私達に教えています。
B,「神からの賜物である信仰の上に神が建てる」
「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」マタイ16章17〜18節
 イエスがイエス様の教会を立てると言っています。大事な言葉は「この岩の上に」という言葉です。それはペテロの信仰告白を指していますが、しかしその信仰告白については「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とあることがわかるでしょう。つまり信仰告白という岩は「ペテロによる」ものではないとあります。「人間ではなく」とあります。「天にいますわたしの父」だと。そのように「信仰」というのはどこまでも「神による」ものであり、その神が福音の言葉と聖霊によって与えてくださる信仰の告白こそ揺るがない岩であり、その岩の上に、イエスは全てのものを建てると言っていることがわかります。そしてもっとも大事な点、その信仰は誰に対する何の信仰ですか。イエス・キリストではありませんか?その贖いの代価、十字架と復活への信仰です。ですから信仰は神からのもの。そしてその土台、岩が堅固である理由、それは「キリストという揺るがない土台と救い」があるからだとわかるのではないでしょうか。
C,「揺るがない拠り所」
 みなさんそれが一切、矛盾しない、揺るがない、私たちの立つ拠り所です。だからこそパウロにとっては宣教の土台も力も拠り所も、聖書であり、福音であり、イエス・キリストとその十字架なのです。こう言っています。
「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」第一コリント2章1〜2節
 パウロはですから一貫しているのです。宣教の力は、みことば、しかもイエスが仕えてくださる安息日の礼拝、そこでこそ神は仕えてくださり、罪を赦し、癒し、力を与え、生かし、新しくしてくださる。その信仰の表れなのです。
 素晴らしいことではありませんか。礼拝というのはイエスがこの福音の言葉と聖餐を持って私たちに仕えてくださる時なのです。「私たちがまず仕える」ではありません。イエスが今日も仕えて下さっているのです。罪の赦しを与え、イエスが与える世が与えるのとは違う十字架の罪の赦しと復活の日々新しい誕生によるイエスの平安を与えるためにです。そのことを感謝しようではありませんか。パウロはこう伝えていることからもわかります。
「そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを証明し、また論証して、「私があなた方に伝えているイエスこそ、キリストなのです」と言った。」3節
 今日のこの日この時も、この十字架と復活のキリストこそではありませんか。今日も十字架のイエスはその十字架のゆえに、贖いの代価となられたがゆえに「あなたにはもう罪はない。あなたの罪は赦されています。だから安心していい、安心していきなさい」と言って下さっています。安心していきましょう。

3.「人は自らではただ拒んで行くもの」
 そのように福音を伝えたパウロとシラスのメッセージを聞いて4節こう続いています。
「彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。また他に神を敬うギリシャ人が大勢おり、貴婦人達も少なくなかった。」4節
 従うものが起こされました。中にはユダヤ人もいればギリシャ人もおり女性達も沢山いました。しかしです。
「ところが、妬みにかられたユダヤ人は、町のならず者を刈り集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家をおそい、2人を人々の前に引き出そうとして探した。」5節
A,「拒む人々」
 従う人がいる一方、拒む人もそれ以上に沢山いました。イエスは全ての人のため、それはイエスを拒み、憎しみ、罵り、十字架につけて殺した人々さえも例外ではなく、その人々のためにも十字架にかかって死なれました。ですから「救いの良い知らせである福音」はすべての人へのプレゼントであり、罪の赦しは十字架のゆえに全ての人に宣言されているものです。しかし人はその恵みを「自ら」信じることができません。その罪のゆえです。しかし実はその罪というのは、聖書にある「人のはじめと堕落」からもわかるように、どこまでも神の言葉を疑い、真理を拒み、否定し、妬み、退けようとする心のことに他なりません。そのことがここにはあるのです。「妬みにかられ」、退けようとする思いと行動です。そしてその衝動や動機は「人から」です。人の思いや感情が拠り所になっています。しかしその人の思いや感情は、いつでも正義ではないし、ここにある通り、力で征服しようとするものであるし揺るぎやすいものであることこそここにわかるでしょう。「町のならずものを集め、暴動起こして騒がせた」そして「襲い、引き出そうとした」とあるからです。暴力や攻撃的な態度は、それは恐れと極度の不安から来るものです。揺らぎではありませんか?人の拠り所は、安定しません。それどころか、その思いと感情のままに、いや、理性を働かせたとしてもです。人間の理性も感情による影響と紙一重ですし、不完全です。人に拠り所を置くことは、問題が起こる時に、平安がなく、揺らぎ、攻撃し、征服しよう、思い通りにしようとするです。彼らはヤソンというパウロとシラスの協力者の家を襲いますが、見つからず、苛立ちは頂点に達して、役人の前で大声を叫びます。
B,「従う人々ー福音によって揺さぶられた人々」
「しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟達の幾人かを、町の役人達のところへ引っ張っていき、大声でこう言った。「世界中を騒がせてきた者たちがここに入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼れらは皆、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅に背く行いをしているのです。」6〜7節
 と。実に、この言葉は、面白いですね。「世界中を騒がせてきた者たちが」と。これは原語的には「世界の人々をひっくり返すように、揺さぶりかき回す、駆り立て、奮起させ」という意味です。それは彼ら妬みにかられたユダヤ人達からすれば否定的な意味ですが、しかしそれは一方で、より深い意味で、従った人々にも当てはまります。それはまさにキリストの福音は、彼らを、世界を揺さぶり、駆り立て、奮起させ、あるいは「感動させ」という意味もありますが、そのように従った人々にとっては、そして世界に働く力ある言葉であるということでもあるでしょう。それはパウロがいう通り、罪にとどまろうとし、つまり赦しを拒み、救い主を否定し、妬み、背を向け、滅びの道を選ぶ人々にとっては愚かなな言葉であっても、しかし救われるものにとっては神の力なのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」第一コリント1章18〜24節
 これは実はどちらの言葉を、つまり、十字架の言葉を「愚か」とするか、「神の力」と見るかの、どちらを「私たちが選ぶか」の問題ではありません。なぜなら私たちは生まれながらには、自分の力では、この十字架の言葉を救いの言葉として選び信じることはできないからであり、十字架の言葉は、愚かな言葉としか見えないからです。しかし明らかな奇跡は、そんな私たちに、今や、福音を通して聖霊の豊かな力によって、信じる信仰が与えられ、十字架の言葉は、救いの言葉であり、真の神の力であると告白できることは、私たちの力ではない。神の力が私たちに現れている証しなのです。それはまぎれもなく、神の素晴らしい恵みであり力なのです。私たちは今日もそのイエスが今日も罪を赦してくださり、恵みのうちに遣わしてくださっている幸いをぜひ覚えて、ここから遣わされて行きましょう。