2019年6月23日


「全てのことに働いて益とされる」
使徒の働き 16章33〜40節

1.「はじめに:前回まで」
 前回は、ピリピの看守の家族の救いを見てきました。彼らを救ったのは、どこまでも神の言葉でした。神の言葉が、看守とその家族に信じる信仰を与えたのでした。そこでパウロとシラスは、家族全員にバプテスマを授けたのでした。パウロは、紫布の商人であるルデヤの時も、家族全員に洗礼を授けたとありましたが、「家族全員に」という時に、それは子供や幼子にも洗礼を授けたことを見てきたのでした。そのように「信仰も聖霊の賜物である」とあるのですから、洗礼も人間の何らかの行いや条件の達成の先にあるゴールではなく、イエスが私たちに救いを与えるための手段として、どこまでも恵みとして子供や幼児にも与えられるものであることを教えられたのでした。さて、そのように洗礼を受けたその家族ですが、パウロとシラスを家に招き、食事でもてなしました(34節)。しかしパウロとシラスですが、牢獄に戻っているのです。

2.「牢獄に戻ったパウロとシラス」
「夜が明けると、長官たちは警吏を送って「あの人たちを釈放せよ」と言わせた」35節
 つまり、まだ釈放されていないことがわかります。救いを喜んで、喜びに満ちた食事と交わりの夜であったのですから、そのまま綺麗な場所、あるいはそのまま解放されて自由になったと思いがちですが、二人は牢獄に戻って牢獄で寝たなのでした。それは当然のことで、看守には彼らを解放する権限は何もありません。35節でわかるように長官が命じて初めて囚人は解放されるのですが、しかしもし看守の家での食事後、彼らが牢獄に戻らなかったなら、当然、次の朝、パウロとシラスがいないことがわかると看守は処分されることになります。パウロとシラスはそのことをよく分かっていたのでしょう。看守とその家族の立場や勤めをよく分かっているからこそ彼らは牢獄に戻るのです。しかし戻ったとしても、次の日の朝、長官たちが解放するとは限らないし、2人も看守も解放されるなどとは思ってもいません。ですから「戻る」ということは、「明日には解放されるだろう」ということで戻ったのではなく、いつまで牢獄で過ごすかわからないという状況で、「それでも」戻ったということなのです。これは驚かされることです。自分達にその選択ができるかと問われればなかなか難しいことではないでしょうか。
 しかしそのことも、2人の信仰が強め励まされたからだと言えるでしょう。イエスが「行きなさい」と招いてやってきたこのマケドニヤのピリピの地です。しかしそれなのに偽りの証言で鞭打たれ牢獄に入れられるのには、私達の目や価値観から見れば納得できない不条理な状況でした。「なぜ?」と問いたくなる状況でした。しかしそのような苦しみにこそイエスの御心があり、それはこの看守たちを救うためであったということを悟らされた2人は、何よりその信仰が強められ確信が与えらました。どんな困難な絶望的な状況や現実にも神はいて、御心のままに働かれ全てを益としてくださることこそをパウロとシラスは知ったのです。そしてその救われた家族に溢れる「心からの喜び」です。イエスの救い、福音は、偽りでも律法でもない、心からの喜びをもたらすのです。それもまた信仰を新たにし強めることでしょう。ですから牢獄へ2人を戻さなければいけない看守も葛藤と戦いがあったでしょう。けれどもパウロとシラスの牢獄へ戻るという信仰に導かれた決断に、看守とその家族も信仰によって従うことができたと言えるでしょう。たとえ2人が牢獄に戻っても、主は必ず良くしてくださる。御心のままに働いて全てを益としてくださると。信仰はそのように強く働くものなのです。しかし忘れてはいけないのは、その信仰は自分たちの力で「信じなければいけない」という律法ではなく、どこまでも神の賜物であり、上からの救いの力であり、それはどこまでも福音の言葉を通して、その福音に働く聖霊によって与えられ、支えられ強められて行くものに他なりません。ですから私たちがどんな時でも、それが時がよくても悪くても、いつでもイエスが与える平安に満たされ、心からの喜びに満たされ、立ち上がり歩み強くあれる、唯一の鍵は、みことばに聞くこと、福音に聞き、罪赦され、安心することなのです。その幸いが教えられます。

3.「解放されるパウロとシラス」
 そして事実、そのように戻ったパウロとシラスですが、その夜明けに神の御旨が表されます。長官たちは警吏たちを送り2人を釈放するように命じるのです。ここで初めて公式に解放されることになるのです。何より看守がホッとしたことでしょう。愛する兄弟であり使徒であり、自分に福音を語ってくれたパウロとしらすがいつまでも牢獄につなぎとめられているなんてことは非常にやりきれない思いがあるでしょう。しかしパウロとシラスはその翌朝には解放されることになったのでした。看守はその命令を伝えます。36節
「そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。」
 「どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」には命令を伝える以上の言葉があり、そこには2人への親愛が込められています。そして看守はそこで学ぶことができたのです。主は本当におられ、この困難な状況にも全てのことに働いて確かに益とされるのだと。しかしです。ここで終わりません。
「ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前で鞭打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、密かに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて、私たちを連れ出すべきです。」37節
 パウロは「ここで」しっかりと自分の立場を明かし自分の権利を主張するのです。パウロもシラスも実はローマの市民権を持っていたのでした。ピリピの長官は、ローマ市民以外の人間には取り調べをしなくとも鞭打ったり牢に入れたりできたのでした。しかしローマ市民に対してきちんと取り調べをして正しい判断をしなければいけません。長官たちもきちんと確認もしなかったのもあるのですが、パウロとシラスも最初から言えばよかったのにと思います。しかし言わせなかった。あるいはこの37節でパウロとシラスは「あえて」言っていることからわかるように、実は言いたかったとも思われます。もしその権利を言っていれば、鞭打たれることも牢獄に入れられることもなかったことでしょう。宣教は前進していたかもしれません。しかし状況的にも「ローマ人です」と言う方が合理的であるはずなのに、言わなかったのは実に不思議です。そこには言いたくとも言わず、言わせず、彼らの口を閉ざす何かがあったからこそ2人はそのことを言わなかったと言うことなのです。これは簡単に書かれていますが。不思議な場面です。その言いたくても言わなかったその思いが今「この時」告げられるのです。むち打ちも牢獄も終わって解放されたその時です。
 みなさん。わかるのではないでしょうか。もし彼らが思いのまま合理的な判断として「ローマ人だ」と最初から伝えていたなら、確かに2人はむち打ちも牢獄も避けられたことでしょう。痛みに打ちひしがれることもなかったことでしょう。しかしそれは同時に、看守の救いも起こらなかったと言えるではありませんか。そうなのです。パウロとシラスは、あえて言わなかったのではない。計画で言わなかったのではない。言うことができなかった。言いたくても言わせなかった、不思議な出来事があったと言うことです。それはやはり神の働きと導きではなかったでしょうか。この看守が救われるためにです。まさに語られるにも時がある。語られない、口を閉ざされるのにも、全て主の時があると言うことなのです。しかもその「主の時」は決して裏切らない。最後には主が全てのことに働かれて益としてくださる。そのことがやはり見えてくるのです。私たちもなぜと思われる状況にあったとしても、それが先の見えない苦難であり痛みであり、絶望に近いどん底であったとしても、しかし「主の時」は決して裏切りません。主が私達のために計画され備えられているその時は、必ず時至って、ちょうど良い時に主は私達のために、そして私たちを用いて隣人のために、働かれるのです。これは感謝なことではありませんか。

4.「2人にわびを言いに来た長官たち」
「警吏たちは、この言葉を長官たちに報告した。すると長官たちは、2人がローマ人であると聞いて恐れ、自分で出向いて、わびを言い、2人を外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。」38節
 長官たちは「恐れ」たのでした。なぜならローマの市民権を持っている人間に対しては、きちんと手続きを踏み取り調べをしてでなければ、鞭打ったり牢獄に入れてはいけないことになっているのに取り調べを全くしなかったからです。取り調べをしないと言うことは、その事の正しい事実もわからないわけで、つまり長官たちは、訴える側であった、占いの霊に取り憑かれた女の主人の嘘の言い分だけでそのまま聞いてそのまま受け入れたことを意味しています。それはローマ市民に対する長官の務めとしてはとてもまずいことをしてしまったことになります。それが派遣したローマ皇帝や高官の耳に入ると地位も危うくなることしょうし、何よりそのピリピの町のローマ市民に対して示しがつかなくなります。長官が恐れるのも無理がないのです。その恐れの強さと言いますか、事の深刻さは長官たちの行動にも現れています。長官たちは、なんとわざわざ「自分で出向いて、詫びを言」うのです。そしてパウロとシラスに「町から立ち去ってくれるように頼んだ」のでした。2人の存在は長官の失態のまぎれもない証拠になるわけですから、街の中に居続けられるのは気が気でなかったことでしょう。一刻も早く去って行って欲しかったのです。実に保身が目的であることが溢れていますが、人間とはそのようなものです。

5.「言われた通り去るパウロとシラス」
 しかし一方でパウロのそれに対する対応にも教えられます。なぜならそのように解放されて即座に、37節にあるように「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前で鞭打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、密かに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて、私たちを連れ出すべきです。」というほどまで、自分たちがされた不当な扱いについて、その長官たちに怒りがあふれています。神は全てを益としてくださったと神には感謝するとは言え。身体は痛いですし不当なむち打ちなのですから。怒って当然のことです。
 けれども、そのように謝りに来て「去ってくれ」という、自己保身の長官たちに対して、パウロ達が、その通りに従うのも不思議なことです。本来の人間的な経過くや考えでは、そのように牢に入れられ時間を無駄にした分、宣教が滞った分、さらにこのピリピの町でその無駄を挽回するくらい滞在し頑張らなければならないと考えるのではないでしょうか。しかしパウロは、ある意味、憎いはずの自分にひどいことをしたはずの長官たちの申し出の通り去るのでした。不思議です。その理由はここには書かれていません。もちろんもっと広く伝えたいから違う町へという単純な理由でもあるでしょうけれども、しかしここではパウロとシラスは最初は感情的なまま文句を言ったのでしょうけれども、最後まで感情的な対応で終わるということはなかったのです。それはまずこれまで見て来たことを踏まえるときに、捕らえられ、鞭打たれ、牢獄に入れられ、個人的には痛みと屈辱と恐怖であり、宣教的には足止めをくらい滞ったように見え、信仰的には「なぜ神は」と思うほどの無駄のように思える苦難ではあるのですが、パウロは決して無駄なことだとは一切思っていないと言えるのではないでしょうか。何度も見て来たように、牢獄にあったからこそこの看守たち家族の救いがあったのですから。そしてパウロとシラスは牢獄で「賛美をしていた」ともありました。無駄なように思えることでも主にあっては決して無駄にはならない、主は必ず全てのことに働いて益としてくださることを自分は知っているのだから神は必ずそうしてくださると思っていたからこそ、彼らは賛美していたのです。ですから決して無駄ではなかったのです。そして宣教も決して滞ってはいなかったということです。そしてイエスの許しで、ローマ人であることを話すことがなかったのと同じように、イエスが口を開いてくださったからこそ、警吏にはこの時には「自分たちはローマ人だ」ということが導かれたように、この長官たちと話すことにも必ず主の意味と時があることを2人は見失わなかったことでしょう。長官たちの気持ちも当然、汲み取り、長官たちのことももちろん赦しと愛を持って考えたことでしょうし、そして去ることもまた益であり導きであると考えたからこそ去ることに従ったと言えるでしょう。彼らはどこまでもマイナスや後ろ向きな姿勢でそれを仕方なく受け入れたのではなく、むしろ救われた二組の家族を用いて福音のうちに主がなされることへ期待し去るのです。だからこそこう終わります。

6.「励ました」
「牢を出た2人は、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。」40節
 そこには悲観的な別れも、「止むを得ず」感はありませんね。「励まして」出ていったとあるのです。もちろん主にあって、福音のキリストを指し示し、その信仰を励ましたということです。自分たちにあったこれまでの主の恵みを証ししたはずです。それは痛い困難にあったが、全て神は益としてくださったと。確信と喜びと、希望と感謝に満ちた証しです。このように主に信頼するものは、いつどんな時でも、時がよくても悪くても真の強さがあることを教えられます。主イエスは私たちにも同じ信仰を与えてくださり、そして事実、イエスにあっては何事も無駄ではなく全ては益とされるのです。ぜひ私たちは今日も祈りつつ、そのように希望と平安のうちに「私たちを遣わしてください」と祈りつつここから遣わされていこうではありませんか。