2019年6月2日


「主はそこにこそおられる」
使徒の働き 16章25〜34節

1.「前回の問い」
 パウロとシラスは、ピリピの街で川岸の祈り場に向かう途中、占いの霊に憑かれた一人の女奴隷に出会いました。2人は、彼女が毎日のように二人を指して「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けるのに困り果て、その占いの霊に「イエスの名によって、この女から出て行け」と叫びます。その時、霊は彼女から出て行きました。しかしそのことによって、占いで利益を受けていた彼女の主人はパウロとシラスを、ピリピを治める長官に偽りの証言で訴えます。そして長官は二人を鞭打ち牢獄に繋いでしまったのでした。そこで前回の終わりに皆さんに問いかけました。二人は肉体的にも精神的にも非常に大きな苦痛です。このピリピへは、イエスが「マケドニア人の「助けて」という幻を与えたからこそ彼らはやってきました。彼らの宣教は、ピリピの街を混乱させたりなどせず、街の門を出た川岸での祈りと礼拝から始まった地道な宣教でした。何よりそれは「イエスが」与えた召命であり「イエスが」行けと言われた地であるのに、しかしこの肉体的精神的な痛みと災いです。これは人の目には大きな矛盾です。そのような矛盾に対して人々は言います。「イエスなんか嘘つきだ。約束なんて嘘ぱちだ。福音なんて無力だ」と。そこでこの問いを皆さんに問いました。その通り、ここに神はいないのでしょうか?こんなにも期待通り、思い通り、願った通りになっていかない。だからそこに神はいないのでしょうか?2人の置かれた状況は人間の価値観や感情からみるなら明らかな敗北、失敗、挫折です。しかしそこに神はいないのでしょうか?イエスの御心、イエスの約束、計画、イエスの福音は嘘で不完全であてにならない言葉なのでしょうか?と。その答えがここにあります。こう始まっています。

2.「苦難における賛美」
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」25節
A,「主はほむべきかな」
 真夜中のことです。まだ鞭打ちによる傷による痛みが残る夜で、足枷もありますから、眠れない夜です。二人は神に祈っています。しかしその祈りは賛美の歌を伴った祈りでした。ですから苦しみと痛みの中での祈りではありますが、悲観にあふれた信仰も弱り果てた一縷の望み、藁にもすがるような祈りとは少し違うことがわかるのです。祈りつつ、賛美の歌を歌っていたのでした。賛美というのは「主なる神はほむべきかな」と主なる神を讃え、主なる神へささげる、主への応答です。みなさん。不思議ではありませんか。先ほども言いました。この状況は、人間の思いや感情では「神は矛盾している」でした。「神が行け」と言ったからやってきた地であるのに宣教は閉ざされ、この痛み。矛盾です。しかも「イエスの御名によって」と言って彼女は癒されたのです。つまりそれはイエスが働かれた、イエス様の御旨であったのです。それなのに、それによって女奴隷の主人は不利益を被り、訴えられる原因になった。もしイエスが前もってその危険性を知っていたなら、イエスは彼女から悪霊追い出さなければいいのに。そもそもそんな占いの霊に憑かれている彼女にも出会わせなければよかったのに。人はそのように色々、理屈が思いつき、この状況、この二人が負っている結果は、全く矛盾している。そう言います。しかしこの二人の賛美は一つのことを証ししているのです。それは「イエスは、全く矛盾していない。その困難な状況にも、その牢獄にも、確かにイエス、神はおられる」。そして「主イエスは確かに褒め称えられる方である」と。この祈りと賛美にはその証しがあるのです。
B,「彼らが強かったから?」
 みなさん。この祈りも賛美も、どうでしょうか?私たち一人一人、自分たちの理性や力でできることでしょうか?不可能でしょう。これだけの困難な状況で「助けて」とかろうじて祈ることはできても「賛美」はできない、いや「祈る」ことさえできない、祈れるとしても、嘆きであったり、不平であったり、疑いであったり、人はなります。「神は嘘つきではないか」と言いたくなるのです。では、二人のこの祈りと賛美は何か?これは二人が強かったから、立派な信仰だったから、意志が強いから、あるいは彼らは特別だからそれができたんだ、私たちとは違うんだというかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?祈りや賛美は、人の能力や才能や意思の強さにかかってくるものなのでしょうか?もし「祈りや賛美が、全くの人の力、人がなすべき律法の要求なんだ」と考えるなら、それで辻褄は会うでしょう。「人のわざ」なのですから。しかし果たしてそうなのでしょうか?祈りも賛美も、私たちがなすべき律法であり、人のわざなのでしょうか?そしてこれはパウロとシラスだからであり、私たちとは関係ないことなのでしょうか?決して、そうではありません。
C,「賜物である信仰から出る福音と聖霊の力?主はそこにこそいる」
 二人に働いて、その弱り果てていた体、心、霊、信仰を支えていたのは、紛れもなく、イエス様であり聖霊であったからこそこの賛美は生まれているのです。これまでもずっと繰り返してきました。信仰は、聖霊とみことばの約束による神の賜物であり恵みであると。そのように信仰が、イエスの恵みから始まったことであるなら、それを支え助け、完成させるのも、日々新しいイエスの恵み、みことばと聖霊によるものだと。イエスが信仰に始まり信仰に進ませるのだと。そしてその信仰は、苦難と死の十字架への信仰であり、死の先に命の復活があったという信仰ではありませんか。人が望み期待する成功やなんでもうまく行くところに神はおられ、神が働いていることの証があり、祝福があるという信仰ではありませんでした。ローマ皇帝の家でもなければ、ヘロデ王の家でもなく、誰も思いもしなかった、信じなかった、ベツレヘムの寂しい家畜小屋の飼い葉桶の上に来られた救い主への信仰です。その信仰が私たちに聖霊によって与えられたのです。そしてその信仰は、苦しみの中でも決して、私たちを孤児としません。十字架のイエスはその苦難の中にこそおられるお方でしょう?聖霊はそのことを気づかせます。十字架を指し示します。そこに主イエスはいないのではない。そこにこそ主イエスはおられる。そして十字架に神の御心が有り、その御心と栄光が、復活で明らかにされたように、その苦難は決して意味のないことではない、そこにこそイエスの偉大な御心と計画がある。十字架はそこにこそ立つ。そのことこそを聖霊は気づかせるでしょう。そこから生まれた祈りであり、賛美なのです。そしてこのように苦難にあっても、痛みにあっても、聖霊が働き、導く祈りと賛美こそ、真の祈りで有り、賛美で有り、それは決して私たちと無関係ではない。もちろん私たち自身の力では不可能。できない。しかし私たちの口にも聖霊は福音を通して、その祈りと賛美を与えてくださるのです。どんな苦難に遭っても。時がよくても悪くとも。何より言えることはそこにイエスは100%おられるということです。
D,「信仰も賛美も決して律法ではない」
 皆さん、ここを決して律法的にとらえてはいけません。二人はこんな苦難でも祈り賛美をし立派だった。だから私たちもそれに習うんだ。そうでなければならないんだと。そのような教えや説教はよく聞きます。しかしそれは信仰を人のわざにした律法主義となんら変わらず、そこに平安も真の主にある成長もありません。これはできないこと。当たり前です。パウロとシラスとて同じです。ですから「しなければいけない」律法では決してない。ここには聖霊が働いている。主イエスがここにおられる。主イエスの恵みは時が良くても悪くても、鞭打たれている時も、牢獄に繋がれている時も変わることなく豊かにあるのです。私たちにもみ言葉と聖餐を通し、聖霊は同じように、いやそれ以上に豊かに働いてくださるのです。そのように私たちは変わらない豊かな救いの恵みの中にいる。時が良くても悪くとも。そのことを感謝して聖餐を受けいのです。

3.「真の賛美は、福音から生まれる」
A,「福音から」
 さてその賛美は周りの囚人が聞き入るほどでした。信仰から生まれる主イエスを褒めたたえる応答の賛美はそのまま証しになります。素晴らしいことではありませんか。しかし、ここでも教えられます。「主イエスはほむべきかな」と、賛美できるのは、そのほむべきイエス様の恵みを知り、そのことに真に喜べる時でなければ、その賛美は信仰の言葉としては出て来ないでしょう。神の前に真に賛美をすることを求めるのであるなら、それは決して律法からは生まれません。人のわざや感情からも生まれません。人の感情は自分を満足させるもので、同じ賛美をするでも自分の感情を満たす賛美は「自分のための賛美」を超えるものではありません。真の賛美は、主を褒め称えるものであり、それは福音から生まれるものです。つまり主イエスが私たちのために何をしてくださったのかを本当に知り、そこに安心するからこそ、私たちは喜びと平安を持って、「主はほむべきかな」と嘘偽りなく言えるでしょう。賛美は、決して律法からは生まれません。福音から生まれるのであり、その賛美こそを、聖霊は証しとして用いられるのです。そしてこの後イエスはこの証しを用いて偉大なわざを現します。
B,「主は用いられる」
「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部空いて、皆の鎖が解けてしまった。」26節
 突然の地震。そして扉が開いて鎖が解けた。これと似た出来事は以前ペテロにも起こったことでしたがこの場面は少し違います。それはパウロとシラスだけではなく全部の扉が開いて他の囚人の鎖も解けてしまったということです。そうなると他の囚人は我先にと逃げるでしょう。普通であればそうです。看守も当然そう思いました。
「目を覚ました看守は、見ると、牢の扉が開いているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。」27節
 牢獄の囚人が逃げてしまうと、看守が責任を取り死ななければならなくなります。ですから開いてしまった扉は、見るも明らかで、皆が逃げてしまったと看守に絶望的な事実を突きつけたことでしょう。だからこそ彼は確認もせずに自害しようとしたのでした。しかし28節。
「そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と叫んだ。」
 パウロは看守の自害を止めます。そして言います。私たちは皆ここにいると。囚人は逃げることができました。しかし「皆」とあるとおり、誰一人、逃げようとは思わなかったのでした。パウロとシラスとともにそこに留まったのでした。これは非常に不思議なことです。なぜ逃げなかったのでしょう。もちろんはっきりと理由は書いていませんし、色々と可能性はあるでしょうが、誰一人逃げなかったのです。これは二人の賛美に聞き入っていたことが大きく影響しているでしょう。二人の賛美は、周りの囚人たちに訴えかけるものがありました。2人が主を讃め称えることで、囚人たちに主なる存在を悟らせ、その主への恐れを与えたのかも知れませんね。何れにしてもその賛美は用いられたのです。囚人たちが逃げないでそこに止まるようにするためにです。この後それらの囚人については何も書かれてはいませんが、この時の体験は決して無駄にはならないと言えるでしょう。

4.「主はそこにおられる?主がこの家族の救いのために」
 そしてこの出来事は、もう一人の人とその家族を何重かの意味で救います。
「看守は明かりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。」29節
 看守は、まずその命を救われました。死ななくて良くなったのです。そしてそれだけでありません。「ひれ伏した」と、この看守には、「二人」に対してではなく「主へ」の恐れが与えられます。人は本当に主なる神に出会う時、自分が神の前に立つことができない存在であることを気づくと言われますが、それがここに起こっています。彼は主への恐れを抱かされ、そして主の前に自分がいかに罪深いものであるのかを思ったことでしょう。そして救われるためには何をしなければと救いを求めるのです。皆さん。救われるためには何をしなければならないでしょうか?看守が律法をすべて守らなければならない。立派でなければならない。とパウロとシラスは教えるでしょうか?そうではありません。二人は答えます。
「二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。そして、彼とその家のもの全部に主の言葉を語った。看守はその夜、時を移さず、二人を引き取り、そのうち傷を洗った。そして、その後ですぐ、彼とその家のもの全部がバプテスマを受けた。それから、二人をその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族揃って神を信じたことを心から喜んだ。」31節
 救いのために何が必要か。それは律法を全て守ることではない。立派にならなければならないではない。主イエスを信じること。それだけであると、パウロとシラスは断言します。そうすれば看守だけでなく、看守の家族も救われると。信じるだけです。しかもその信仰さえもパウロは神の賜物と言っています。主の不思議な導きで、そのように主への恐れが与えられ、救いを求める思いが与えられ、そしてその救われるための信仰については、32節にある通り、み言葉を通して彼とその家族に与えらるのです。彼とその家族は、洗礼を受けたのでした。そしてその家族には今までにはない、救われたことの大いなる喜びが溢れたのでした。
5.「問いへの答え」
 皆さん。最初の質問。その答えは明らかです。矛盾するような苦難と痛み。そこに神はいなかったでしょうか?神は初めから終わりまでそこにおられるでしょう。働いているでしょう。占いの霊に憑かれた女との出会いも、その女から悪霊を追い出したことも、確かに主がされた。それはパウロとシラスを矛盾に貶めるためではない。宣教を止めるためでもない。このようにルデヤ家族に続いて看守の家族が救われるために、主は人間が思いもつかない、予想もできないような大いなる完全な計画を立てそれを実行された。主はおられたのです。主は働いておられたのです。そのことをイエスは私達にも語っているのです。主の恵みは時が良くても悪くても決して尽きることがありません。ぜひ安心しましょう。今日も主の十字架による罪の赦しと復活による新生が私たちに新たにされここから出ていくことができます。