2019年5月12日


「そこに神はいるのか?」
使徒の働き 16章16〜24節

1.「はじめに」
 海を渡り、マケドニアのピリピへと到着したパウロとシラスの一行。前回、安息日に礼拝するためにやってきた河岸の祈り場で複数の女性たちに出会います。パウロはそんな彼女たちに旧約聖書からイエス・キリストの福音を語りました。その女性たちの中の一人、テアテラ市の紫布の商人ルデヤという女性が洗礼を受けたのでした。前回のメッセージのポイントは、ルデヤのその信仰も洗礼も、「主が彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」とあったように、彼女自身の努力や意志や決心によって信じたのではなく、100%、イエスからの一方的な働きかけと導きであり恵みによるものであったということでした。そのように全く新しい地、新しい文化の地での宣教も、「主によって」導かれた召命と宣教は、「主が」彼らを用い、そして人の思いや計画や推測をはるかに超えて働き、ことを行われるということを学んだのでした。このところも人の目には、全く望まざる災いに巻き込まれるのですが、しかしそれでも、つまり時がよくても悪くとも、イエスの導きと恵みは全く変わらないということを教えられると言えるでしょう。

2.「占いの霊につかれた女奴隷」
「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。」16節
 再びパウロと一行は祈り場へと向かいました。しかしその途中「占いの霊につかれた若い女奴隷」と出会います。この「占いの霊」というのは、未来を予測して当てるというような霊であったようですが、それは悪霊的な力によるものであったと言われています。このように「悪霊」というのは、決して力がないどころかむしろそのような力は世にあっては強いのですが、その「力」は人を惑わしたり、間違った道へ導いたり、何より、神に反抗するために働く力でもありました。しかし彼女は「女奴隷」とありますから、彼女は奴隷としての身分であり、主人がおり、その主人は彼女のその占いの能力を利用して商売をし多くの利益を得ていたのでもありました。ですから彼女は、魂は悪霊に支配され、肉体はこの強欲な主人に支配されているのですから、非常に哀れな人物でもあるのです。しかし、そんな彼女ですが、

3.「その言葉はどこから?」
「彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。」17節
 彼女はパウロへついてきて叫びます。「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と。このように悪霊といえども主なる神の霊を認識しその存在や働きを理解しています。そしてこの言葉は、表面上、文字通りであれば決しておかしいことは言っていない、その通りのことを伝えていますが、その言葉を叫び続ける目的は、叫び続けることによって、パウロたちの礼拝や祈り、そして宣教、つまりイエス・キイストの福音が伝えられることを妨害することにありました。しかもそれは一時間とかではなかったようです。
「幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。」18節
 その叫び声は何日も続いたのでした。皆さん、このところから教えられることがあるのです。何度もいうように、キリスト者や教会は、使徒の働きで見てきたように「キリストの証人」と呼ばれます。しかしその「キリストの証人」としての「証し」も、宣教の言葉も、それは人の行いや思いや考えから出るものではなく、聖霊によるもので、福音から生まれ、信仰から湧き出るものだと繰り返し伝えてきました。そのことの示唆がここにあるでしょう。17節の彼女の言葉「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」という言葉は、その文字通りであれば、正しいことを伝えており、一見すると立派な証しです。しかし「出所はどこでも良い、あるいは動機もどうでも良い、表面的に立派な正しいことを言っていればそれでいい」ということにはならないことがここにあります。つまり表面的には、同じ言葉を語るのでも、あるいはそれがいくら立派な言葉でも、それはどの心から、どの動機から生まれているかによってそれは180度違うでしょう?この彼女の言葉、表面的には立派だからと、宣教の言葉になりますか?彼女はキリストの証人だと言えますか?言えないでしょう。だからこそなのです。同じことを語るにせよ、同じ良い行いや隣人愛をするにせよ、クリスチャン、教会にとっては、表面的なことだけ繕えば良いのではない、その心が、動機が、つまりそれが福音から、信仰から出るものであることこそ、キリストの証人、宣教の言葉として、私たちにとって重要であるでしょう。いやそれこそ神の前に誠実で正直で、そして福音から出るものこそ、イエスは求め、イエスご自身が福音と信仰を通して成そうとすることであり、喜ばれることなのです。しかしそれを自分の力ではできない。だからこそ私たちはそのような真の証しと良い行いのために用いてくださいと祈るのです。
 行いや律法の動機から出発したり、それに伴い表面的な繁栄や成功にとらわれるような教えや思考や方法論は沢山あり、そして人はそちらに流れやすく、かつ、世の中ではそれは、一時、うまく行くかもしれません。見た目は良いように見えるかもしれません。もしそれが真であるなら、彼女の17節の言葉も、実に立派なキリストの証しとして用いられるべきです。しかしそのような動機から生まれるものは、主の前にあっては、何らみ旨に叶うものではないのですから、いや、反逆するものであるのですから、それはいずれ朽ちて錆つき消えて行くものです。キリストの証人のその証し、宣教の言葉、それは福音からしか生まれません。決して律法は動機にはなりえません。律法を動機にする宣教は、重荷をイエスに下ろしていないし、イエスから、福音から生まれていない偽りの言葉です。表向きは同じことをするにしてもです。福音からこそ真の動機、真の証しが生まれるのです。その事を教えられます。そのことは、ここでのパウロの行動にも見ることができます。

4.「イエスの名によって」
 そのように何日も叫び続けられ、パウロは困り果てます。そしてその彼女に取り付いている占いの霊にパウロは命じるのです。「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と。その時、「即座に、霊は出て行った」のでした。みなさん、この言葉、パウロ自身やパウロの言葉に力があったのではありません。「イエス・キリストの御名によって命じる」とあるでしょう。何日間も止むことのなかった彼女の叫び、悪霊の妨害です。パウロ自身は困り果てるほどです。しかしイエス・キリストの御名によってなされるとき、そこにはイエスご自身が働き力があるのです。悪霊は「即座に」彼女から出て言ったのでした。真の証し、真の力、それはイエス・キリストから生まれる。ここにもわかります。そしてここにあるもう一つの幸いに気づくでしょう。みなさん「イエス・キリストの御名によって」は私たちにとっては極めて身近です。そう祈りの時の言葉です。私たちは「イエス・キリストの御名によって」と祈ります。つまり私たち一人一人にも「イエス様の御名」が与えられているでしょう。私たち一人一人もその名によって祈ることができ、イエス様は私たちにも同じように力を表している方なのです。しかし大事なのは信仰です。その祈りが、形だけでのものであるなら、その祈りが律法を動機とするものであるなら、それは、この占いの霊から出る言葉とそんなに変わりません。真の力はないのです。だからこそ、私たちは「イエス・キリストの御名によって」と祈るとき、信仰を持って祈るのです。本当に信じて祈るのです。しかし祈らなければいけないから祈る、律法を動機にではありません。圧倒的なイエス様の働きと恵みである福音を動機にしてこそ、「イエス・キリストの御名によって」を信じる信仰は生まれ、真の祈りになり、イエスはその信仰の祈りを決して聞き逃したりはなされないし、むしろそれに答え、すべてのことに働いて必ず益としてくださるのです。

5.「牢獄へ」
 さてそのようにして、イエスの力がイエスの御旨のままに現され、彼女から占いの霊は出て行きました。しかしそれが人間的な言い方をすれば、パウロ達に災いとなって降りかかっていきます。
「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。」19節
 彼女は奴隷でした。そして主人がいて、彼女の占いの能力によって大きな利益を得ていました。ですからパウロによって占いの霊を追い出された彼女はもはやその能力はなくなりました。つまり主人はその利益を受けられなくなったのです。主人たちはパウロとシラスを捕らえて役人たちへと訴えるのです。広場というのはギリシャ文化では重要な場所で、議論が行われるところで、裁判的な訴えを受けるところでもありました。20〜21節でこう続いています。
「そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」20〜21節
 訴えた主人たちは、明らかに嘘をついています。パウロとその一行は誰も「町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝」などしていません。パウロとシラスは、ピリピでは、まだ川岸の祈りの場での宣教の状況でありました。そしてマケドニア人ではない、小アジア出身のルデヤが救われただけでした。この日も、この占いの霊に取り憑かれた彼女に何かしようなど全く目的としてはいませんし、相手にもしていませんね。街をかき乱したりもしていません。またその商売を二人は妨害する気もなかったのです。あまりにもその叫びが続き、困った挙句の出来事でもありました。ただそれだけのことです。しかしこの主人は商売が成り立たなくなったため、まさに憎しみと復讐心が募り、そのような偽りの証言をして罰を受けさせたかったのでしょう。そして、世の中はこのようにいつの時代も、表面的なことば、偽りの言葉が支配しまかり通り、理不尽な社会でもあります。
「群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。」22節
 周りの群衆も、パウロたちを訴えた主人の訴えに同意し従うのです。長官たちも、そのような嘘の訴えと、群衆という大きな支持層の判断によって、偽りの訴えをそのまま受け入れパウロとシラスを有罪にしてしまうのです。皆さん、当時の世界を支配していた天下のローマ帝国も、これほどまでに法律も裁判もいい加減で不完全で、過ちに満ちていることがわかるのです。地上の王国の限界です。長官たちは、パウロとシラスの着物をはいでムチで何度も打たせます。そして牢獄に入れて看守に厳重に番をさせるのでした。看守も24節にあるとおり、その長官の命令に従い牢の一番奥に入れ足には足かせをはめて、まさに「厳重にし」逃げられないようにするのでした。

6.「そこに神はいるのか?」
 みなさん。このところは実に簡単には書かれていますが、肉体的にも精神的にも壮絶な苦しみです。着物をはいで何度もむち打ちです。ローマの鞭打ちですから、ムチの先に金属の鍵のついたもので、一度打たれると肉が裂けるものです。それを何度もですから、それは壮絶な痛みでありました。そして精神的にはどうでしょうか?全く新しい宣教の地。マケドニアです。ギリシャ文化の異教の地。皇帝崇拝の地です。不安と恐れの中、入ってきました。しかもそのこともイエス様が示したことです。イエス様が「マケドニア人の「助けて」という幻を与えたからこそ、彼らはマケドニアにやってきました。そしてその新しい地でもなんら、街を混乱させるようなことはしていません。街どころか、街の門を出た川岸での祈りと礼拝から始まった地道な宣教でした。そして思いがけず、困り果てた末に追い出した「占いの霊」でもありました。しかもイエスの名によってです。つまりイエスもそこで働いてくださったのです。イエスの御旨のままにです。イエスがなさったことです。しかしその結果が、この偽りの証言、冤罪、そして痛みです。そして牢獄の一番奥で足枷をはめられ、もはや逃げられない状況です。何よりイエスが示し、イエスが召してくださった、その宣教は閉ざされています。何度も言いますが、「イエスが」与えた召命であり、イエスが行けと言われた地であるのにです。みなさんこれは大変大きな矛盾を感じる状況です。イエスなんか嘘つきだ。約束なんて嘘ぱちだと言いたくなる状況です。福音なんて無力だと断言したくなるような状況ではありませんか。皆さん、その通り、ここに神はいないのでしょうか?こんなにも期待通りに、思い通りに、願った通りになっていかない。だからそこに神はいないのでしょうか?人や世はそのように言い、断定し、判断します。これは人間の目からみるなら、明らかな敗北であり、失敗であり、挫折です。しかしそこに神はいないのでしょうか?イエスの御心、イエスの約束、計画、イエスの福音は、嘘で不完全であてにならない言葉なのでしょうか?ぜひその問いをじっくりと考えて見てください。その答えは次回、見ていきたいと思います。