2019年5月5日


「誰が開いた?」
使徒の働き 16章11〜15節

1.「これまでを振り返り」
 パウロは2回目の宣教旅行を、シラス、さらにはそこにはテモテとルカもいたであろうと思われるのですが、彼らは小アジア、現在のトルコ共和国の地域を宣教していました。彼らはその宣教に行く時、決して当てずっぽで回っていたのではなく、きちんと話し合い、計画と目的を持ち、ビジョンを持って回っていたことでしょう。しかしそのような中で、主イエスは彼らに語りかけて、そのアジアの地域で語ることを禁じます。それに従い、一度はその地域から離れエーゲ海沿岸まで来ますが、しかしそれでも彼らは一度、その禁じられたはずの小アジア方向へ戻ろうとするのです。しかしそこで再びイエスはその行動をお許しになりませんでした。そんな時にイエスは一人のマケドニア人がパウロに懇願する幻を与えるのです。「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」と。これによってパウロは悟ります。イエスが自分たちが計画し宣教するために向かうとするのを禁じたのは、このためであったのだと。エーゲ海を渡りギリシャへ渡らせ、そこで福音を宣教させるためであったのだと。そのように宣教には人の様々な計画や願望や理想やビジョンがあれども、それがなって行ったり、その自分のビジョンを達成すること、自ら果たしていくことに宣教の中心があるのでもなければ、宣教の主は決して人ではなく、どこまでも主イエス・キリストであり、召された者や教会には、人の思いや計画を遥かに超えたイエスの計画がしっかりとあり、それがなされていくものであるということを教えられたのでした。そのようにしてパウロ一行は、イエスが示されたマケドニアへと向かうために、トルコ側のトロアスから海をわたるのです。

2.「マケドニアへ」
「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直行して、翌日ネアポリスについた。そこからピリピに行ったが、ここはマケドニアのこの地方第一の町で、殖民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。」11節
 まずここに「私たちは」とある通り、一行の中に、この使徒の働きの著者であるルカ本人もいることも確認できます。彼らは船で海を渡ります。サモトラケもネアポリスもギリシャ側のマケドニア地方の都市ですが、そこからピリピという都市にやってくるのです。ピリピはマケドニア地方の第一の都市で、現在はギリシャのピリッポイという都市です。ピリピは歴史ある都市で、「植民都市」とありますが、軍隊を引退した多くの退役軍人を入植させ、都市が栄えたことが歴史にも記録されています。
 パウロとシラス一行は、イエスが示した通りにマケドニアにやって来たのでした。それは決して簡単にやってきたのではないことでしょう。なぜならこれまでのパレスチナ、小アジアを離れ、一行にとっては、初めてのギリシャ・ローマ文化の溢れる大都市での宣教になります。それは予測や計画もできないような状況の中でこの町に入ってきたことを意味しています。当然、不安も覚える状況ではないでしょうか。トロアスを船で出るときも、確かにそれはイエスの御心であるのですから、信仰にあっては希望に胸を膨らませてという面ももちろんあったことでしょう。しかし人間というのは、いつでもそのように100%信仰的であることなどできないものです。希望は不安との表裏一体なものです。肉の思いは恐れ、不安、疑いが起こってくるものなのです。そして4人いれば4人ともそれぞれその心の持ち様も違います。そのような中でこのピリピに入って来た4人なのです。しかしそこで彼らの足を進ませ到着させたのは、彼らの振り絞った勇気とか意志の強さですか。そうではありません。彼らの足を進ませ到着させたのは、イエスの言葉、イエスの約束、そして何よりそこに働く聖霊の力であると言えるのです。

3.「川岸で」
「安息日に、私たちは門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まった女たちに話した。」13節
 安息日、礼拝の日です。イエスの使徒たちや弟子たちはいつも安息日にはユダヤ人の会堂であるシナゴーグに行き、礼拝をするのが普通ですし、それまでも彼らはそうして来ました。しかしこのピリピでは、一行は町の門を出て川に行きます。それはそこに「祈りの場があると思われる」とありますが、そこで祈りのために集まってくる人がいたということです。このピリピにはユダヤ人があまり多くはなく、あるいはほとんどおらず、ユダヤ人の会堂であるシナゴーグがなかったことを意味しています。「植民都市」とあり、ローマの退役軍人ばかりが入植してくるような町ですから、ユダヤ人とはあまり縁がないのももっともなことです。そのピリピでも極めて少数の敬虔な礼拝者は、会堂がない場合は川岸にやってきて祈る習慣をパウロたちも知っていたので、彼らも祈り礼拝するためにやってきたのです。
 しかしそこに集まっていたのは「女性たち」とあります。この「女性たち」というのは、当時のユダヤ社会だけではなく、ローマ社会でも身分が低いものとされていました。ですから特に差別の強いユダヤ文化では、ラビと呼ばれる教師たちは、自分たちから女性たちに話しかけたり教えたりはしないものでした。しかしそれはただ一人の例外を除いてはです。それはもちろんイエスでした。パウロと一行はそんな川岸に祈りにやってきた女性たちに、女性だからと決して「語りかけない」のではなく、イエスがなさったのと同じように語りかけるのです。安息日のみことばとして、彼女たちへ旧約聖書のみ言葉からイエス・キリストの十字架と復活の福音を語るのでした。それに対してです。

4.「ルデアとその家族」
「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデアという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」14節
 「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデアという女が聞いていた」とあります。面白いのは「テアテラ」というのは、これは小アジアの都市です。つまりパウロと一行がイエスによって福音を語ることを禁じられた地域になりますが、その地域の都市出身のアジア人になります。彼女は「紫布の商人」とありますが、紫布は地位の高いローマ人が身にまとうものでありますが、ローマの退役軍人が入植するこの都市では需要があったことでしょう。彼女は「神を敬う」女性でした。つまり神による救いを待ち望んでいた一人であったのでした。そんな小アジア出身の彼女が偶然そこに居合わせ、偶然そこにやってきたパウロの語る福音の説教を耳にするのです。もちろんイエスにあっては「偶然」ではないのですが、そしてあります。
「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」
 と。ルデアに信仰が与えられ、そして15節にあるとおり、彼女とその家族、つまりご主人も子供達も皆洗礼を受けたのでした。ピリピというギリシャ都市、しかもローマの退役軍人が溢れるこの町にやってきて、最初の洗礼者は、なんと小アジアからやってきたルデアとその家族であったということにも人の思いをはるかに超えたものがあります。小アジアで福音を語ることを禁じられたとあったですから。パウロ一行も、マケドニア人の懇願する幻があったのですから、マケドニア人の救いこそを思い描いていたことでしょう。しかしこのように、救いも宣教も人の思いをはるかに超えた主の働きであることがわかります。そしてそのことはここにはっきりと見ることができます。

5.「誰が開いた?」
「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」
 「心を開いて」ということば、この彼女の「心を開いた」のは誰ですか?パウロではありません。シラスでもルカでもテモテでもありませんね。ここに「主は」とあるでしょう。主が心を開いたのです。さらには、パウロの語ることに「心を留めるように」「された」ともありますね。もちろん主が「された」という意味です。皆さん、そこには「女たち」とあるように、他にも女性たちが複数いたことでしょう。しかも安息日に祈るためにやってくるような女性たちですから、ほかの女性たちも敬虔な女性たちであったことでしょう。しかし彼女の皆が心を開き、福音を受け入れ、洗礼を受けたわけではありませんね。わからなかった女性たち、受け入れられなかった女性たちもいたのです。このところからわかるように、救いや信仰を持つということは、その人の「敬虔さ」「敬虔だから」信じることができるのでもなければ、敬虔だから神に選ばれて信仰が与えられるのでもないということです。「敬虔さ」が先ではない。「まず「敬虔」でなければふさわしくない」でもない。それは私たちの側の何かでは決してない。どこまでも主イエス様の言葉と意志、そこに働く聖霊の力であるということなのです。
A,「使徒の働き14章27節」
 この「開く」という言葉。これは14章の27節にもありましたね。
「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われた全てのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」
 ここに「異邦人に信仰の門を開いてくださった」とあります。ここにもそれをしたのは「神が」とあります。しかもそれはそれまでの出来事の報告会です。その出来事とは、「神が彼らとともにいて行われた全てのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」です。つまり使徒たちでさえも、していなかったし、むしろ彼らは律法や伝統に縛られ、しようともしなかった異邦人への宣教であり、人の側では、異邦人宣教という道が開かれることもビジョンが生まれることも決してありませんでした。実際に異邦人への宣教が行われた後、エルサレム教会でもペテロへの非難や議論が起こるほどであったのですから。しかしそこに人の思いや力では決してない、ただただイエス様のご計画とそれを人の思いを遥かに超えて働いて実現し、異邦人にも福音を宣教しなさいという門を開いたのは、確かにイエスであったということを、報告したのがこの時です。そう神、イエス、聖霊が「開いた」のです。
B,「ルカ24章:エマオの途上」
 ルカ24章の終わりのエマオの途上の出来事も思い出します。それは十字架でイエスが死なれ失望し、エルサレムに背を向けて離れエマオに向かっていた二人の弟子に起こった出来事です。そんな二人にイエスが現れ語りかけますが、彼らはそれがイエスだとわかりません。肉眼で見ることができる目に前に復活のイエスがいるのにです。まさに五感で確認できる証拠が目に前にいるのです。しかし二人はそれがイエスだとわからず、他の人だと思っているのです。「二人は目を遮られていてイエスだとわからなかった」と24章16節にはあります。彼らはそのイエスが、十字架の出来事やそのイエスが三日目によみがえると言っていたではないかと教えてもそれでも彼らはそれがイエスだとわからず、そして夕食の時、イエスがパンを取って祝福しパンを裂いたその時に初めてそれがイエスだとわかるのです。
「彼らとともに食卓につかれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。24章30〜31節
 ここにもあります。「目が開かれ」と。そしてイエスだとわかったと。このように、目を開き、イエスだとわからせるのは、彼ら自身の力、敬虔さでは決してない。敬虔さで言えば、彼らはエルサレムから去ろうとし、十字架の出来事について悲観的で不信仰です。イエスが言っているよう通り「預言者たちの言ったことを信じない心の鈍い人たち」(ルカ24:25)です。しかしそのこと云々に関わらず、彼らが不信仰で心が鈍い者であっても、彼らの心を開き、イエスだとわからせ信じさせたのは、イエスご自身であったと、福音書は私たちに証ししていたでしょう。
C,「信仰は恵みであり賜物」
 皆さん。このようにイエスは今日も語りかけています。信仰、信じるということは、素晴らしい神からの賜物だと。イエスが私たちの心、目を開いてくださり、私たちの罪深い心に信仰という救いのための宝をおいてくださったのです。イエスが深い闇の中に、闇が決して打ち勝たなかった光として来てくださり、いまも輝いてくださっているのです。「イエスが」です。パウロのこの言葉は明確です。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。エペソ2:8〜9」
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。第一コリント12章3節」
 皆さん、ここに「救い」は行いによるのではなく「信仰によって」だとあります。しかしその信仰は「恵みのゆえに」とあり、しかも「行いによるのではなく」と「行い」と相対するものとしてはっきりと書かれているではありませんか?このように、信仰、「信じる」とは、行いではありません。努力目標でも義務でもありません。それはしなければいけない「律法」ではないのです。「恵みのゆえ」ーそれは福音であり、イエスが働き、イエスが目を開き、心を開き、与えてくださった、100パーセントの賜物なのです。もうそこにわずかでも私たちの意思が必要だ、決心が必要だというなら、それは「100パーセント恵み」ではもはやなく、信仰も救いにも私たちの行いが必要になります。それがたとえ、わずか0.1パーセントでも「人間の努力、貢献、協力が必要だ」「一歩が、決心が必要だ」になると、もうそれは、信仰も救いも、人のわざ、私たちにに全てかかっているここと同じです。なぜなら、それがたとえわずか0.1パーセントでも、人は自分の行いや心が、神の前に正しいか確信を持つことができないからであり、むしろその0.1パーセントでも「自分は正しい、罪はない、いいところがある」と断言できるのであるならば、それはもはや神の前に高ぶり、自分を誇っていることにさえなるでしょう。開くのは0,1パーセントの私たちの踏み出す決心の一歩でではない。私たちの意志の力、理性の力でもない。聖書ははっきりと言っています。ルデアの心を開き、み言葉に心を留めるようにされたのは、ルデア自身ではなくイエスだったと。皆さん、今、私たち一人一人が信じていること、信仰が与えられていること、信じてここに集められていることをただただ感謝しましょう。主イエスの恵み、イエスが私たちを罪の奴隷から、その血の代価を持って買い戻し、私たちの思いや計画では計り知れない、達成できない、素晴らしい神の国の門へと入れてくださった。そのことを今日もこのみことばの約束から確信をいただき、主イエスを今日も賛美しましょう。