2019年3月17日


「重荷をおろすために」
使徒の働き 14章27〜15章11節

1.「なぜイエスは十字架に」
 教会の暦では3月6日から4月18日まで受難節にあります。この期間、教会では福音書からイエス・キリストの十字架の死への受難の歩みを思いながらイエス・キリストの福音へと立ち返ります。教会は、教会が始まった約2000年前から今日に至るまで変わることなく何を伝えるのかというと、イエス・キリストとその十字架にこそ本当の平安、救いがあるということであり、それが世界への良い知らせ、福音であるということを教えます。ではそのイエス・キリスカトはなぜ人となって世に来られ十字架にかかって死なれたのでしょう。その目的と意味は何でしょう。福音書のこの言葉はそのことへの一つのメッセジなのです。

2.「幼子のたちに現された神の国」
 イエスはどのような状況で話されているかと言いますと、イエスは神の国が近づいたので悔い改めて救いを受けなさいという知らせを伝え多くの奇跡を行ってきました。それは全ての人へのメッセージでした。しかし多くの人はそれを信じませんでした。イエスはそれに対する嘆きの言葉を述べるのですが、しかしイエスはその神の国の知らせを、賢い知恵のある人々にではなく幼子たちに現してくださったことを感謝しますと祈るのです。
「その時、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子達に現してくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」25〜26節
 この言葉の意味は何でしょうか?イエスやイエスの伝える事、する事を信じることができず受け入れることができなかった人々というのは、世の中の知識をよく知っているような社会の知者や賢者たち、特に聖書はよく知っているはずのユダヤ教の宗教指導者たちや社会の指導者たちでした。彼らはその人間の豊富な知識や知恵のゆえに、逆に神の知識や知恵はむしろ隠されて理解できなかったのでした。しかし一方で「幼子たちに現してくださった」とは、イエスは知者や賢い知恵のある人々にだけ伝えたのではなく、むしろイエスは世の中から阻害され蔑まれていた当時は重い忌み嫌われる病気にかかっていた人々や、取税人と呼ばれる罪人達の所に行き声を掛け交わり一緒に食事をし、そして悔い改めと神の国を伝えたのでした。そのような人々はその福音を聞いて拒んだのではなく、むしろイエスの憐れみと神の国の福音に目を開かれます。そして彼らはそれまでの自分のあり方や行いを悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れたのでした。それは弟子達でさえも同じで、弟子達は皆育ちも良く知識にも溢れ優秀な人々が集められたわけではありませんでした。彼らはただの田舎の漁師の家の子供達であったり、その中には取税人もいました。過激な革命を理念とするような党に所属していたものもいました。皆優れた人々では決してなくむしろ自分中心で欠点ばかりの一人一人であったのです。しかしイエスの言う「幼子達」とは実は、そのような罪達達や弟子達を指しているのです。そのような彼らにこそ神の国は現された、それが神のみ心であり、そのことを感謝しますとイエスが言っている祈りなのです。そして先ほどのお読みいただいたその言葉を伝えるのです。

3.「疲れた人、重荷を負っている人」
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」28節
 とてもわかりやすい言葉ではないでしょうか。まずこのイエスの言葉は「疲れた人、重荷を負っている人」へ向けられていることがわかるでしょう。イエスがあえて世の中から阻害され、疎まれ、蔑まれているような人々、罪人のところにこそ行き、声をかけ交わり、友となって神の国を伝えたように、イエスの思いと目的は世の中で孤独や絶望や罪悪感罪責感などで疲れ果て重荷を心に負っている人を招くことにあり、そして「休ませてあげます」とあるように「平安」を与えるためであることがわかるのではないでしょうか。決して阻害され疎まれ蔑まれているものを、さらに阻害するため、疎み蔑むためではありません。もちろん社会でそうなるには彼らにはそれなりの「彼ら自身の責任や原因」があったかもしれません。特に罪人達の罪は彼ら自身の行いによるものであり、蔑まれ嫌われるのは彼らに原因があったことでしょう。しかし「たとえそうであっても」イエスはその彼らの疲れを責め、その重荷をさらに重くするとは言わない。いやむしろその逆でそんな彼らにこそ
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」
 とイエスは言って招いているのがこの言葉なのです。しかも「すべて」とあるように、そこにはいかなる理由にも例外は設けられていないということです。どんな理由であっても、どんなその人に責任、その人自身の招いたこと、どんな罪の結果であっても、そのことに疲れ果て重荷の重圧に押しつぶされそうになっているならイエスはその人のためにこそきた。その人こそ招いている。「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」と。そう言っているのがこの言葉なのです。感謝な言葉ではないでしょうか。なぜなら今のこの現代、疲れていない人、重荷を負っていない人は誰一人いないでしょう?皆心に疲れを重荷を負っているのではないでしょうか?

4.「人と自分へ重荷を負わせる罪の世界」
 この世界の現実はどうでしょう?人間の社会は、それがたとえどんな制度であっても、それが社会主義経済であっても資本主義経済であっても重荷の現実は変わりません。どういうことでしょう?それは国家であっても会社であっても、どんな組織であっても、私たちがそのどちらかの経済システムに組み込まれている以上、どこででも何らかの重荷を負わされ成り立っています。それは善し悪しの問題ではなく、それはやむを得ないことであり、それによって社会の安全が成り立ち、食べものや豊かさを得ることができているのです。しかしそればかりではありません。私たちの重荷というのは人間関係による重荷や自分が自分に負わせる重荷もあるでしょう。今やこの豊かさがなんでも実現させてくれるように錯覚させる社会では、私たちが思い描く理想や願望さえも重荷になったりします。それが思い通りになっていたり、思い通りに行動できていたり、ことがが運んでいるときは、むしろ実は自分で自分の荷物を追っているのに重荷とは思いません。しかし上手くいかないとその重荷に気づきます。思い通りにならないことがストレス、不安、恐れ、失望、などなど苦しい重荷になります。本当は人生は思い通りになんてならないのに、この豊かさと優れた知識が溢れる現代において、様々な最もそうな合理的で聞こえのいい方法論や主義主張は、思い描いた通りになっていくような幻想を抱かせたり、それぞれの自己の欲望を満足させるものを提供してくれてもいるでしょう。それが現代社会であり私たちはその中に組み込まれています。しかしそのような自己達成や自己満足など、自分の行いによる安心感や満足感も、結局ひと時のものでありその結果は必ず飢え渇き、その欲求は「さらにさらに」と求めます。そして何よりそれは重荷となります。うまくいかないときはその心の重荷はずっしりと重くのしかかるでしょう。挙げ句の果てにそこにある基準は人との比較や人にどう思われるかが大きく左右しているでしょう。世の多くの人の関心は人にどう思われているかであると言われています。そして人との比較による基準が自分のステイタスの判断になっていると言われます。しかしそれが現代のいじめや10代の自殺の大きな問題ともなっているでしょう。私たちはそのような社会に生きています。それは私たちは知らず知らず、人から重荷を負わされるだけでなく、社会の中で人にも負わせたり自分自身にも重荷を負わせ、思い通りにならないときにそのことに押しつぶされるのです。それはわたし自身もそうであるからこそ気づかされることでもあります。みなさんはどうでしょうか?疲れや重荷は私たちには常にあるのではないでしょうか。ですからイエスが「賢い者や知恵のあるものには「隠されている」」とあえて言っているのも、それはそのような賢い者や知恵のあるもの、世の中の成功者たちでさえも重荷を負っているのにそのことに気づいていないことをイエスはご存知でだからこそ「隠されている」という言葉を使って言っており、つまりそんな彼らも決して除外されていない、彼らも「すべて疲れた人、重荷を負っている人」なのです。イエスはそのような私たちに語りかけるのです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」
 と。イエスが来られ与えるのは世が与えるものとは全く逆です。世は人に重荷を負わせ、人は、自分にも他人、家族や愛する人にさえも重荷を負わせます。しかしイエスが来られたのは重荷を降ろさせ、重荷を代わりに追い、そして疲れさせるためではなく、疲れから安心へ、休ませ心、魂に平安を与えるためなのです。イエスはこう言われているからです。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14章27節

5.「十字架にこそ現されている」
 重荷を負わせるためではなくおろし平安を与えるため。そしてこのことこそイエスの十字架に現されていることなのです。その十字架とは、イエスは罪がない方であり、愛されるに値しないものを愛し神の国を開くために来た方なのに、それは裁判をした総督ピラトもそのことをわかっていたのに、妬みに駆られたユダヤ人や自分が人々からどう思われるかを気にしたピラトが自己満足のために、その罪のゆえにイエスに重罪人の重荷を負わせ死なせた刑罰です。しかし聖書にはそれが神のみ心であったと書いています。この十字架を用いて神は何を私たちに示しておられるでしょう。それは神は人々のすべての重荷、不満、嫉妬や自己満足など、その罪さえも全てのご存知の上でそれを裁くのでも責めるのでも、さらに重い荷を負わせるのでもなく、すべてそのご自身の身に引き受け背負われたのがイエスの十字架の証しです。そしてイエスが神の前にも人の前にもそのように有罪になってくださったからこそ神はもはや裁かない。責めない。重荷を負わせない。それどころか。私たちの重荷の原因である罪の解決、罪の赦しをこの十字架において与えてくださり、イエスは今日も私たちに罪の重荷を下ろすために言われるのです。「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」と。これがイエスが伝えたいことなのです。この十字架はまさに私たちのすべての重荷と疲れをイエスがその身に負ってくださり世が与えることのできない平安、罪の解決、重荷からの解放を神様が与えるための神から私たちへの証なのです。そして事実イエスはその言葉の通りすべて疲れた人の重荷を負い休ませてくださるのです。最後に、イエスはこう続けています。

6.「重くないくびき」
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」29〜30節
 イエスはわたしのくびきを追いなさいと言っています。くびきというのは、牛に台車を引かせるときに牛の肩にかける木製の道具のことです。この言葉を見るときに。みなさんは結局は別の重荷を負わされるのかと思うのではないでしょうか。しかしそれは違います。イエスはここで「わたしは心優しく、へりくだっているから」とあります。皆さん、イエスの「心優しさ」や「へり下り」はそれは人の優しさの比ではありませんし、比較できないものです。それはあまりにも深いものです。イエスは罪人の友となり食事をしました。私たちはそれさえ難しいことです。もちろん世の中にはそれができる人はいるかもしれません。しかし自分には罪はないのに妬みや地位や名声のために自分を有罪にし罵り蔑むような人々のために愛を現わすことが私たちにはできるでしょうか。その人の罪をその身に負って有罪と宣告されることが出来るでしょうか。彼らのために死ぬことが出来るでしょうか。それは誰もできません。しかしイエスが私たちのためになさったことはそれです。十字架でありその十字架こそが人には決してないイエスの優しさであり「へりくだり」の示すことであり、それがイエスのくびきです。それは負わせるものではありません。一緒にそのくびきを負ったとしても、その「荷は軽い」とある通りです。なぜならそのくびきは「イエスのくびき」であり、イエスが負ってくださった十字架というくびきを一緒に負っているだけであり、それはイエスがひっぱているから、私たちはただくびきを「つけている」だけでそれは軽いのです。もはや重荷ではないのです。ですからそれはイエスが重荷を代わりに負ってくださっているのと同じです。聖書の別の箇所では神は「背負ってくださる」方であるとも書いています。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イエスラルの家の全ての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なおわたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ書46章3〜4節
 重荷を降ろし代わりに負ってくださる方、いや私たち自身を「背負って」くださり救い出してくださるお方。イエスはそのためにこそこの世に来られ私たちの前におられるのです。ですから十字架のイエスこそ私たちに今日も語りかけています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 と。ぜひそのイエスの声に答え、イエスのところに来て重荷を下ろしませんか。イエスはいつでも聖書を通してこの福音を語り私たちを招いているのですから。誰でもです。どんな重荷でもです。それには何の条件も対価も必要ありません。「受ける」だけ、それは、来てイエスの福音に聞き続けるだけでいいのです。そのとき世が決して与えることができないイエスが与える平安があなたのところにも来るのです。