2019年3月3日


「励ましによって喜んだ」
使徒の働き 15章22〜35節

1.「前回までのところ」
 15章では、アンテオケの教会にやってきたユダヤ人クリスチャンたちによって起こった教会の問題から始まりました。そのユダヤ人たちの主張は「異邦人たちもモーセの律法に従って割礼を受けなければ救われない」ということでした。それはアンテオケ教会を混乱させ議論になり、結論が出ないためエルサレムでの教会会議で議論されることになりました。エルサレムでもパリサイ派出身のクリスチャンたちは、同じように「異邦人も救いのためには割礼が必要であり、その歩みもモーセの律法を守るように命じろ」と主張しました。しかしそれに対しバルナバとパウロは、アンテオケ教会の働きと彼らの宣教において、イエスが異邦人たちに表してくださった救いの恵みを証言し、イエスは割礼や律法の行いではなく、ただ「一方的な恵みのゆえに」福音を通して異邦人たちも信仰が与えられ救われたのだと訴えました。そこでペテロもローマ軍の隊長である異邦人コルネリオに起こった救いの出来事を語り、ペテロ自身、全く思いもしない中で、イエスがペテロ自身とコルネリオの両方に現れ語りかけ招き、コルネリオに福音を通して信仰を与え洗礼へと導いたのだと証しします。そしてペテロはユダヤ人たちに言うのです。「自分たちだけでなく父祖たちでさえも負いきれなかった「律法のくびき」を新しい異邦人クリスチャンたちの首にもかけるのですか。それは神の恵みによる救いを、人の力による救いに変えてしまうことであり神を試みることではありませんか。私たちはただ神の恵みのゆえに救われたのではありませんか。そうであるなら、異邦人もそうではありませんか。」と。その「圧倒的な事実」にユダヤ人たちは沈黙しますが、しかしバルナバとパウロが語るイエスの恵みの証しに耳を傾けるようになり、そしてそこでヤコブは、聖書のアモス書からみ言葉を引用し、主はやがて来られると約束され、幕屋を建て直すと言われた時に、異邦人が主を求めるようになると約束されたではないか。その約束こそイエスが来られたことによって私たちの前に実現したことではないかと、パウロとペテロを支持したのでした。しかし同時に、各地にあるユダヤ人会堂ではユダヤ人たちがモーセの律法に従った信仰を持っているという現実もあるのですから、律法で禁じられていることは避けるように各地のクリスチャンたちに書き送るべきだとも提案したのでした。前回はそこまでを見てきました。

2.「ユダとシラスの派遣」
 その続きになります。
「そこで使徒たちと長老たち、また全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンテオケへ送ることを決議した。選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。」22節
A,「会議の証人」
 エルサレム教会の使徒たちや長老たちは、会議で話し合われたことを伝えるのですが、ここでアンテオケに帰るバルナバとパウロだけでなく、それに加えてバルサバと呼ばれるユダとシラスも派遣することを決議しました。これはなぜでしょうか。バルナバとパウロがアンテオケの教会に帰ってその内容をそのまま伝えればそれで済むようにも思います。しかしエルサレム教会はバルナバとパウロが正しく会議の内容を伝えないと信用していないから、ユダとシラスを遣わしたのでしょうか。そうではありません。エルサレムの会議は、福音によって救いの原点に立ち返らされ一致させられた会議です。そうであるのにそこに、教会がなおも律法的に2人を疑い、そのような疑いと心配と不信仰を動機として、何かを決議し、そのような動機でさらに2人を派遣するということは福音に矛盾し逆行することですので、あり得ないことです。なぜなら福音はあらゆる律法から解放し、喜びと希望、平安と自由を与えるものです。本当に福音によって主の御旨に気づかされたのであるなら、決議もそれからの歩みも平安と希望を伴うものです。ですから律法的な行動にはなり得ないのです。このユダとシラスの派遣が意味するところは、もちろん「異邦人クリスチャン兄弟たちへ」と宛名があるのですが、もう一つの理由として、アンテオケで混乱を招いたユダヤ人たちに対してもその証しのためとも言えるでしょう。なぜならエルサレムに来る前には、アンテオケの教会では紛糾し結論が出なかったのです。いわばどちらも正しさを主張し譲らず、それは険悪な関係でもあったことでしょう。そこにバルナバとパウロだけ帰ったとしても、2人がエルサレムの会議でこう決まりましたと言っても信じない場合が大いにありえます。そこでアンテオケにやってきたユダヤ人クリスチャンたちは、ユダヤからやってきた人々ですから、この22節にあるとおり、ユダヤの教会の指導者でもあった2人を会議の第三者的な証人として遣わし、23節以下にあるように手紙をもって議決されたことを証しさせるためであったと言えるでしょう。
B,「全てを見据えて」
 そしてもう一つ言えることとして、そこには人の思いや計画を超えたイエスの背後の導きもしっかりとあります。この15章の最後ではバルナバとパウロは新たなる宣教旅行を前にして、マルコの扱いにおいて意見が合わず袂を分かつことになりますが、しかし新しい宣教旅行で宣教の新しいパートナーとして同行するのがこのシラスです。パウロやバルナバといえども彼らは決して聖人でも完全でもなく、人間であり、罪人であり、弱さや足りなさもありました。反目することもあるわけです。しかしそのようなことから生ずる様々な問題を主イエスは全て見越しており、そのことも受け入れつつ、そして新しい必要も覚え、満たし、その働きが進められていくのだという恵みの一端もここには確認することができると思います。

3.「異邦人の兄弟たちへ〜救いの確信を失い動揺したものへ」
 いずれにしましても、ユダとシラスは23節から28節までにある内容を伝えるのです。その内容はまさに今まで見てきたことそのままですが、書き送ったことが「ヤコブの提案」だけではないことがわかると思います。その最大の目的と理由は、まずそこには「異邦人の兄弟たちへ」ときちんと書かれており、そして教会が意図していない人々が指示も意図もしていない教えを伝え、「動揺させ、心を乱したこと」を認め、そしてそれに対する対処として、ユダとシラスを選んだと記されています。そして大事なことは、パウロとバルナバを「愛するバルナバとパウロ」「2人は主イエス・キリストの御名のためにいのちを投げ出した」という再推薦であり再承認です。これはまさにアンテオケ教会で異なる教えを伝えたユダヤ人たちに対しても、エルサレム教会が、バルナバとパウロの教えるところを支持することを意味しています。それをバルナバとパウロ自身ではなく、ユダとシラスという指導者に手紙を読ませることに意味があるというのがわかるのではないでしょうか。そしてそれに加えて、ヤコブの提案もきちんと含まれて伝えられているのです。
 アンテオケの異邦人クリスチャンたちは、初めは救われた喜びに生きていたことでしょう。しかし、そこに突然やってきたユダヤ人たちの「割礼を受けなければ救われない」という教えは、彼らの救いの確信を失わせうるような脅威でもあり、「動揺させ、心を乱し」不安と悲しみをもたらしたことは間違いありません。バルナバやパウロ、アンテオケ教会の指導者たちは間違った教えに対して戦ってはくれましたが、論争に結論が出ないほど、ユダヤ人クリスチャンたちの教えというのは強力であったことでしょう。しかしエルサレム教会はこの手紙を「教会へ」ではなく、「異邦人の兄弟たちへ」と宛先を非常に特定しており、しかも「動揺させ、心を乱した」と認めていることに、手紙が異邦人クリスチャンたちの慰めを目的としていることがわかります。そして、その「慰め」のために、教会は、バルナバとパウロを推薦していることには、そのようなユダヤ人クリスチャンたちの間違った教えに聞くのではなく、「このバルナバとパウロの教えることに聞きなさい」というメッセージであることがわかるのです。それは「バルナバとパウロが伝えるとおり、異邦人であってもユダヤ人であっても「モーセの律法を行うこと」によって救われるのでも、割礼によって救われるのでも決してありません。あなた方はただ恵みのゆえに信仰によって救われたのです。イエス・キリストご自身が来られ、約束の通りに新しい幕屋を立て直してくださり、イエスが信仰を与え洗礼に与らせ、イエスが救いを与えてくださったのです。だから安心してください。それが教会に与えられている福音であり、「福音にこそ聞きなさい」という福音と希望の証しがこの手紙には込められていると伝わるのです。

4.「励ましによって喜んだ〜安心と喜びはどこから」
 そして、その手紙はそれを読んだ人々にですが、
「それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。」31節
 みなさん、ここには大事な真理のメッセージがあります。救いの確信が揺らぎ、動揺し、心騒いでいたアンテオケの異邦人クリスチャンたちです。その救いの確信の揺らぎ、動揺、心の騒めきは、どこからきましたか?みなさん、15章のはじめにありましたね。はっきりと答えはわかります。それは律法による救いという間違った教えから生じたものでしょう。ユダヤ人クリスチャンたちが主張した律法の行いによる救いという強力な主張が、恵みのゆえにイエスが救ってくれたと安心し喜んでいた異邦人クリスチャンたちに動揺を与え、心騒がせ、救いの確信を揺らがせました。律法も、そして、私たちが一生懸命、律法を動機として、つまり脅しや強制を動機として、律法の行いに励むことによっても、それは決してクリスチャンの心に救いの確信を与えることができないということです。与えることができないどころか、それは福音による確信と平安さえ、奪ってしまい、動揺と心の騒めきさえもたらします。みなさんもちろん律法は聖なる神の言葉です。しかしその聖なる神の御心を、イスラエルの父祖たちでさえも、使徒たちでさえも負い切れないくびきであったからこそ、つまり律法を前にしては、神の聖さを前にしては、人は誰でも罪人でしかない事実を突きつけられ刺し通されるのみ、だからこそ、みなさん、神は御子イエスを世に与えたではありませんか。イエスは私たちが神の前に、律法の前に、どこまでも罪人だからこそ、いやその罪人ということさえもわからないし、認めないし、認めてもすぐに忘れ自分は正しいとするものだからこそ、この罪の世に、飼い葉桶に、罪深い私たちの間に、罪人の食卓に来られ、ともに交わり、語りかえけ、教えてくださったでしょう。そして、私たちがどこまでも神の律法の前に罪があるからこそ、イエスは十字架の上で死なれたのではありませんか。その十字架によってこそ、私たちは初めて、罪の悔い改めとイエスが罪を赦してくださっていることに平安を得ます。つまり十字架のイエスが「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」と聖書から宣言してくださることに本当に安心して行くことができます。それが私たちの新しいいのちの道であり、イエスの十字架こそ源、泉、喜び、平安であり、新しいいのちと喜びと平安の証しを湧き上がらせる力です。
 律法や律法の行いは、それを与えることができません。行いをすることによって安心はあるかもしれません。しかしそれは一時の安心にすぎませんし、あまり良い言い方ではありませんが、いわゆる自己満足です。行なっていることによって安心したり、行いによる平安、あるいはその行いによって期待通りに上手くいった時の平安は、確かにあってもそれは律法による一時の平安で、必ず飢え渇きます。上手く行かなかった時に、「それでも主へ」の「信仰」ではなく、「隣人へ」「裁きの言葉の剣」を向けるようになるでしょう。としてそして結局、そこには救いの確信はなく、結局、戻ってくるのは、動揺と心の騒めきでしかありません。それでも律法によって救いがあり、律法の行いに道と解決がある、半分でも数パーセントでも必要だ、というなら、それはイエスが来られたことも、十字架も無駄にすることであり、まさに神を試みることです。

5.「何よって救われ、何よって新しく生きるのか?」
 みなさん。みなさんは、十字架の福音によって救われたのではありませんか?十字架の福音と復活によって生きるものではありませんか?イエスの福音こそが、本当の喜びと平安を与えるのではありませんか?平安がないなら、喜びがないなら、誰でも疲れて重荷を負っているなら、イエスも、使徒たちも、私たちに指し示す先は同じです。それは飼い葉桶に生まれ、十字架にかかって死なれよみがえられたイエス・キリストであり、そのいのちのことばである福音です。アンテオケの異邦人クリスチャンたちを、動揺、心の騒めき、救いの確信の無さから、喜びに変え励ますことができたのは、律法でも人の行いや力でもありません。そのイエスの福音であったのです。32節に、一緒にやってきたユダもシラスも「多くの言葉を持って兄弟たちを励まし力づけた」ともあります。しかしそこに「ユダもシラスも預言者であったので」とあえて書かれてあるでしょう。預言者というのは、イエスから預かったみ言葉を伝えるものですから、聖書の説教者のことを意味しています。つまりその励まし力を与えた言葉というのは、彼ら自身の人間的な言葉ではないということです。そのようにユダとシラスの2人は、聖書のみ言葉を通して、励まし、力付けたということを32節は伝えているのです。ですから35節でも、パウロとバルナバは「主のみことばを教え、宣べ伝えた」とあるのです。聖書のみことばからイエスの救いを教え恵みの福音を宣言したのです。もちろん人の言葉も励ますこと力づけることはできるでしょう。しかしそれは不完全なものであり、それはイエスが与えると言われた救いと平安を与えることは決してできません。イエスの言葉、福音だけが私たちの心に救いの確信と喜び、希望と平安を与えるものです。福音こそ、私たちの新しいいのちを湧き上がらせる泉であり、全ての日々新しい歩みの泉です。そのイエスが与える水を飲むものこそ、決して飢え乾くことなくいのちの泉の水が湧き出てくるのです。