2019年2月24日


「福音によって導かれる教会」
使徒の働き 15章12〜21節

1.「前回からの議論」
 15章ではアンテオケの教会に起こった一つの問題について見ました。ユダヤからの人々が教会の兄弟たちに対して「モーセの慣習に従って割礼を受けなければあなた方は救われない」と教え始めたのでした。それは教会を非常に混乱させ議論も紛糾します。そこでアンテオケ教会はパウロとバルナバなど数人をエルサレム教会に派遣しこの問題を話し合ってもらうことにしたのでした。エルサレムでパウロとバルナバは、アンテオケ教会自体が経験し2人が宣教旅行で経験した、神が異邦人にもイエス・キリストの信仰を与え洗礼と聖霊を与えてくださったという恵みを語りました。救いは割礼や律法の行いに関係なく、ただ神の恵みによって福音を通して異邦人にも及び、福音によって異邦人にも新しい命と自由が与えられたのだと。しかしエルサレムでもパリサイ派からクリスチャンになった兄弟達は、異邦人たちにもモーセの律法を守らせ律法に従って生きる生活を「命令すべき」であると言います。彼らはあくまでも律法の行いによって救われ、律法を行って行くことに聖なる生活があるという考え方と同時に、「命令すべき」と「キリストの自由」によってではなく律法的に従わせることを主張したのでした。この両者は激しい議論をしますがペテロが立ち上がっていうのです。それは自分が経験した、コルネリオの回心にあった神の導きの恵みでした。つまりコルネリオの洗礼はペテロの思いや願望や思いつきではなく、むしろ彼が知らない中で主イエスはペテロとコルネリオ両者にみ言葉を通して働いて導いてくださったからこそ、異邦人コルネリオは信仰と洗礼を与えられ救われたのだ。それはどこまでも恵みなのだというのです。「それなのに」とペテロはユダヤ人たちに「ユダヤの偉大な父祖たちでさえも追いきれなかったくびき、律法であったのに、それを異邦人の救いや聖化のためのくびきとして負わせるのか。父祖たちでさえも律法によって救われなかったのに、なぜあなた方は律法による救いや行い、聖い生活を人々に強いるのか?それは神を試みることではないか?」と言い。そして私たちは主イエスの恵みによって救われたことを信じるものであり、異邦人も変わらずそうであるのだと言います。パウロもペテロも一貫していました。救いは律法によらない。イエス・キリストの恵み、福音によるのだと。そしてその新しい生き方、聖い生活もそれは律法を自分たちの力で果たして行くように強いることや、応答を強いることにあるのではない、どこまでも恵みにより福音から始まることなのだということでした。

2.「福音の事実への沈黙、そして耳を傾ける」
 そのような律法を福音に変えてしまい、行為義認と強制による力や脅しでキリストの自由を奪う間違った教えというのは、この時代からすでに教会に入ってきては混乱させ、それはずっと続いていきます。しかしパウロもペテロもそれに対してはどこまでも主イエスがしてくださったこと、つまり福音によって対抗してきたことがわかるのです。
「すると、全会衆は沈黙してしまった。そしてバルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けていた」12節
A,「くびきを追いきれなかった父祖と神の恵み」
 ペテロの言葉に全会衆が沈黙します。それはペテロの言葉は反論できない紛れも無い事実であったからでした。伝統あるイスラエルの歴史です。アブラハムから始まりモーセの時代を経て、ダビデとソロモンによる黄金の繁栄の時代がありました。モーセが受けた神からの律法は確かに聖なるものであり神のみ心です。しかしそれはアブラハム、イサク、ヤコブに現れされた恵みによる選びと救いの出来事を無にするものではなく、むしろその神の恵み忘れ罪を犯す民に対する戒めであり、それは神の前に圧倒的な罪人であることを教えるものでした。事実アブラハムもイサクもヤコブも、神の前に完全に律法を行う者であったのではなく、彼らは罪を犯す不完全で弱いものでありながらも、しかし何より神の恵みと憐れみによって助けられ赦され守られ導かれてきたでしょう。「祝福」は彼らが律法を行ったからではなく、神のみ言葉の約束のゆえであり、どこまでも神の恵みであったでしょう。それは口下手で召命を繰り返し拒み「自分ではなく他の者を遣わしてください」とまで言って神の恵みを突き放したモーセでさえもそうであり、罪深い王であったダビデは、ただただ神の前に罪を知らされ刺し通されることが何度もあり、そのような罪深いものの罪を示し、それでも憐れんでくださる神に「赦してください」とすがり、砕かれ悔い改めたからこそ彼の信仰は証しとなっているでしょう。
B,「父祖も追えなかったくびきを追わせるとは」
 ペテロの言うように「律法のくびき」は誰も追いきれなかったのです。誰も果たせなかったのです。旧約の記録が父祖たちを通して示すことは、律法の行い第一ではなく、神の恵み以外の何物でもありませんでした。むしろ逆に「律法によって救われる」「律法を行うことによって神の義を実現できる」と言う間違った考え方は、人間の側の社会や組織や伝統を保持したり、神殿や祭事を安定し保持し行っていくためには大変有用でした。律法や命令の方が人を律しやすいし人をコンロールしやすいです。社会や組織、伝統にとってはです。しかしそれによって神の恵みは犠牲になるのです。父祖たちでさえも追いきれない、つまり誰も追いきれなくびきを「人に負わせる」と言うのですから、それは律法に忠実で、従い従わせているようで、実は神そっちのけの人中心の論理が支配しているでしょう。神の側は「神の恵みこそ100パーセントである」ことを教えるのに、人が「追いきれないくびきを追え」と言うのですから、それはもう恵みや神による救いや、イエスが与えてくださった強いられない真の自由な服従ではなく、行為義認であり人の力による義です。しかしそれは確かに「神を試みようとする」ことなのです。その神の恵みの事実は聖書が伝え約束することですから、福音の宣言は圧倒的な救いの真理です。
C,「福音の前に沈黙し、耳を傾けたパリサイ派クリスチャンにある幸い」
 ですから「ただイエス・キリストの十字架によって恵みのゆえに救われた」と言う信仰が真にあるのであるなら、その宣言を前にして律法主義は沈黙せざるをえないのです。ですからパリサイ派出身のクリスチャンたちが「沈黙した」と言うことは幸いなことです。それは律法の行いは、自分もくびきを追いきれない事実と、イエス・キリストによる救い、恵みの福音によってこそ自分も救われたと言う事実こそを彼らも改めて気づかされたからです。なぜなら沈黙に際して、ここでパウロとバルナバが沈黙せず、なおもイエスが異邦人にしてくださった神の恵みを語り続けるそのメッセージに彼らは「耳を傾けた」とあるからです。律法や行い、組織の伝統や文化のしがらみに縛られ固執したりそちらの方が心地よいという人は、いくら福音や恵みを語っても「律法の方がいい、行いのほうがいい、強いる方がいいと」耳を傾けないものです。しかし激しく議論をしていた彼らはパウロやバルナバやペテロの語る福音に大事なことを気づかされたからこそ、沈黙し耳を傾けたことを意味しています。このように間違った教えや激しい議論があっても、そこには聖霊の働きがありイエスがおられ、何より福音を通して正しい道へと導かれていることが教えられます。イエスは言われます。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
ヨハネ14:6
「しかし助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方すべてのことを教え、また、わたしがあなた方に話したことの全てを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26
 間違った教え、激しい議論は絶えず起こりますが、イエスは福音と聖霊を通してこそ、正しい道と真理へと導かれますし、福音だけが正しい道へ導くのです。

3.「ヤコブのみ言葉による弁明」
 パウロとバルナバの後にヤコブが語り出します。このヤコブは、すでに殉教している使徒のヤコブではなく、マリヤの子でありイエスの実弟のヤコブであり、エルサレム教会の牧師であり「ヤコブの手紙」を記した人物です。ヤコブは言います。
「神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名を持って呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明した通りです。」14節
 「シメオン」というのは、シモン・ペテロのユダヤ名のことで、ペテロをさしますが、ヤコブは、このようにペテロが説明したこと、神が異邦人を顧みて、信仰と洗礼を与え救いに入れてくださった、つまり神の恵みによって異邦人も救われていることを全面的に支持します。そして彼はただ支持するだけではありません。彼はその支持の根拠として、預言の約束のみ言葉はこう言っているではないかとアモス書9章11〜12節の言葉を取り上げて言います
「この後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち廃墟と化した幕屋を立て直し、それを元どおりにする。それは残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主がこう言われる」16節以下
 ヤコブはまずこの言葉を、イエスご自身の言葉として理解しています。「わたしは帰ってきて」はまさにイエス・キリストのことを指しています。そのイエスが来られたのは、倒れた幕屋、廃墟と化した幕屋を立て直し元どおりにするためであると。しかしその廃墟の幕屋を「元どおりにする」を、彼は決して「律法の家として回復する」ことを意味はしていません。なぜなら彼はペテロの言葉に全く同意しているからです。ペテロの言った「私たちが恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」こそ「倒れた幕屋、廃墟と化した幕屋を建て直す」の示すことであると示し、そしてヤコブは、それは「わたしは帰ってきて」とイエスが来られて行われることを示していますから、その私たちが恵みによって救われることも、信じることも、そして異邦人の救いという、倒れた幕屋の回復も、それらは全て帰ってきたイエスの目的であり、イエスがすると約束されたことだと彼は示していることがわかるのです。ちなみにアモス書9章の12節の終わりには「これをなさる主の御告」という言葉も入っています。「これをなさる主」と。このようにヤコブもみ言葉を引用してイエス・キリストを指し示し、そのイエス・キリストが、信仰も救いも、異邦人の救いも全てを成し遂げるのだ。それは倒れた幕屋、廃墟と化した幕屋の回復なのだと示すのでした。ヤコブはヤコブ書が有名で、確かに行いの伴う信仰の大切さを教えています。しかしそれは決して行為義認の肯定や、神人協力説、いわゆるシナジズムの肯定もしませんし意味していません。つまり救いのため、聖化のために、恵みと行い半分づつ、つまり恵み半分で行い、努力も半分必要だということを言っているのではありませんし、決して、私たちの応答を律法化しているわけでもありません。彼は土台にはしっかりとイエス・キリストの恵み、そのイエスの福音による救いと幕屋の回復を信じていたしそれが彼の根拠であったことが教えられます。事実、ヤコブ書を見ると、行いの大事さと同時に、手紙全体に、その行いの教えの前後に織り込まれている神の恵みの教えを見ることができます。どこまでも良い木が良い実を結ぶのであり、その逆の実、行いによって義を判断するのではないということであり、恵みと福音こそが必然的に良い実、良い行いを生むという大原則は他の弟子たちと何ら変わらないと言えるでしょう。むしろヤコブは偽りの良い行い、律法的な良い行いではなく、真の良い行い、それは自由な偽善のない良い行いのことを言っているわけですから、ヤコブの手紙はある意味、その良い行いがどこからきているかを問いかけ、動機が律法により強いられて強制の応答か、それとも恵みから出ている自由な真の応答かを、逆に暗に問いかけているとも言えるでしょう。ヤコブも他の弟子と何ら変わらず、イエス・キリストの100パーセントの恵みからどこまでも出発していたことがここからわかります。そして言います。19節

4.「ヤコブの判断」
「そこで私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」
 と。異邦人も神の前に、教会に受け入れられており、それは律法の何ら条件によらない。だから律法によって「悩ませてはいけない。」それは、律法によって彼らにくびきを追わせてはいけない。そのように結論を述べるのでした。しかし最後に実際的に起こりうる危険をも知ってもらう意味で20、21節のことも伝えてます。エルサレムのこの議論にいたパリサイ派出身のクリスチャンたちは、話し合われたことをよくわかったことでしょう。しかしパウロの一回目の宣教旅行を見てきてわかる通り、アジヤにも、ギリシャや地中海地域にもユダヤ人は散らばっており、ユダヤ人の会堂がありクリスチャンたちはそこで礼拝もします。そこではまだモーセの律法で教えられる人々も沢山いますから、モーセの律法では決してしてはいけないことをしてしまうことは、結局、争いや混乱や迫害を巻き起こしてしまうことがあるのです。真理は変わらなくても、人の信じることは皆違うわけですから、別の信仰を持っている人にとって、クリスチャンの行動が自由な行いであっても、正しいと思っている行動や言葉であっても、つまずきになったりすることはあることをヤコブはわかっているのです。それゆえの、つまりそれは異邦人クリスチャンたちを守るための助言であったとも言えるのでした。このことは会議に出席したバルナバとパウロ、ペテロや他の使徒たちの一致するところになり他のクリスチャンたちへ伝えられることになるのでした。

5.「終わりに」
 このように教会への迫害や混乱は、決して外側からだけではありません。むしろ内側から起こります。特に律法主義など間違った教えによる混乱は、サタンの巧妙な惑わしとしてこの時代から既にあり今も絶えることがありません。しかしこのようにイエス・キリストとその福音、そのみ言葉の約束こそ道であり真理でありいのちなのですから、イエス・キリストとその福音にこそ、そのような内側から起こる間違った教えに対して唯一力ある武器となり光となるものであることをこのところは教えられます。それでも問題は起こります。しかし私たちが律法ではなく常にイエス・キリストとそのみ言葉、福音にしっかりと聞き、教えられ立ち返ることによってこそ真の平安が与えられるのであり、その平安と自由に歩んで行くときにこそ私たちは何があっても、時が良くても悪くても、何も心配はないと言えるでしょう。