2018年12月30日


「生ける神に立ち返るために」
使徒の働き 14章8〜18節

1.「足の効かない人」
 宣教の途にあるバルナバとパウロ。14章では今のトルコ共和国の内陸部を旅する二人の記録から始まっています。イコニオムからルステラという街にきたときの出来事です。
「ルステラでのことであるが、ある足の効かない人が座っていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。」8節
 ルステラはイコニオムから南の海側へ少し向かったところにあります。バルナバとパウロは向かう町々で必ず先ずはユダヤ人の会堂に入って説教をしましたので、このルステラでもそうであったと言えるでしょう。そこには「ある足の聞かない人が座わっていた」とあります。彼は生まれながらにして足の不自由な人で歩いたこともありませんでした。パウロが会堂で話すときに、その足の不自由な彼も会堂に座っていたのでした。決して障害者が手厚く保護されているような時代ではなく、むしろ差別のあるような時代です。彼の生い立ちやそのときの境遇は今の私たちには推し量れない深いものがあるでしょう。彼はその体の不自由さもさることながら、霊的な飢え渇きにおいて求めるものがあったのでしょう。そこにバルナバとパウロが来るとも知れず、彼は教師の語る神のみ言葉を聞くためにそこに座っていたと思われるのです。しかしこう続いています。

2.「癒される信仰とは」
「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、癒される信仰があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって歩きだした。」9節
 ここに「パウロは彼に目を留め、癒される信仰があるのを見て」とあります。まずこの「癒される信仰」はどこから来たのでしょうか。その信仰はその人が何もしなくてももともと備わっていたものなのでしょうか?あるいは、彼の何か努力の産物として、つまり「行いとしての信仰」のことを言っているのでしょうか?そうではないことがこのところにははっきりとしています。「この人はパウロの話すことに耳を傾けていた」とあるからです。この人の信仰は、みことばの説教によって与えられ養われたものであることを示しているからです。彼はその会堂に座っていました。彼は会堂でこれまでもみことばの説教を聞いて来たことを示唆しています。そのように彼は、会堂での安息日の礼拝に集い、その場に座ることによって、何よりみ言葉を聞いて来たのでした。そしてそのみことばの説教こそ、彼に信仰を生み、与え、そしてずっと少しずつ養って来た、そのような「信仰」のことを、このところは意味しているのです。彼はその日、パウロの説教からみことばを聞きている中で、聖書の神に一つの希望が与えられました。神は癒す力がある、神が癒して下さる、そう信じる信仰が与えられたことを、このところは意味しているのです。このように、「信じる」ということは人のわざ、私たちの行い、努力、意志の力では決してありません。パウロがローマ10章17節でいうように、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とある通りなのです。信仰はイエスが、そのみことば、福音の言葉を通して、聖霊によって与えてくださった賜物、贈り物です。それは私たちの側では私たちが自分の行いで信じているように見え、そして小さく見えるものです。いや私たちから見るなら、信じるなんてむしろできないことです。しかし私たちの目から小さく見えるものでも、私たちには本来できない「信じる」という信仰が私たちにあること自体がそれは奇跡であり、聖霊が働き、みことばが確実に働いているしるしなのです。その働きは、私たちの目から見るなら、「もう信じられない」という時が何度もあるように、非常に小さ弱く見える事かも知れません。そういうことは私でも良くあります。誰でもあるのです。しかしイエスにあっては、不十分なものを与えたとは決して思っていません。あるいはそれが小さな種を与えたのだから、後はあなたが水をやり成長させなさいとも言いません。イエスが養い成長させるのが信仰の賜物、そして聖霊がそのために助けるからこそ「助け主」と呼ばれる所以なのです。「助け主」の「助け」とはもちろん状況の助けもありますが、何よりも私たちの側では弱く無力な信仰を強め励まし成長させ、芽吹かせ、実らせる「助け」のことを意味しています。その助けは他でもないイエスの「みことば」、何より福音の言葉を通してこそ強められていくのです。ですから信仰はどこまでも恵みです。「信仰に始まり信仰に進ませる」は、それは人の業ではなくヨハネ1章にある「恵みの上にさらに恵みを受けた」と同じです。信仰を律法にすると平安がなくなります。信仰は福音によって生まれる新しい創造です。しかもそれは日々、毎週、みことばによって新しくされていくものなのです。それは感謝な恵みなのです。

3.「信仰が癒すとは?」
 パウロは、その彼にその信仰が養われているのを見ました。それを知ったのも、もちろん肉の目で何か物質的なものを見たのではなく、聖霊によって彼は知ってパウロはいうのです。そして大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言ったときに、彼は飛び上がって歩きだしたのでした。彼は癒されたのでした。しかしそれはパウロにその力があったのではもちろんありません。「癒される信仰」とあるように、信仰においてこそイエスが働かれて癒されたということです。しかしその信仰も人のわざ、彼のわざ、行いではなく神の賜物なので、「信仰が癒した」という時も、それはその人にわずかでも何かがあったから癒されたということを意味しません。イエスがご自身のその御心にしたがってその信仰を与え、イエスが癒したということなのです。よく癒されないのは信仰が足りないから、状況が改善されないのは信仰が足りないからと誤解されます。それだと救いも信仰も信仰生活も結局は恵みでも何度でもなくなり、人のわざ、力、どれだけするか、できるかにかかってしまいます。それで治らない、状況が変わらないのは、自分の信仰が足りないからだと失望するのです。しかしそうではない。私達自身の力では、信仰はもともと弱い、いや信じることさえ出来ないものです。しかし与えてくださったのが神であれば、それを強めるのも、そして何よりイエスがその御心に従ってすべてのことに働いて益とするのもそれは自分ではなくイエスです。ですから、「何か自分の力で信仰を強めようとすること」ではなく、むしろ私たちはいつでも自分の行いの無力さ、罪深さに悔い改めさせられることばかりですが、それこそが新しい命の全ての始まりなのです。私たちは無力さ、罪深さを覚えさせられることばかりではないでしょうか?しかしそれはただ失望に終わるマイナスの出来事ではなく、むしろ無力でできないからこそ、罪深いからこそ、私たちは救い主であるイエスに「赦してください」「強めてください、力を与えてください」と求め祈ることができるでしょう。それこそが新しい命の幸い、私たちの幸いであり、導きなのです。そしてそこでイエスが必ず御心をなしてくださり、癒されたとしてもそうでなくても、どんな結果であっても、その御心のうちに私たちはあって、全ては益とされると待ち望むことができるからこそ、私たちは平安と希望に満たされて行くのです。信仰はそのようなもの。イエスの賜物です。どうなっても、イエスの御心がそこにあるのですから、イエスこそ希望であるとぜひ祈って行きましょう。

4.「神として崇められる」
 そのようなイエスが働いている恵みの出来事があっても、みことばによらない人間の反応はどこまでも罪深いものであり、別の意味で使徒たちも苦難に立たされることがs書かれています。その苦難の形は、迫害とはむしろ逆の形でもバルナバとパウロに降りかかります。
「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で「神々が人間に姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロが主に話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えてきて、群衆と一緒に、いけにえを捧げようとした。」
 パウロの発した言葉によって、足の効かない人が立ち上がった出来事は、確かに目に見えないイエスによる癒しではあっても、多くの人は、パウロが行った奇跡であると見ました。そしてそれはまさにありえない、超自然的な出来事であるがゆえに、人々は、バルナバとパウロは、神々が人間の姿をとってやってきたのだと大騒ぎし始めるのです。ルカオニヤ語というのは、地中海のクレテ島出身の移民の言語であり、ギリシャ文化の影響を受けている人々でした。ですからゼウスとかヘルメスという神々を信仰する人々でした。二人はその神々として祭り上げられようとしているののです。どの民族、どこに国でも、人々が、優れた並外れた能力の人々を、神とまでいかなくとも神であるかのように祭り上げ、崇拝するということは自然なことかもしれません。この状況、確かに迫害ではありません。人々には信仰心があリ彼らに肯定的です。ですから、このように否定的な反応ではないからと「よし」として、むしろこの「神として祭り上げれる」状況を通じて、少しづつ本当の神を伝えばいいのではと、合理的な考え方をいう人もいるかもしれません。つまりこれは入り口や過程はどうであっても結局は、神という存在に至ればといいという考え方ですが、それは宣教の合理的な方法としてキリスト教ではよく言われる考え方です。
 けれども聖書に指し示されている救い主キリストは、クリスマスで見てきたように、また十字架にも明らかに常に逆説的です。人間が期待する豊かさ、華やかさ、成功や繁栄、劇的な革命や、誰もが目を奪われるような奇跡的なしるしにイエスが来たのではありませんでした。イエスが来られたのは卑しいマリヤであり、マリヤの苦しみを通してであり、家畜小屋の飼い葉桶の上でした。勝利の革命でローマ皇帝になったのではなく、ローマ最悪の極刑、罪がないのに重罪人の十字架の上にこそ、神は救い主を現されました。ですから華やかな奇跡のしるしにおいて神に近づこうとしたものは、まことの神、キリストに出会うことは不可能です。ですから、たとえ入口がどのような入口、このように間違った神として宣教者が祭り上げられるような入口から入ったとしても、飼い葉桶と十字架のキリストを入り口として、信仰に導かれるのでなれば、どこまでも出口も入口と同じなのです。目に見えるしるしを求める、しるしによって神を祭り上げようとするものは、どこまでも目に見えるしるしによる信仰に終わるものなのです。事実、イエスのお話でも、ヨハネ6章にありますが、ただパンを食べて満腹したのでイエスについてきたものは、イエスが見えないいのちのパンであるご自身を食しなさいと話した時に、見事に躓きました。

5.「同じ人間です」
 そのことをわかっているからこそ、バルナバとパウロは、そのような方法を良しとしません。自分たちが迫害を受けているわけではないからと、神のように祭り上げられ、信頼を得てから本当の福音をという宣教の方法をとりませんでした。むしろ二人は、まことの神を知り信じている者として、自分たちが神とされていることを明確に拒みます。
「これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を引き裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも同じ人間です。そしてあなた方はこのような虚しいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお作りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」14節
 「衣を引き裂いて」。そこには二人に憤りがあります。しかしそれは彼らのまことの神を信じて欲しいという熱意が溢れています。ゼウスもヘルメスも、いや、バルナバとパウロ自身も彼らを決して救うことができません。いやそれどころかゼウスもヘルメスも存在しないし、バルナバとパウロも死に朽ちゆく、他の人と何ら変わらない同じ人間。そこに救いはあり得ないのです。しかしバルナバとパウロは存在しない神、力のない神、死に朽ちゆく存在ではなく、天地万物を創造した、無から有を、無から命を、死から新しいいのちを創造され、今もキリストにある新しいいのちを創造されるまことの神を知っている、それを伝えたい、それこそが自分たちが伝えたい救いなんだと、彼らにハッキリと示すのです。皆さん、これはある意味、勇気のいることです。なぜなら神とされたものが神ではないとなった時の、人間の反動こそ恐ろしいからです。事実、この後そのようになって行きます。同じようにイエスにただパンを期待し、政治的な意味での神の国を待ち望んでいた人々は、イエスの逮捕でつまづき、結局は、十字架刑の支持者にさえなっていきました。人間は自分の期待に沿わない信仰の対象や信頼の対象に対しては、実に攻撃的になり、排除しようとするものです。それぐらい、人間に備わっている罪深い信心は、神を崇拝しているようで、実は独りよがりで、自分中心で、何より自分が神である信仰だと言えるでしょう。しかしバルナバ、パウロは、自分は神ではない、同じ人間である、そしてまことの神がいる。その方こそ自分たちは指し示すのだ。とハッキリと示すのです。なぜならそこにこそ救いがあり、そのキリストを通してでなければ、まことの神、救いの恵みに至らないからなのです。

6.「飼い葉桶と十字架のイエスこそ」
 二人の宣教、福音の宣教、それは世の調子に合わせ、万人受けすることを目指してはいませんでした。二人の宣教、福音宣教はまさに狭き門です。飼い葉桶と十字架のイエスは、世にとっては理解できません。世から見る貧しさや敗北である飼い葉桶と十字架に神なんかいるはずがないと人々は思うからです。しかしその世には理解できない、飼い葉桶と十字架のイエス、世から見れば貧しさの飼い葉桶と敗北の十字架のイエスを指し示していくことこそ福音の宣教だと言えるでしょう。しかしそれは無力ではありません。なぜならそれがなされることこそ神の神秘であり、みことばの力、聖霊の働きであるからです。私たち自身にはなんの力もありません。しかし力はキリストのみ言葉と聖霊にこそあります。そのみことばには力がある、聖霊が働いて全てを益とする、そう信じることこそ全ての始まりです。そしてそこには人間の思いをはるかに超えた大いなる希望が溢れています。私たちは2018年も苦難の道ではあったでしょう。2019年もそうかもしれません。しかし私たちはどんな時でもキリストにあってこそ、苦難があっても希望と平安は尽きることがありません。私たちの力では立つことも歩くこともできなくとも、イエスのみことばと聖霊、その働きによって与えられる信仰によっては、私たちはイエスの力によって飛び上がって歩くことができるのです。それが私たちに与えられている信仰の素晴らしさ、恵みなのです。