2018年11月25日


「人々を信仰に入らせたものは」
使徒の働き 14章1〜7節

1.「はじめに」
 さてパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケというトルコの都市から、イコニオムという街へと移動します。
「イコニオムでも、二人は連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入った。」
 ピシデヤのアンテオケでは多くのユダヤ人が救われた中で、妬みにかられ反対するユダヤ人たちが多数、パウロとバルナバを罵りました。それに対してパウロは自分たちは「これから異邦人の方へ行く」と言ったのでした(13:46)。しかしそれは決してユダヤ人たちを見捨てて彼らに福音を伝えないということではないことがこのところからわかります。このように彼らはこのイコニオムでも、まずユダヤ人の会堂に入っていることが書かれています。そしてただ入っただけではなく、「話をすると」とありますが旧約聖書の言葉から説教をしたことになります。さらにいえば何を説教をしたでしょう。キリストの十字架と復活の福音を説教したのです。なぜそう言えるでしょう。なぜなら「ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入った」とあるからです。

2.「信仰は人の力?」
 まず「信仰に入った」の「信仰」ということについてです。信仰というと、他の宗教や一般的な考え方では、神や何らかの教えに対する「人間の側の」意思、決意、あるいは何らかの人間の側の行為と理解されるようです。しかしキリスト教において、つまり聖書が教える「救いのための「信仰」」というのは、そのような一般的な宗教が求めるような、人のわざや行いや努力で「信じる」ということではありません。キリスト教の信仰はどこまでも神からの賜物、神の恵みであると聖書は伝えています。聖書の中にこのようなパウロの言葉があります。
「あなた方は恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」エペソ2章8〜9節
 信仰によって救われる。しかしそれは「恵みにゆえ」「神からの賜物です」、さらには「行いによるのではありません。誰も誇ることがないためです」とパウロは説明しています。もし「信仰」ということが、私たちが頑張って「信じる」という私たちのわざ、力、行いになってしまうなら、それは結局は、神への信仰とはいっても、人は自分自身を誇ってしまうという性質をパウロはよく知っています。けれどもその素晴らしい救い、もし自分を救ってくれたのが一切、自分ではない誰かによるとするなら、自分を誇りようがありません。むしろ自分ではない誰かによって救われ助けられたのに、自分を誇っている人は恥ずかしいことだと私たちは思うはずです。助けてくれた救ってくれた人のおかげであるとその救った人を誇るし感謝します。イエスが与えてくださった救いはどこまでも恵み、信仰でさえも神からの賜物、それは誰も自分を誇る必要がないくらい、誇ることがないためというほどに全く神からのものなんだと言うことを聖書は伝えているのです。

3.「どのように与えらえる?」
 では、どのようにその「信仰」は神から与えられるでしょう。自分で頑張って得るものではない。じゃあ、どのようにして私たちのものとなるのでしょう。なぜ私たちには信仰があるのでしょう。信仰のない人にはどのようにして信仰がくるのでしょう?そのこともパウロははっきりと行っています。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17
「十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」第一コリント1:18
 信仰は聞くことから始まる。しかし何を聞くのでしょう。それは「キリストについてのみ言葉による」とあります。「キリストについての言葉」が聞くものに信仰をもたらすことを伝えています。その「キリストについてのみことば」とは「十字架の言葉」のことであり、その「十字架の言葉」こそ救いを受けるものに働く神の力であるとパウロは繰り返し伝えてきました。その「キリストのついての言葉」「十字架の言葉」こそ「福音」と呼ばれるものです。ですからユダヤ人もギリシャ人も、大勢「信仰に」入ったとあるこのところ。このところから示されることは、まず第一にパウロとバルナバは、ここで明らからに「福音を説教」をしたからこそ大勢の人々が信仰に入ったことを意味しています。つまりそこから言える第二のこはこのイコニオムで大勢の人に信仰が与えられ救われたのは、パウロとバルナバにその力があって二人がその力や説得で彼らに信仰を与え信じさせたのではなく、救いの力である「十字架の言葉」、福音がイコニオムでキリストについての言葉を聞くユダヤ人やギリシャ人の多くの人々に信仰を与え救ったということです。つまりそれはこのイコニオムでもキリストご自身が明らかに働いておられたということです。パウロはこのように言っています。
「そして、私の言葉と私の宣教とは、説得力のある知恵の言葉によって行われたものではなく。御霊と御力の現れでした。それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」第一コリント2章4?5節
 パウロは、自分の宣教、自分の語る福音、説教、それらは自分の力、自分の知恵や知識による説得力のある言葉ではないとはっきりと言っています。つまりそのように宣教で救われた人のその救いは、自分が知恵や知識で説得したからではない、教え込ませ信じ込ませ彼らを信じるようにさせたからではないと言うのです。それはどこまでも御霊と御力の現れだと言うのです。「現れ」と言う言葉も、「表現」「表す」と言う言葉ではなく、この「現実」「現存」「実現」の「現れ」とされていることも大事な意味があります。パウロが神の力を「表わした」と言うことになるとパウロの力です。しかしパウロは御霊、神の霊である聖霊、そして御力、神の力が「現れ」た、実現したんからこそなんだと言っています。そしてここでも「なぜなら」を書いています。

4.「信仰を支え保つのは?」
「それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」
 と。つまり信仰の支え、保ちの問題です。私たちの信仰が人間の知恵に支えられるのではなく神の力に支えられるためだと。みなさん、信仰をどのように支え保っていますか?何がみなさんの信仰を保ち支えているでしょうか?。みなさんの力ですか?努力ですか?信仰の支え、信仰の保持は、みなさんの肩、力、努力にかかっていますか?もしそうであるなら、みなさん自分で保てますか?できません。私もできません。しかし私たちは信仰を自分で支え保とうとしてしまうことがあるわけです。しかしそんな時に問題です。平安がありますか?喜びがありますか?自分の力や努力で保てているかのように見える自分と、保ててないかもしれない自分の狭間で必ず葛藤します。つまり保ててないのです。そして平安はありません。しかしイエスは「わたしはあなたにわたしの与える平安を与える。世が与える平安と違う平安を与える」と言っていますが、平安ではないと言うことはイエスの言っていることは嘘だと言うことでしょうか?そんなことはありません。それはイエスの側の問題ではなく、私たちの側の問題であると言えるでしょう。それは信仰を人のわざとするからの問題です。信仰を私たちの決心や意思、私たちの努力の一歩であるすれば、私たちの信仰の保持や支えも、私たちの決心、意思の力、努力の産物になってしまいます。そうなると自分の能力に救いも平安もかかってしまい、結局、平安はなくなるのです。救いに平安がないのは、救いや信仰を人のわざにしてしてしまったり、行いや自分がどれだけできているかで自分や人を測るからです。信仰はどこまでも恵みであり神の賜物です。それが人間の知恵ではなく、神の力、御霊と御力の現れであり、福音の言葉、十字架の言葉が生み出すもの、イエスご自身が私たちに与え生み出す新しい創造です。だからこそその信仰の保持も支えも、人間の知恵で支えるのではなく神の力によって支えられるのが大事なことであり適切なことなのです。車にせよ、飛行機にせよ、メンテナンスはプロがやるから安心して乗れますよ。素人や力のない人間が整備しメンテナンスした飛行に安心して乗れますか?乗れません。人間を創造しいのちを与えた真の人間の姿を知っている神とその言葉が、私たちを保ち支えるからこそ私たちは安心できるのです。聖書の教える信仰とその信仰の生き方はその平安な生き方を私たちに教え与えようとしているのです。福音を通して、イエス様の言葉、十字架の言葉を通してです。

5.「信じない意志」
「しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟達に対して悪意を抱かせた。」
 ここでは「信じる」に対して「信じようとしない」とあります。「信じる」は恵みであり、神の力の現れ、神の賜物だと言いましたが、では「信じようとしない」と言うのは、なんでしょう。それはそのような神の働きに対する拒否、「いらない」「必要ない」「受け入れがたい」です。それこそ人間の意志の力です。与えられなくても生まれながらに人に紛れもなくあるのはこの神を拒む力、恵みを拒む力です。神がなくても人間には自分を救う力があると信じたい、人間はそんなに悪くなく、神がなくても素晴らしい世界を作れる、そう信じたい。それはどこの国にもどの思想にも必ずあり、人間皆が持っていて信じたい「理性信仰」です。そのようにして共産主義思想も生まれましたが、しかし人間の理性の力の結果は明らかです。だからと言って資本主義や民主主義でさえも矛盾と恐ろしさを孕んでいるでしょう。しかしその根底は皆同じです。彼ら自身にある彼らが信じる信念や正義をそのような完全に達成できると言うおごり傲慢です。人には紛れもなく、自分信仰、人間完全信仰があるのです。それは奇しくも「神のようになれる」と言う誘惑の言葉によって禁断の木の実を食べるアダムとエバにかさなります。人は神になりたいし自分を神にするのです。事実、誰にでも自己中心性はあるわけです。当然、私自身も自己中心の性質があります。「信じようとしない」というのは、そのように神の賜物とは逆で、人の性質、厳密に言えば、堕落以後の人類の性質に他なりません。つまりその逆である「神を信じる、受け入れる」と言うことを人はしようとしないしできないのです。しかしだからこそ信仰は神の賜物としてでなければ持つことができないし、いま「信じないもの」ではなく、信仰を持って「信じている」私たちは神の賜物を経験していると言う恵みも気づかされるのです。信仰は恵みでありイエスが事実おられ、私たちに働いている紛れも無い証拠です。

6.「信仰と行いの問題:真の良い行いとは?」
 さて、そのように信じないものの様々な策略があります。しかし3節にこうあります。
「それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みの言葉の証明をされた。」
 信仰と行いの問題です。「信仰のみ」というときに「行いはどうでもいいのか」と言う議論が必ず出てきます。行いはどうでもいいなんてことはありません。ルターも決して行いを軽んじていないですし、軽んじるどころか強調しています。しかしルターは人間の力や理性から出る行いではなく、信仰から出る真の良い行いを強調しました。つまり見てきた通り、信仰は恵みであり神の賜物であると言う聖書の教えにそのまま従って、その行いは、律法や理性からではなく、その信仰から生まれる行いであるからこそ、罪からも自己中心からも「しなければいけない」と言う律法からも自由な本当の行いになるのだと教えたのです。つまり信仰が平安を生み、信仰生活がイエスが言うように平安であるなら、その信仰生活における行いも平安を伴うものだと言うことです。イエスは「福音にあって生きなさい」と言いましたし「わたしの平安を与える」と言いました。そしてパウロは福音が信仰を与え、信仰を支えるのも神の力だと言いました。しかしその生き方が、信仰には良い行いが伴わ「なければいけない」からと、良い行いを「しなければいけない」となると、それは福音から出ていません。律法から出ています。そして自分で信仰に伴っているかを判断しなけばならないので、信仰に適っているかいつまでもわからず不安です。つまり平安がなくなります。そして同じ秤で自分も人も見るので、その理想通りにならないと、自分を裁き、人を裁くようになります。ですから3節の言葉は大変意味があります。主が彼らの手に「行わせた」とあります。そしてそれによって御恵みの言葉を証明されたと。つまり行いは信仰の後についてくるものです。しかも神が行わせたと神がなさるわざとしてです。さらにはその神が行わせる行いは、神の恵みの証明となり神の言葉の証明となる。しかも人が証明するのではなく、神が証明すると言うことです。ここには信仰者の行いは律法ではなく、信仰から出る行い、福音を動機とする平安な真の良い行いであることが書かれているのです。事実、パウロはこう言っています。最初にエペソ2章8?9節をお読みしましたが、「恵みのゆえに信仰によって救われた」のその結論はこうです。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むようにと、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2章10節
 信仰には良い行いも備えられています。真の良い行いです。私たちが備えるのではありません。神が、新しい創造としての私たちに備えてくださっています。その信仰は福音から生まれます。福音こそ、新しい生き方、信仰の歩みを生み、支え、保ち、真の良い行いをさせ、宣教をさせる力であり、動機なのです。今日も福音によって新たにされ、福音によってここから出て行こうではありませんか。