2018年11月11日


「いつまでも神の恵みにとどまっているからこそ」
使徒の働き 13章44〜52節

1.「前回より」
 パウロの語る福音の説教を聞いて心動かされ二人について行こうとして人々に対してパウロとバルナバは、クリスチャンが信仰生活を歩んで行くために何よりも最も大切なこととして「いつまでも神の恵みにとどまっているように」と伝えたところを見てきました。そのように勧められた人々はその通りにし、二人にはついていかず家に戻り、今までと変わらない日常の生活の中でクリスチャンとしての召命に生き、何より「いつまでも神の恵みにとどまっているように」祈り求めつつ、彼らの新しい歩みを始めたことでしょう。その「いつまでも神の恵みにとどまる」ことは、信仰のゴールではなく、新しい生活のスタートであり、神の恵み、福音こそ日々の歩みの証しや良い行いや隣人愛の原動力となり動機となり、それは「せずにはいられない」泉のごとく溢れてくる力なんだと伝えましたが、そのように帰った人々は勧めの通り「いつまでも神の恵みにとどまる」ことによって、その素晴らしいイエス様の福音を伝えずにはいられないでしょうし、言葉で伝えるのでなくても、恵みにとどまっているその新しい生き方は、周りにの人に何らかの影響を及ぼします。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4章14節)のようにです。その一端が現れます。

2.「福音から溢れ出る泉」
「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神の言葉を聞きに集まってきた。」44節
 のでした。このように、恵みにとどまっていることによって「溢れ出てくる泉」が、周りの人々にも影響を与えたのです。ここに「キリストの証人」そして宣教や伝道の何よりの姿があると言えるでしょう。「キリストの証人」や、証し人としての生き方、宣教も伝道も、それは「そうでなければならない」「しなければならない」の「律法」では決してない。それは「神の恵みにとどまることに」始まり溢れ出させる「福音」であるのです。「わたしが与える水を飲むものは誰でも、決して渇くことがなく、?その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出」とイエスが言っているのですから。隣人のための永遠のいのちへの水は、確かに「私たちから」です。しかしそれは「あなた方自身が水源を見つけ穴を掘れ、それを汲み出し、絞り出せ」とはイエスは言いませんでした。「わたしが与える水を飲むもの」はと言われ、それは「溢れ出る」と言っています。「新しく生まれた私たち」から出るものは律法の力、私たち自身の力ではないどこまでもこの福音の力です。恵みに留まるからこそ始まる不思議な神の働きなのです。そのように喜びの証人として用いられましょう。

3.「恵みではなく人を見る人の弱点」
 さてイエスとその恵みを見、みことばに聞く人々とは正反対の人々が現れました。
「しかしこの群衆を見たユダヤ人達は妬みに燃えてパウロに反対して口汚く罵りった」45節
 彼らユダヤ人は非常に敬虔な人々です。律法を大事にし律法を一字一句まで守ることにこそ神の国があるかのように信じ、行い、そして、そこに敬虔さがあると信じる人々でした。しかしその弱点は何でしょうか?それはその救いや敬虔さの根拠がどれだけ自分の行いが律法にかなっているかでした。それは実は確信を持てません。私たちは100パーセント完全に律法、十戒を守りきっていると自信を持って断言できますか。誰もできません。「自分は全然かなっていない」という人の方が「十戒にかなっていない」ことをまだ自覚しやすいですが、むしろ下手に「守れている」と思う人の方が「かなっているかどうか」の自覚はさらに曖昧であるしむしろ過大評価します。自分はこれだけ守れているし、そんなに外れたことはしていないから、自分はいい人かもしれない。そんな悪人ではない。そういう人がほとんどでしょう。しかし律法をどれだけ守っているかは、どこまでも自分の行いが基準になるために、自分のことを自分で判断しなければならないので、正しさの基準は自分の外ではなく自分自身のうちにあり、自分にかかってしまいます。それは誰もわかりません。「そうではないか」と推測はできても確信を持つことができないのです。律法は決して確信を与えませんし、ですから平安も与えません。このように行いでは救いの平安に到達し得ないのです。それでも確信が欲しいからどうするかというと「人と比べて」になりますよ。有名なのルカ18章のパリサイ人の祈りです。彼は「他の人のように、そうでないことを感謝します。隣の取税人のようではないことを感謝します」と神の前に、他の人と比べての正しさの根拠を言って満足することしかできません。そしてそのように「人と比べての満足」ですから、彼らは律法に従っているようで、結局は、人がどうである、こうである」が全ての基準になってしまいます。このところのユダヤ人たちも、そのように律法に忠実な敬虔な人ではあったでしょう。しかし「人」です。「人が人にどうするか」に彼らは一喜一憂します。それまで自分たちの仲間であった人々が新しい教えに大勢行ってしまった。そのことに彼らは心動かされ動揺します。このところは「福音に心動かされた恵みにとどまる人々」と、「人々の動向や数の論理に心動かされ、自分を拠り所にしとどまる人々」との対照が見て取れます。そこにあるのは、恵みにとどまる人は「みことばに聞く」になり、自分を拠り所にする人々は「妬みによる敵意」、つまり結局、罪に至っています。このところからも恵みにとどまることがいかに幸いであり、そしてどれだけ強く平安があるのか教えてくれているところです。そのようにしてパウロは反対するものから口汚く罵られます。しかし、パウロとバルナバは臆することなくはっきりと言います。

4.「差し出されている贈り物を拒む」
「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなた方に語られなければならなかったのです。しかし、あなた方はそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちはこれから異邦人へと向かいます。」46節?
 パウロとバルナバは、ユダヤ人たちに、あなた方は神の言葉を拒んだと言います。そして「自分たちは異邦人たちの方へ行く」とも。これは感情的な言葉のようにも見えますが、しかしまずはっきりと言っています。福音はまずユダヤ人であるあなた方に語られなければならなかったと。事実、福音が初めに伝えられたのはユダヤ人たちであり、使徒も皆ユダヤ人でした。ペテロや使徒たちも最初はユダヤ人以外には福音を伝えてはいませんでした。もちろんそれを受け入れる人々も沢山いました。事実この街でも43節にありましたように、大勢のユダヤ人たちが二人についてきたいと言い、二人の勧めによって「神の恵みに留まり続ける」人々も沢山起こされました。しかしこのように拒む人々に対してこそ二人は言うのです。これは最初はあなた方のために語られたんだと。そしてそれを拒むのもあなた方自身なんだと。
 イエスの福音は、誰に対してふさわしいでしょうか?それは人の行い云々によりません。何か行いが立派だから、良い人間だからあなたは救いにふさわしい、神の国にふさわしい。世の宗教はそうであるかもしれませんが、しかし福音はそうではありません。イエスが与える水も、福音も、神の国もそうではありません。その逆です。人間の力、人間の行い、人間の立派さは、そのために何の意味もない、力もない、自ら得ることもできませんが、しかしイエスは行いによらず、どんな人にも、罪深い取税人にも、世の中から阻害された人々にも、罪に苦しみ絶望する心の貧しい人にも、神の国はあなた方のものであるから、幸いだとイエスは教えた方です。その枯れることのない泉のごとく湧き出るイエスが与える水の教えも、ヨハネ4章を思い出すとイエスは、社会では阻害された一人の貧しい罪深い、しかもユダヤ人が蔑むサマリアの女性へと言ったことばです。福音も永遠のいのちも、行い云々は関係ない、世の中の立派な良い人へでもない、全ての人へのプレゼントとして差し出されているものであるのに、しかも一番最初にそれを届けたのに、それを拒んだのは他でもないあなた方自身なんだ、だから永遠のいのち云々の責任は神の側にあるのではない、あなた方にあるのだとパウロとバルナバはものすごく当たり前のことを言うのです。
 「神であるなら全ての人を救わないのはおかしい」とよく言われます。しかしイエスは全ての人のために来られ、十字架と復活も全ての人々のためであり、そこにある罪の赦しも永遠のいのちも「全ての人のため」として成し遂げられています。そう、救いは誰も差別もない、全ての人々の目の前にどうぞプレゼントですと差し出されているのです。しかしそれをいらないと拒めばその人のものにはなりません。聖書の伝える救いは、イエスが全ての人へ与えるために差し出しているものをそのまま受け取るだけなのです。「わたしが与える水を飲むものは」とある通りです。しかしそれを拒むことによって、永遠のいのちを拒んでしまっているのが、拒むことの意味に他なりません。聖書の伝える「罪」や人の罪の性質というのは、何より、この神が与えるものを受け取らないことです。神を知らず、神を拒み、神を否定するものとして生まれてくるわけですから。幼子は教えれれ最初は素直な心で「神様!」とそのまま受け入れますが、しかし、大人になるにつれてやはりその拒む性質になっていきます。拒むでしょう。受け取らないでしょう。私もそうでした。拒むようになりました。それが人間の罪の性質です。しかし今や、与えられたものをそのまま受け取るものとされていることは幸いです。それをさせたのは何でしょうか。私たちの力ではありません。みことばの力、福音の力ではなかったでしょうか。私たちも同じように拒むものでしたが、その心を開き受け入れるようにさせたのは、確かにみことばであり福音であったのです。
 ですからパウロもバルナバも決して彼らを感情的に断罪し、彼らを見捨てているのではないと思われます。その「あなた方は拒んでいる」と言う圧倒的な事実にも当然、彼らに対する神のメッセージがあるわけです。そして自分たちはこれから異邦人の方へ行くという言葉も、それはパウロとバルナバは、47節で「なぜなら主は私たちに、こう命じておられるからです」と聖書を引用して答えていることが鍵です。つまり自分の感情や思いつきではなく神のみ旨を拠り所としており、そしてその異邦人への宣教は彼らがアンテオケの教会から遣わされるときからの変わることのない召命です。つまり彼らはその召命のみことばにもたち帰ったことでしょう。そのようにみことばによってこそ、彼らはそこに自分が与えられている召命に従って行くということを新たにされたのです。

5.「足のちりをはらって」
 そして48節で、異邦人たちはその言葉に喜び、多くの異邦人が信仰に入り、主の言葉がこの地方に広まっていきますが、一方でユダヤ人たちは、50節にあるとおりさらに神を敬うものたち、敬虔な人たちを扇動までしてパウロとバルナバと陥れようとします。そして
「二人は、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへいった。」51節
 と続いているのです。イエスが言われた言葉で、マタイ10章14節やマルコ6章にもあることであります。「受け入れない街を出るときには、足のちりを払い落として次の街へ行きなさい」と。このことは色々な解釈がされていてイエスは何を言わんとしたのかは色々な説教者や解釈者が色々なことを書いています。確かにマタイの福音書などは文脈を見ると、裁きの関連で書かれていて、それは受け入れない人はそのような裁きにあうのだという理解もできます。しかし大事なことは、裁きがあるにせよないにせよそれは神がなさることであり、神の判断の領域であり、私たちが判断することではなく、私たちの判断の領域ではないということを注意しなければいけません。キリスト教でも、過激なグループや、裁きを強調するグループは、すぐにこのところから、受け入れないと地獄に行くとか、裁きにあうとか、脅しの宣教をしますが、しかしどうでしょう。私たち人間は誰が滅びるとか、誰が地獄へ行くとか、誰が救われるとか、そんなこと誰も言えないことです。それは神だけが知っていることです。神が決めることであり神がなさることです。しかし人は律法的になるとその神の領域に入って行こうとし自分が裁判官になったようになってしまいます。そのようにして過激な裁きを強調するような教えが出てきて「あなたはそれだと救われない。裁きにあう」というような教えで伝道します。しかしそれは神の領域に入りすぎです。何より福音ではありません。単なる律法主義であり神のなさることへの侵害です。イエスはそんなことを望んでおられません。
 パウロとバルナバはこの足のちりを落とし、イコニオムへ行きます。異邦人の方へ行くとも言いました。しかしだからと言って、パウロとバルナバは、それでも他の街でも会堂に入りなおもユダヤ人たちへも語ります。そしてこの二人が去る前のこの街で救われたユダヤ人たちも沢山いて、そんな彼らは「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(52節)とあります。この「弟子たち」というのは、パウロとバルナバではありません。この神の恵みに留まり続けるように教えられて、神の恵みに留まり続けた弟子たちです。彼らは、二人が去ってもこの街に居続けます。そしてこの街で、その人々がどのように用いられていったかは希望を持って見ることができます。二人が足のちりを落として去ったから、その街ではもう礼拝も宣教もされず誰も救われる人が起こされないと誰が言い切ることができますか。それであるならそこに始まった教会の意味は何もないでしょう。そうです。その街の、パウロとバルナバに反対していた人々が、そのまま滅んだ、裁かれたとは誰も言い切れないでしょう。その後のある時に、彼らの中の誰かが福音によって心開かれ受け入れる人もいたことでしょう。誰が滅びる、裁かれる、それは私たちは誰もわからない。ゆえに決して私たちが断言できない言葉です。ですから二人が足のちりを払って他の街に行ったのはイエスの言葉に忠実に従ったまでです。つまりイエスへの信頼であり、イエスがなさることへの信頼です。去って行くこの街の宣教も拒んだ人の救いも主の御手の中にこそあり、そこにこそ彼らは信頼したのです。その現れです。事実私たちの間でも、あれだけ拒んでいた人が信じたということがあるのではないでしょうか。私も10代の後半は拒みました。しかし今、受け入れるように導かれている、そのイエスの力、福音の力は、なんと素晴らしいことかと思わされます。新しく生まれた私たちに大事なことは、誰かを裁くことではない、律法の秤、人間の秤、価値基準、自分の正義で全てをはかることではない、いつまでも神の恵みにとどまっていることにあるのです。