2018年11月4日


「いつまでも神の恵みにとどまっていなさい」
使徒の働き 13章42〜52節

1.「はじめに」
 イエスより宣教の召命を与えられたアンテオケの教会から遣わされた、バルナバとパウロの宣教を見てきました。その宣教で二人はユダヤ人の会堂に入り聖書を開いて、聖書のみことばはイエス・キリストを伝えているのだと指し示してきました。パウロは一貫して、聖書を開き旧約聖書の約束や預言は、すべてイエス・キリストが来ることを約束しており、その通りにイエスは来られ、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与える救い主なのだということをまっすぐに伝えました。その宣教の歩みで何より鍵となっているのは、2人は聖霊にって召命が与えられ(2節)「聖霊によって遣わされ」(4節)とあり、「聖霊に満たされ」(9節)みことばの働きを行なってきたということでした。それは宣教とその働き、歩みも、それはすべて召してくださったイエスから始まっているだけでなく、イエスが常に働いて、イエスが二人を用いて、イエスがことを行なってくださるということの証しであったのでした。そのようにパウロはみことばと聖霊の豊かな働きによって、イエスは約束されたキリストであると「指し示して」いったのでした。ここではその二人の宣教への人々の反応が書かれています。42節から見て行きますが、

2.「福音を聞いた人々」
「ふたりが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。」42節
 パウロの説教を聞いた人々はパウロの聖書の解き明かしに心刺されます。彼らは拒みませんでした。次の安息日にも同じことを聞きたいというのです。そのようにしてパウロの語る福音を聞いた人々ですが、
「会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについてきたので、二人は彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにどどまっているように勧めた。」43節
 福音の言葉を聞いて、多くのユダヤ人、神を敬う改宗者たち、それはユダヤ教への改宗者であるのか、キリストへの改宗者であるのかわかりませんが、そのように彼らは福音に心揺り動かされるのです。しかし彼らはその最初に、その福音によって与えられた信仰によって答えて行きたいけれども、どう答えて行ったら良いかわからなかったと思われます。彼らはバルナバとパウロについて行こうとしたのでしょう。そのように自分に良い変化をもたらしてくれた人について行きたいというのは人間の自然の初期的な衝動、当たり前のことだと言えます。しかしバルナバとパウロはどうしたでしょう。二人はまず話し合ったとあります。何を話し合ったことでしょうか。それはもちろん現実に即したこれからを考えたことでしょう。彼らはアンテオケの教会から祈りを持って、まだ福音を伝えられていない地、特に異邦人たちの地へと福音を伝えるために遣わされていました。彼らには、そのための召命があり、召命に従った働きと使命がありますが、しかし誰かを弟子としたり、あるいは福音を信じたものの群れ、つまりそこに既に教会ができているわけですが、その教会を一緒に旅に連れて行くということ、あるいは、宣教を中断してそこで教会を始めるということも、その与えられた召命に即したことにはなりません。まずその現実がありました。それだけではありません。そのようについてきたい人々は、クリスチャンとしての召命は確かにあっても、バルナバとパウロのような「異邦人のためにみことばに仕える」という召命が与えられてはいません。クリスチャンには皆それぞれ福音によるそれぞれの召命が必ずあります。しかし、それぞれの与えられている召命に即さない歩みに導くのは、ついて来る人々の願望や満足を満たすことは確かにできます。あるいは尊敬されついて来られる方も、人々に尊敬されついて来られるのが好きな人にとっては悪い気はしないことでしょう。しかし「それぞれに与えられている召命」によらない道は、イエスの道ではなく、誰かか他人か、あるいは「その人が」選んだ道になってしまいます。召命の道はイエスが与え、イエスが導き、イエスが成し実らせるイエスの道です。それはそれぞれに与えられている召命も同じで、その召命によらない道は、イエスの与える道とはなっていかないでしょう。それはあくまでも人の道であり、人間的な実、律法の実しか結び得ません。クリスチャンの道は、福音の道であり、それはイエスからの道であり、それはイエスから与えられる召命の道です。パウロとバルナバが「ついてきたい」という人々を断ったのは、彼らには確かにクリスチャンとしての召命はあっても、しかしまだ「異邦人のためにみことばに仕える」という二人の召命と同じ召命を持っていないからと言えるでしょう。

3.「いつまでも神の恵みにとどまっているように」
 しかしだからと言ってパウロとバルナバはそこで彼らを突き放したりはせずに、「ああしたい、こうしたい」ということより、むしろ全てのクリスチャンにとって最も大事で最も基本的なことを彼らに伝えます。
「いつまでも神の恵みにどどまっているように勧めた。」
 パウロの福音の説教を聞いて心動かされた人々、信仰を与えられた人々、信じる人々の群れ、その彼らにとって最も大事なことは何でしょう。最も基本的なことは何でしょうか。それは人について行くことではありませんでした。誰か、優れており、自分を利する人に依存し、その人間に留まることではありませんでした。世はそれでもいいでしょう。いやそれが人の肉の性質であり自然の欲求ではあります。しかしイエスが与えてくださった福音による信仰の道はそうであってはいけません。むしろそれを超えるものです。それは、
 「いつまでも神の恵みにどどまっている」
 ことだと。パウロとバルナバははっきりと彼らを正しく導くのです。見える人ではなく、見えない神の、隠された恵みにこそとどまりなさい。それがキリスト者の道である。パウロとバルナバははっきりと示すでしょう。
A, 「自分たちは神ではない、あなた方と同じ人である」
 このところも、使徒の働きに記されている使徒たちの実に一貫した態度です。使徒達の宣教では、彼らはいつでも、あたかも彼らが神であるかのように持ち上げられようとすることが何度もあります。驚くべき奇跡を行ったりした時に、彼らは神であるかのように祭り上げあれようとする場面に直面します。どこでも人は見える人を神にし、見える人や見えるわざに依存しようとして、神や、神の代わりを作り上げる、そんな人間の性質が現れているのですが、使徒たちはそれをきっぱりと拒みます。「自分たちは神ではない。自分たちはあなた方と同じ人である」と。そして、使徒達は、人々に、やはりイエス・キリストとその恵みを指し示すのです。ここでも付いて来たい人に対してパウロとバルナバはそのことに一貫しています。
B,「神の前における人の無力さ」
「いつまでも神の恵みにどどまっているように」
 と。これがクリスチャンにとって最も大事なこと、そして信仰の全てであり、さらにはこれは信仰生活、良い行いや隣人愛の全てなのです。実際のところ、人が、神の恵みではないところに依存し留まることによっても、それは人と人との間や、社会では当然、うまく機能はすることでしょう。むしろその方が、合理的で効率的でわかりやすく達成感もあります。そのようにして一時の満足は提供はするでしょう。そういう意味ではとても有用です。社会貢献のためにも利するものです。そういう意味では全然否定しません。しかし、パウロとバルナバの宣教の場面も、そしてここも教会です。そこは「神の前の真理」を提供する場所です。そのような人への依存、人の行い、自分や誰かの行いやその力や可能性への依存は、神の前では何の意味も持ちません。神の前での救い、罪の赦し、神の前での、本当の良い行いや、イエス様がしなさいと言われた愛のわざにおいても、人の力や意志から出るものには、何の意味もありませんし、何の効果もありません。いや、神の前の真理や福音の働きに、わずかでも人間の力や技が必要だとするなら、パウロは、ガラテヤ書で言っていますね。そのような教えは、御使いであっても、呪われよと。パウロとバルナバも、その線からブレていません。一貫しています。クリスチャンをクリスチャンたらしめる信仰も、信仰生活もそれは、全て神の恵み、神の賜物であり、神の恵みである十字架の言葉、福音にとどまるところに始まるのだと。だから神の恵みにとどまっていなさいなのです。
C, 「人を見るユダヤ人達」
 事実、人を見るもの、人や人の行いに何か力があるかのように依存し、律法に依存するするものは、どうでしょうか。そのように恵みにとどまる人々は、パウロとバルナバに言われた通りについていかず、安息日ごとに会堂に来てはみことばに聞いていました。人の言葉ではなく、神の言葉です。しかしそれに反対する人々が現れます。45節
「しかしこの群衆を見たユダヤ人達は妬みに燃えパウロの話に反対して口汚く罵った。」
 福音に反対する人たちは人を見ています。群衆を見ています。群衆がパウロとバルナバの方に行くの見ています。その中ではそれまでは自分たちユダヤ人の集まりにいたはずのメンバーも沢山いたでしょう。そんな彼らが新しい教えへと行った。それを妬みという動機で、彼らは、パウロの話に反対して口汚く罵るのです。これはイエス様を十字架につけたユダヤ人たちと同じです。彼らも「妬みにかられ」とありました。まさに彼らは共通していて、彼らが拠り所として留まっていたのは人でした。人の行いであり、自分の行い、自分の力、自分の努力、自分がどれだけ立派に従っているか、良いことを行なっているか、愛のわざを行なっているか、それが拠り所でした。しかし人のわざを拠り所とすること、律法への依存は、いかに弱いことでしょう。そして聖書がいうように律法は人の罪を明らかにするだけです。彼らは良い行いをし、愛のわざをいっぱいしていたことでしょう。自信もあり、人にも求めました。しかしそれが本当に正しい動機でなされていれば、良い行いも、愛のわざもどこまでも、どんな時でも、誰に対しても貫かれ、それは罪から自由のはずです。しかし、イエスを十字架につけた人々も、ここでパウロに反対し口汚く罵る人々も妬みに陥っています。自分の行いを拠り所にする結末はこれです。自分のためだからであり、隣人のためではないからです。自分の利益やプライドが損なわれると、相手に現れるのは愛ではなく敵意なのです。人への依存、それは自分自身の力や行いへの依存も同じですが、人への依存は不完全です。そしてそれは一時的には強そうに見えて、やはり究極的には弱く、罪深いのです。パウロとバルナバは、そんなものを提供しません。どこまでも最も大事なことを言います。

4.「神の恵みはゴールではなくすべてのスタート」
「いつまでも神の恵みにどどまっていなさい」
 と、皆さん、これが福音から私たちへの招きであり、クリスチャンの全てです。そして、神の恵みはゴールではない。神の恵みは全てのスタートであり、それこそイエスから与えられる真の動機です。イエスがこの罪深い、何も神の前に正しいことを行えないこの罪人のために十字架にかかって死んでくださった。私のこの罪の身代わりとして十字架を負ってくださった。それほどまでに私たちを愛してくださっている。それゆえに私は日々、罪赦され、日々、新しく生まれた新しい人とされているという信仰と喜び、平安と祝福が与えられ、心にその恵みが湧き上がるからこそ、私たちも嫌嫌ながらでも強いられてでもない、「しなければいけないから」でもない、福音の衝動によって、真の良い行いや隣人愛へと駆り立てられて行くのです。つまりせざるを得なくなる、せずにはいられなくなるのです。強いられてではない、自ら進んで。しかも見返りも求めず、右手のしていることを左手に知られず。それはたとえ恩を仇で返されたとしても愛して行く、キリストがしてくださったようにです。それが福音から溢れ出る、力であり、真の良い行い、真の隣人愛です。そしてイエスは、パリサイ人のように律法から出た良い行いには偽善と痛烈に批判しましたが、この真の隣人愛こそしなさいと教えています。
「あなた方に新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節
 大事な点は「わたしがあなた方を愛したように」です。できますか?「イエスがしたように」です。つまり私たちは敵のために十字架を負えますか。自分を罵るもののために。できないことです。しかしそれをしなさいとイエスは言います。しかしそれは私たちには出来なくとも、律法を動機にしてはできなくとも、福音から始まるイエスの道では、イエスはそれをせずにはいられないようにさせるのです。ヨハネ4章14節にこの言葉があります
「しかし、わたしが与える水を飲むものは誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
 「わたしが与える水を飲むものは」とはっきりあります。それはまずイエスが与えるものを受けなければいけないことがわかります。そして受けるからこそ、それはその人のうちで、泉のごとく湧き出てくるのです。福音はその力。福音こそ、隣人へと永遠のいのちへの水を及ばせる証となり、隣人愛となって行く。それは律法によって自分をコントロールして「こうでなければならない」ではなく、泉のごとく湧き出るのですから、福音は「せずにはいられない」とそのように湧き出てくる、イエスが湧出させてくださる。そのような恵みのあかしであることをイエスは伝えていることがわかります。だからこそ、
「いつまでも神の恵みにどどまっていなさい」
 なのです。それは、恵みにとどまっているからこそ、イエスはそのように信じていた人々に大いなることを世にさせることが出来るのです。パウロとバルナバの勧めは実に適切で、聖書的で、福音に沿った勧めであると言えるしょう。私たちもまず私たちが何かを一生懸命した先に恵みや祝福が待っているという「律法によって」ではなく、新しいいのちの全てのスタート、すべての原動力、すべての聖なる動機である、福音をまず受け、イエスの与えるいのちの水を今日も飲み、ここから遣わされていきましょう。