2018年10月14日


「パウロの説教が伝えること」
使徒の働き 13章15〜43節

1.「はじめに」
 13章ではアンテオケの教会に与えられた召命によって宣教へ遣わされたバルナバとパウロを見てきています。キプロスでは、セルギオ・パウロというローマからの総督との出会いがありました。彼は神の言葉のことを聞きたいとバルナバとサウロを招きますが、魔術師エルマが、総督をキリストの信仰へと入れまいと妨げてきます。しかし、聖霊はパウロを聖霊で満たし、その力強いみことばでエルマの妨げを退けたのでした。前回はそのところから、召命を与えるのがイエスでありその福音の言葉であると同時に、その召命、つまりイエスの計画や御心を成し遂げるのも、イエスであり、聖霊であり、力ある言葉であるという恵みを確認したのでした。

2.「エルサレムへ帰るマルコ」
 バルナバとパウロは、地中海地方をさらに進みます。キプロスのパポスという港から出航し、トルコ南部のパンフリヤ州のベルガにやってきます。しかしここで13節後半にあるように、それまで一緒についてきたマルコと呼ばれるヨハネが一行から離れてエルサレムに帰ります。その理由については詳しくは書かれおらず、14節で「しかし」とあり、そこに何らかの意味があるのでしょうけれども理由はわかりません。この件は15章37節以下に書かれているように、後にバルナバとパウロはこのマルコのことで意見が合わず、袂を別つことになる原因になることでもあります。15章で触れることではあるのですが、そのように、使徒たち同士、宣教の仲間といえども、皆、聖人のように、常に間違いも犯さず、意見の対立もなく完全であったということではない事を教えられます。教会は聖人君子や完璧な人間の集まりでは決してなく、どこまでも「義人であり同時に罪人」の集まりであり、しかしそのような罪人で無力な人たちこそを用いて、イエスが人の思いをはるかに超えたわざと救いをなされるからこそ「宣教は律法ではなく恵み」であるという事が見えてもくるのです。しかしここではその宣教の内容です。とはいっても、それは何か特殊なこと、時代の流行や文化によって変わって行ったり進歩していくような手法の問題ではなく、それは終始一貫、基本的な事こそ大事にされていることが伝えられています。

3.「パウロの説教」
 14節、バルナバとパウロは、ベルガからさらに進みピシデヤのアンテオケというところにやってきて会堂に入り席に着きます。ユダヤ人の会堂ですから律法と預言者の書が朗読される(15節)のですが、会堂管理者たちはバルナバとパウロにそのみことばの奨励、つまり説教でありみ言葉の解き明かしをお願いします。パウロが立ち上がり説教をするその内容が16節から41節です。説教についてはペテロの説教とパウロの説教も見てきていますが、このところのパウロの説教も何ら変わることなく終始一貫しています。
A、聖書からの解き明かし
 まず第一に、それは「聖書からの解き明かしである」ということです。しかも新約聖書はまだありませんから律法と預言の書、旧約聖書からです。その旧約の律法と預言の書からパウロは語るのです。しかも語ると言っても、彼は自分がどう感じるかとか、どう思うかとかの感想や、勝手な解釈や拡大解釈的な例話を語るのではないことがわかります。彼はみことばが、つまり「神は何かを伝えているか」を解き明かしている事がわかるでしょう。それは聖書に書いている通り、神がアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてその子たち等、父祖たちを選び出したこと。エジプトの縄目から解放したこと。サムエルの時代に王を欲しがった民に王を与えたことなど、聖書が伝える「神が何をなさったのか」を彼は伝えます。このように説教というのはどこまでも、「人の側の」自分についての証しや自分が何をしたか、何をしたいか、何を思い、何を感じるか、あるいは誰かが何をすべきかとか何かをしなければいけない、というメッセージではないということです。聖書のメッセージ、奨励、説教は、どこまでも神についての証しであり、「神が何をなさったのか」のメッセージであるということは、使徒たちで常に一貫していた。そしてそれが教会の説教であったということです。これは基本的で大事なことです。
B、「キリストを指し示し」
 そして第二に、その「神が何をなさったのか」の最大なことこそ、みことばの解き明かしの中心であるということに気づきます。パウロはこの律法と預言者の書から、その歴史的事実を伝えるだけに終わりません。彼は「ある一人の方」を指し示しているのがわかるでしょう。まず22節以下、パウロはダビデについて語っていますがこうあります。
「それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについて明かしして、こう言われたました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。』神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」
 と。この「彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する」という言葉と、その「約束に従って」送られる「救い主」とは何を意味し誰のことを指しているでしょうか?ダビデ、あるいは「ダビデの再来としてのダビデのような地上の優れた人間の王」のことでしょうか?確かにダビデは民族の偉大な王でありイスラエルの人々はダビデの偉大な功績の再興と繁栄を待ち望んでいました。そしてこの言葉にある通りダビデは確かに「神のこころにかなった」人でした。しかしなぜ彼は「神のこころにかなって」いたのでしょうか。
 みなさん聖書が伝えるダビデについてはよくお分かりだと思います。彼は弱さを覚える一人であり罪深い一人として描かれているでしょう。何度もいうように、英雄的な記録で顕著なのはゴリアテを倒して少年ダビデから勝利を収めていく将校ダビデの数章は確かにありますが、それよりも多く書かれているのが、彼がサウロから受けた迫害と試練の記録であり、そこではなかなか先も解決も見えない問題の中で、弱り果て苦しみに疲れ果てるダビデの姿があります。そしてサウル王から罪を受ける被害者ダビデだけではありません。王になったダビデは何度も罪を犯してしまいます。有名なバテシェバの罪だけではありません。神のダビデへのあまりにも大いなる怒りとして思い出すのは第一歴代誌21章です。そこでダビデは、これまで導いてきた神の力とわざを誇り神に栄光を返すのではなく、王としての自分の力と功績を誇って、イスラエルの民の数を数えさせたことに、神の怒りがダビデに降ります。そしてそれはダビデ自身の罪であるのに、その彼の功績として数えたその民に大いなる災いが訪れ、何千人も死に至り、そこには「主の使いが、抜き身の剣を手に持ち、エルサレムの上に差し伸べ」振り下ろされる寸前であることが書かれています(第一歴代誌21:16)。そのようなダビデであってもなぜ聖書は「神のこころにかなっていた」というのでしょうか。それは彼が、サウル王のように心から罪を悔い改めず、どこまでも自分のプライドや誇りに執着し続けたのではなく、彼が本当に砕かれ心から悔い改め、神からの罪の赦しと憐れみを求め、求めただけでなくその罪の赦しと神の憐れみこそを救いの拠り所として信じて歩んだからではありませんか。詩篇51篇、彼はこのように神に罪の赦しと救いを求める賛美を歌っています。表題にあるとおり、この歌はまさにバテシェバとの罪の最中での叫びです。
「1?3節:神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって、私の背きの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分の背きの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。?17節:神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
 と。ダビデが神の御心にかなっていたのは、この砕かれた心とその罪のどん底の中で神に依り頼んだ信仰のゆえです。そしてそれこそが同じ罪人でもサウル王との大きな違いでした。どこまでも「自分は正しい、自分は優れている、自分は王様だ」と高ぶっていたサウル王は神の心に叶わず退けられましたが、「自分はダメだ。自分はどん底だ。こんなにも罪深い。神よ。こんな私を憐れみ助けてください」と神にすがった、ダビデが「神のみ心にかなったものとされた」というのが旧約聖書の証しでした。その御心とは「罪人、砕かれた者の赦し」ではありませんか?その御心を神ご自身があますところなく行うという約束とその実現は、どこに、そして誰によって現されるのかは私たちは知っているではありませんか?そうキリストです。その通りにパウロは「神が何をなさったのか」の最大なことこそ、みことばの解き明かしの中心であるとして一人の人を指し示すのです。キリストです。
「神はこのダビデの子孫から約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」
 と。新約聖書からにせよ、旧約聖書からにせよ、聖書が指し示すのは、どこまでもイエス・キリストであり、そのメッセージ、説教は、神がなさったこととしてその最大にして中心である、イエス・キリストを指し示すものに他なりません。ですから、24節以下で、パウロはバプテスマのヨハネのことも語っているのは大変意味があります。皆さん、バプテスマのヨハネは誰を指し示したでしょう。パウロは25節でこう言っています。
「ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなた方は、私はだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方の靴紐を解く値打ちもありません。」
 ヨハネは「私はその方、救い主ではない。自分が指し示すのは、自分ではない。その方は、キリスト。自分はその靴紐を解く値打ちもない」と彼はどこまでも、イエス・キリストを指し示しました。同じようにパウロも、イエス・キリストこそを指し示すのです。
C、「イエス・キリストの十字架と復活」
 さらにこのパウロの説教から教えられる第3点目です。それはイエス・キリストの何を指し示すかということです。述べたように聖書はイエスを指し示していて、バプテスマのヨハネの証しによってそれがさらに事実として証しされたと言いましたが、しかしこのヨハネの記述以降、26節でその「救いの言葉はすべての人へ送られている」とパウロは言いつつ、27節以降でパウロは、その救いの言葉、イエス・キリストをあなた方は退け十字架につけて殺したのだとユダヤ人のみならず聞く人々を断罪します。パウロは説教で罪を示す律法を語ることに躊躇しません。ペテロの説教もそうであるようにパウロの説教も律法があります。律法によって人々に「人々がしてしまった重大な罪」を指し示すのです。これは大事なことです。しかしここでわかる大事な点ですが、律法が語られるときパウロは「あなた方はイエスを十字架につけて殺した」と律法で決して終わるのではなく、そこに必ずイエス・キリストの十字架と復活を人々に指し示しているということです。30節以下。
「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。?32節:私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなた方に良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがらせ、詩篇の第二編に、『あなたは、わたしの子、きょう、私があなたを生んだ』と書いてある通りです。神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについて、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなた方に与える』と言われました。〜37節:しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。ですから、兄弟たち。あなた方に罪の赦しが宣べられてい流のはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることの出来なかった全ての点について、信じる者は皆、この方によって解放されるのです。」
 と。みなさん、律法は必要ないとは言いません。必要なのです。律法も聖なる神の言葉であり、私たち人間のすべきことを示すと同時に、何よりそれを行えない私たちの罪を示すためにこそ神は私たちに律法を与えました。もちろん律法は罪を示すだけで救いを何ら与えません。しかし、ではなぜ律法は語られるのでしょうか?それは福音は十字架の言葉であり、十字架は罪の赦しです。救いはそのように罪の赦しであるがゆえにこそ、律法は欠かすことができないのです。律法がなければ自分の罪もわからず、罪の赦しである福音もわからないと言えるでしょう。ですから、クリスチャンであっても自分は罪人ではないという人は福音を分かっていないのです。しかし同時に、律法だけでは、救いはなく、断罪と裁きだけでそこに救いはないのです。私たちが教会の説教に招かれているのは、神が救いと平安を与えるためであり、みことばはそのための神の恵みを与える手段です。そこには福音を欠くこともできないし、同時に律法も欠くこともできません。どちらか一方だけでも説教は不十分であり、福音だけでも説教も福音自体も成り立たないし、律法だけでもそこに救いはありません。しかし何より、福音が中心でありキリストの十字架が説教になければ、その話がどんなに人の側で、合理的で、指示的な律法の説教で分かりやすかったり、あるいは、面白く、飽きず、支持され、耳に優しい聞きたいことに溢れていたとしても、十字架の福音、罪の赦しがなければ、それは死んだものであり、パウロからいわせれば、空想話にすぎないのです。ですからパウロは、律法の断罪で決して、終わらず、イエス・キリストの十字架と復活こそを指し示し、それこそが神の愛であり、完全な罪の赦し、救いであると宣言するのです。それがこの時から何ら変わらない教会の説教、福音であり、十字架と復活は、まさに賛美にあるとおり、神の義と愛の会えるところなのです。

4.「終わりに」
 世にあっては艱難があり、私たちは尚も罪深さに気づかされる日々です。しかし今日もイエスは律法と福音の言葉によって、私たちの真の現実、「真のありのまま」である罪を示し、同時にその罪からの唯一で完全な救いを宣言してくださること、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と、イエスが与えると言われた平安、世の繁栄や力や富が与えることできない天よりの平安のうちに、今日もここから遣わされることは幸いなことではありませんか。ぜひ福音を受け、今日も喜びと平安をいただき、遣わされていきましょう。