2018年10月7日


「召命を与え、実現するイエス」
使徒の働き 13章4〜12節

1.「はじめに」
 前回、イエスから、外国の人々への「福音宣教」の召命が与えられたアンテオケ教会の人々が、その召命にどのように答え、誰を送れば良いかを祈り求めたというところを見てきました。イエスはその祈りに対して「バルナバとサウロを遣わしさなさい」と答え、教会の人々はそのイエスの言葉に従って、バルナバとサウロに手を置いて祈り、つまり「イエスが召されたものを助け、イエスの全てを成してください」と、信仰によって送り出したのでした。そのように律法的にではなく、イエスからの召命と、そしてイエスからの恵みの賜物である、教会の祈りと信仰によって送り出されたバルナバとサウロですが、その歩みに働いていて、そのことを成すのは一体、誰であるのかがわかるのです。

2.「聖霊に遣わされて」
「二人は聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡された。」
 最初からはっきりと書かれていますが、二人は誰に遣わされたとあるでしょうか?ここには働き人、み言葉に仕えるものは誰によって遣わされているのかがわかります。それは教会という組織でしょうか?1節に書かれいるリーダーたちでしょうか?もちろん彼らたちは祈りと按手、信仰を持って送り出したのですからその通りです。しかしそれ以上に核心となる答えがあります。それは二人は「聖霊によって遣わされた」ということがはっきりと書かれてあります。み言葉に仕える者を送り出すのは、聖霊でありイエスです。それはこれまで見て来たことが証明されている言葉でもあります。「誰が召命を与えるのか」については12章の終わりから見て来ました。そこに記されていた「マルコの召命」も実に不思議でした。12章で見てきたペテロの逮捕は、エルサレムの、マルコの母マリヤの家の教会の人々を失望させ、彼らは確かに祈っていたとしても、イエスが本当にペテロを助けてくれるとは信じていませんでした。ペテロが牢獄からイエスによって助け出されて、祈っているクリスチャンたちのところに来て扉の戸を叩いても、彼らはペテロだと信ぜず、むしろ死んだペテロが御使いになって現れたのだと言いました。信じれなかったマルコの母マリヤの家の教会の人々でした。しかしそこにペテロが現れ、そこで語られた人の思いを超えたイエスのみ業と、イエスの言葉と約束は真実であるというその証し、その福音によって、マルコはみことばに仕える者という召命が与えられ、バルナバとサウロの弟子となりついて行くことにしました。マルコに召命を与えたのは、母マリヤでも、エルサレムの教会の誰かでも、ペテロ自身でもありません。イエスとその言葉であり、イエスの福音とそこに働く聖霊こそがマルコに召命を与えたのです。そして前回のところもそうでした。アンテオケの教会への外国人への宣教の召命は、彼ら自身が考え出したり、創作したものではなかったでしょう。それまでのユダヤ人の慣例を、使徒たちでさえ打ち破れませんでしたが、それを打ち破ったのはイエスの不思議な導きであり、みことばとそこに働く聖霊がその召命を与えたでしょう。さらにはイエス自らの言葉で「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と語られました。そのようにイエスが召し、イエスが与えた任務です。そして送り出す教会も、その通りに「聖別して」、つまりバルナバとサウロをイエスのものとし、その働きもイエスのものであるとするという意味ですが、だからこそ頭に手を置いて按手の祈りをもってイエスに全てを託し送り出しました。召命も、派遣でさえも、それは福音、それは聖霊によるもの、イエスによるものだということが、ここではもう何重にも私たちに証しし、語りかけているのだと迫ってくるのです。召命はイエスからのものです。聖霊が遣わすのです。それは律法ではなく、幸いな恵み、福音と聖霊によるものです。恐れることはありません。召命を与えられているものがここにおられるのであるなら、いや全ての人それぞれに相応の召命が必ずあるのですが、それは全てイエスのもの、イエスの働きなのですから、イエスが成してくださいます。律法ではなく福音なのですから、ぜひ安心して従おうではありませんか。

3.「聖書から解き明かし」
 事実、そのようにして遣わされる二人には、イエスが働いていて、そして彼ら自身の力ではなく、イエスが彼らを通して言葉を語りわざを行うことが確認できるのがこの後のところです。彼らは地中海地方をめぐりキプロスへきます。バルナバはキプロス生まれのユダヤ人です。そのサラミスというところの「ユダヤ人の諸会堂」で神のことばを語ったとあります。このことは、彼らがユダヤ人の会堂で、つまり私たちのいうところの旧約聖書、律法と預言と詩編の書を開いて、みことばの解き明かしをしたということです。しかしそのみことばの解き明かしは、それまでのユダヤ教の教師の説教のようではないということです。彼らはそのように旧約聖書からイエス・キリストを解き明かしたということを意味しています。ここでは幾つかのことがわかります。彼らは外国人のためにという召命があったでしょう。しかし外国にいるユダヤ人への宣教も決して忘れてはいないし、むしろ遣わされた地の会堂で外国居住のユダヤ人たちに語り続けたたということが見えて来ます。
 そして旧約聖書からイエスを語ったということからわかるように、旧約聖書の律法、預言、詩編、全ては、イエス・キリストを証ししているということがここからも分かるのです。イエス・キリストの証しは、決して新約聖書だけではありません。旧約聖書もイエスを伝えているのであり、旧約聖書は単なる律法の書ではなく、そこには福音が溢れていると言うことです。なぜならバルナバとサウロ、使徒たち皆が新約聖書がない時代に、旧約聖書からイエス・キリストの福音の説教をしたのですから。あのマルティン・ルターも、旧約聖書の博士であり、創世記や詩篇やイザヤ書などから、福音を発見しています。旧約聖書は単なる律法の書ではありません。「旧約聖書は律法の書で、新約聖書が福音の書」ではないのです。どちらも福音の書であり、どちらもイエス・キリストを指し示しているのだと言う幸いがここから教えられるのです。

4.「召命の実現もイエスによって」
A, 「みちびき」
 さてそのようにキプロス島の各地の会堂で福音を語る二人ですが、そこで一人のユダヤ人魔術師バルイエスとの出会いを通して、このキプロスを治めているローマからの総督に出会います。
「この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。」7節
 とあります。このキプロスを収めるセルギオ・パウロは神の言葉について関心がありました。ローマ帝国では皇帝崇拝があるのですが、そのような中であのローマ軍の隊長コルネリオもそうであるように、神の言葉にひかれると言うことは不思議です。セルギオ・パウロはおそらく、神の言葉を聞きたいと言う思いがあって、最初はこの魔術師バルイエスやエルマに教えるように求めたことでしょう。この魔術師と総督との関わりは、ある意味、キプロスのユダヤ人コミュニティー、この会堂での教えは正統なユダヤ教の教えからもずれていて、魔術師などによる教えがあったのかもしれません。このようにせっかく神の言葉を求めているのに、間違った神の教えによって総督セルギオ・パウロは導かれようとしていました。そんな中バルイエスという魔術師とバルナバとサウロの出会いを通して、神は総督のもとにバルナバとサウロを導いたと言えるでしょう。これも不思議です。バルナバとサウロは、総督が求めていると、前もって知っていてじゃあ総督に会おうと計画して行ったことでは全くありません。総督が求めていることなどもわかりませんでしたし計画もしていません。ここからも召命はイエスからのものであり、その派遣も、その計画も、そしてその召命を果たさせるのも、イエスであるということの一端がここにあります。
B, 「福音の正しい教えへの妨げ」
 そのようにして総督とバルナバとサウロとの出会い、つまり、正しい救い主キリストの教え、福音が総督に語られようとしているところに、妨げが起こります。
「ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと、魔術師)は、二人に反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。」8節
 福音、神の言葉の正しい教えに対しては、いつでもサタンの妨げがあります。正しい教えについての妨げはこの時代からたえず起こっていることがわかります。それは今もあることであり、正しい福音の教えを伝えることは最高の使命でありながら、最高の使命でありそれがイエス様の核心部分であるからこそ、サタンはそここそを攻撃してくるのです。ですから、福音の正しい教えを語ることも難しいことですし、それを信じ続けることにもたえず誘惑があり、私たちには困難が伴っているというここのところは現代にも語りかけることとして教えられます。私たちがいつでも注意していなければいけないのは、福音が正しく語られることなのです。そここそサタンの攻撃であり、私たちへの誘惑であり、私たちが一番足元を救われるところです。パウロのテモテへの警告も以前紹介しました。教会の会衆、クリスチャンたちが、自分に都合のいいことを言ってもらうために、説教者たちや牧師を次々と寄せ集めるようになるとパウロはその時代からサタンの攻撃ポイントをよく分かっていました(第二テモテ4章)。私たちが何よりも立つべきところ、私たちを救い、平安を与え、神の国に与らせるのは、イエスでありその十字架の言葉、福音です。それに対する誘惑もまた強力です。その誘惑、サタン、偽キリストは、羊の姿、キリストのなりをしてやってきて、自分たちに都合の良い、心地よいことを言って誘惑します。十字架の言葉は、痛みを伴う言葉であり、聞きたくない言葉でもありますから、誘惑の言葉の方が、むしろ良いもののように見えるでしょう。そのように私たちもいつでも信仰の道から遠ざけられる誘惑があることをこのところは私たちに気づかせます。しかしです。そのことから守るのもイエスとその言葉です。
C, 「主イエスが成す」
「しかしサウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼を睨みつけて言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、全ての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、霞と闇が彼を覆ったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」9?11節
 サウロ、ここで彼が別名でパウロと呼ばれていることがわかりますが、パウロが、聖霊に満たされて語った、この言葉が、エルマの企て、総督を信仰から遠ざけようとするその誘惑を退けるのです。しかしパウロは聖霊に満たされて語ったとここにあります。つまりパウロの口から出た言葉ではあるのですが、そこにはイエスの働きがあり、その言葉は聖霊の言葉、イエスの言葉であったのです。イエスがパウロを用いて、その言葉によって、信仰の妨げ、誘惑を退けたのです。
 みなさん。ここからもはっきりとしています。召命を与えたのはイエスとその言葉。遣わしたのは聖霊とその言葉。そして、その召命を成し遂げるのも、聖霊とみ言葉であり、イエスご自身であるということ、イエスが志を、使命を、成し遂げてくださるということがはっきりと分かるでしょう。パウロ自身には、そのような力もわざもありません。彼の言葉に力があるのではありません。彼にエルマを退け、彼を盲目にする力はありません。ここに「聖霊に満たされ」とはっきりとあるでしょう。イエスが働いていたのです。イエスの力と言葉が、エルマを退け、盲目にしたのです。そして、イエスの力、イエスの言葉が、総督を正しい信仰に入れるのです。
「この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った」12節
 ここには、総督が、この出来事に驚嘆して、この出来事、パウロの行ったわざによって信仰に入ったとは書かれていません。「主の教えに驚嘆した」とあります。バルナバとパウロは、そこで自分のわざや力のゆえだと言いません。自分のわざや力を語りません。誇りません。どこまでもイエス・キリストとその教え、福音を語った、イエス・キリストとその福音が、聖霊がそれを成したのだと語ったことを意味しています。主の教え、みことば、イエス・キリストの福音が総督セルギオ・パウロに信仰を生じさせ与えたのでした。

5.「福音を動機として」
 一貫しています。召命はイエスとその言葉から。使わす派遣も聖霊とみことば、その召命を成し遂げてくださるのもイエスであり聖霊であり福音の言葉であるといううこと、一貫しているのではないでしょうか。繰り返しますが、宣教は律法で決してありません。しなければいけないこと、人間の努力、力、わざの産物ではありません。もちろん私たちを用いてなされていき私たちがすることですが、しかし、宣教は律法ではなく福音です。つまり宣教は同じことをするにしても、私たちは律法を動機とするのではなく福音こそ動機であり、福音から生まれ、恵みのゆえに救われた自由と喜びと信仰のうちに召命が与えられ、遣わされていき、そしてイエスがなすことなのです。アンテオケの教会も律法によって遣わさず、聖別と按手の祈り全てはイエスからのもの、イエスのものと信じて、全てをイエスに託す祈りを持って遣わしました。召命も宣教も、律法からではなく、福音であり福音から生まれるのです。私たちは、今日もこの福音によって救われ、召命が与えられ、遣わされているその幸いと平安を感謝しましょう。世にあっては艱難が沢山あっても、信仰の道、キリストの道、福音の道は、イエスが与える平安による光の道、恵みの道です。律法の道には恐れがあっても、イエスの道、福音の道に歩むなら、恐れに終わる事は決してなく、イエスからの特別な平安が必ずあるのです。ぜひ今日も罪赦されていることを確信し、安心してここからイエス様によって遣わされていきましょう。イエスの道にはイエスの助けが100パーセントあります。その道に遣わされていこうではありませんか。