2018年9月23日


「わたしが召した任務に」
使徒の働き 13章1〜3節

1.「はじめに」
 12章の終わりは、マルコと呼ばれるヨハネが、み言葉に仕える召命が与えられ、バルナバとパウロについて行ったというところでした。しかしその召命も、バルナバやパウロが、マルコがふさわしそうな青年だからついて来いと言ったからでもなければ、お母さんのマリヤがそうしなさいと勧めからからでもなければ、教会から勧められたからでもない、まして自分の考えや決意によるものでもない。それは12章を通して証しされた、まぎれもないイエス・キリストの恵みとみわざ、そしてペテロがそのことを通して語る、イエスの約束と福音は真実であるというみ言葉こそが、マルコに召命を与え、イエスがマルコを召し出したのだという恵みを見てきたのでした。13章のはじめのところにも、その「召命は天から来るものである」ということについて書かれてあると言えるでしょう。場面は再び、バルナバとパウロが戻ったアンテオケに始まります。1節からですが、

2.「様々な出身の人々」
「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」
 アンテオケは、シリアにある都市で、シルクロードの出発点となる地でした。国際的な商業の都市であると同時に、ローマ帝国の主要都市でもあり、軍事的にも政治的にも重要な拠点でありました。当時は国際都市ですから各地から多くの外国人も集まってきたり住んでいる都市でもあったのです。そこにある教会も国際色豊かでした。バルナバはユダヤ人ですがキプロス生まれ、外国生まれで外国で育ったギリシャ語を話すユダヤ人です。ニゲルと呼ばれるシメオン。ニゲルという言葉は、ラテン語で「黒い」という意味があります。ですからシメオンはアフリカからやってきた黒人クリスチャンであったと言われています。クレネ人ルキオ。クレネは現在のリビア、北アフリカです。そして国主ヘロデの乳兄弟マナエン、ヘロデと一緒に育った兄弟が、信仰を持って教会のメンバーになっていたのでした。そしてパウロもそこにいます。彼らは、その教会の、ある人は預言者であり、ある人は教師であったり、またある人はどちらもであったりしたのでした。そのようにアンテオケの教会のリーダーたちを見ても、ユダヤ人だけではない、先にたくさん救われたギリシャ人だけでもない、様々な人種や出身の人々が、教会でみ言葉を教えていたことがわかるのです。そんな彼らですが

3.「主の恵みのゆえに、そして礼拝」
「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」2節
 まず彼らは、日曜だけでなく、日々、そして場所は、家であったり、会堂であったり、様々ですが、礼拝し聖餐をしていましたが、断食とあります。断食は礼拝の一部ではなく、むしろ祈りの一部ですが、それが毎日していることでもなければ、必ずしなければいけないという決まりごとでもありません。しかし断食は非常に大切なことではあり、それは、何か大事な祈りの課題があるときに、他の様々なことを断ち切って主イエスへ思いを集中させるために行なうものであり、もちろんそれは強制や義務など「しなければいけない」という律法を動機とするものではなく、イエスの恵みとわざへの応答として、つまり福音を動機として自発的に行われるものでもありました。
 ではここでは一体、どのような大事な祈りの課題があったのでしょうか。そこには確かに福音の動機があるのです。12章で見てきた素晴らし恵みのわざももちろん、そうであり、それによってマルコに召命が与えられたのは見てきた通りですが、アンテオケにあったイエスの恵みの証しは、福音はユダヤ人だけではなく、まさに地の果てまで、全世界の人々へ、異邦人にも、という恵みが確信されたことにあったでしょう。それは10章、11章で見てきた通りであり、ペテロがイエスの言葉によって確信を持って伝え、それによってエルサレムの教会でさえも、それまでの間違いを気づかされ、悔い改め、イエスの福音はまさに全世界へなのだと喜んだことでもありました。アンテオケの教会は、まさに国際都市として、そのことを実感していた教会であったでしょう。ユダヤ人の慣例を打ち破って、外国人にも福音を語り出したのは、アンテオケの外国出身のクリスチャンたちでした。そこにバルナバやサウロも遣わされました。そして多くのギリシャ人が救われたとありました。国際都市アンテオケの教会は、そのイエスの恵みを実感し、そのような異邦人へも福音は届けられることをイエスは御心とされているということに、何よりも誰より突き動かされてきている教会でもあったです。この2節の断食にはその恵みの体験が何より理由としてあるのです。アンテオケは、ローマ帝国の主要都市としであり、国際的な商業都市とです。ここから多くの人が世界へ出て行きます。それと同じように、福音を、自分たちの生まれ育った、ギリシャへ、アフリカへ、クレネへなどなどの世界へ、という思いと願いも彼らにはあったことでしょう。しかし、そのために彼は、まず行動でもない、まず会議でもない、彼らはまず礼拝をし、祈ったのでした。礼拝ですから、み言葉と聖餐があります。そのイエスのみ言葉からこそ恵みの真実さを確信し、それに答えるからこそ、祈りをし、断食をし、彼らはイエスに答えを求めたのでした。

4.「召命はイエスからの賜物」
 みなさん。ここに大事な点があります。まさに召命というのは天から、イエスからくるものです。まず何より彼らの「外国人への宣教の思い」そのものも、個人ではなく、教会全体へ与えられた召命です。そしてその召命も、彼ら自ら、つまり彼らの中の誰か優秀な知恵袋やリーダーが創作し考え、熟慮し考えあげたものではなかったでしょう。思い出して見ましょう。異邦人への宣教は誰も思いもしなかった。ペテロでさえも思いもしなかったことです。しかしアンテオケから遠い地、カイザリヤとヨッパ、それぞれの地で、カイザリヤではコルネリオ、ヨッパではペテロへとイエスの方から語りかけ、与えた恵みの言葉と幻から全てが始まっていました。まさにその時から、異邦人への福音宣教がイエスの御心であるという、イエスが伝える「長い真のメッセージ」が始まっていました。そしてそれがアンテオケの教会へのバルナバの派遣へと繋がってもいます。そのように異邦人、外国人への福音の宣教は、使徒たちの間から生まれなかったことです。なぜなら彼らは、律法に凝り固まり異邦人に伝えようとしなかったからです。しかしそれを打ち砕いたのはまさにイエスであったというのが、コルネリオの出来事でした。そうアンテオケの教会に与えらえた、「外国人にも福音を」という召命は、人から出たものではなく、イエスからの賜物であったのです。
 だからこそでしょう。彼らは、そこでまず行動、まず会議、話し合いにはならなかった。まず礼拝し、みことばと聖餐を受けたのです。そしてそのみ言葉に応答し祈り、断食したのです。それだけではありません。「誰を遣わすか」の「人選」も彼らは人の思いや判断によって早急にしていないでしょう。人の判断からすれば、聖書に精通しギリシャ語を話せるバルナバとサウロは宣教に遣わすには何よりも適任であったでしょう。しかし彼らはその人の判断や思いで決定しないのです。そう、まず礼拝し、み言葉と聖餐を受けた。福音を受けた。そしてみ言葉への応答として、祈り、断食して、イエス様に判断を求めたのです。このように、召命は人からのものでは決してない。召命を与えるのは、イエスであり、イエスがみ言葉を通して、選び、イエスが遣わすのです。その通り、イエスは答えを与えます。

5.「聖霊が、そして「わたしが召した任務に」」
 「聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」2節
 はっきりと誰の言葉に全てが始まっているかがわかります。「聖霊が」語るのです。そして、それは礼拝と聖餐の席ですから、み言葉が中心です。ですから、聖霊はみ言葉のあるところには働くということがここにも明らかです。そして祈りと断食にイエスは答えます。
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」
 どのような祈りであったのかは書かれていません。「バルナバとサウロがふさしいそうですから、彼らなのでしょうか?」という祈りであったのか。「彼らを遣わしてくださいと」いう祈りであったのか?あるいは「誰を遣わせばいいのでしょうか?」という祈りであったのかわかりません。しかしどのような人の思いや願いや計算や推測があっても、召命はイエスから来るというこそ、ここには明らかです。イエスの答えを求め、イエスが答えているのですから。イエスは「バルナバとサウロを遣わしなさい」というのです。そしてここにもあります。「わたしが召した任務に」と。そう二人はイエスによって召されたのです。

6.「召された者の召しを成すのは誰か?」
 そして、ここからも幸いです。教会は、イエス様に答えをいただいた。「じゃあ、バルナバとサウロ、あなた方が選ばれた、召された。じゃあ、早速、これこれのことを教会の命令として、みんなの代表として、教会のために、みんなのために、あなた方が精一杯の努力をして行きなさい。果たしなさい。救いなさい」とは送り出さないのです。彼らは、人のわざ、バルナバとサウロのわざ、能力、功績、成功に期待するのではないのです。3節。
「そこで彼らは、断食と祈りをして、二人の上に手をおいてから、送り出した。」
 彼らがしたことは、再び、断食と祈りです。そして、按手の祈りです。そしてイエスの声には、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して」
 ともありました。「聖別」です。それは、イエスのものとする。イエスの働きの道具、器としてみなす。という意味です。そう、召命はイエスからのものです。ですから、その働きもイエスのものです。イエスがその人を用いて、その人をイエスの道具として用いて、イエスの福音宣教のわざをイエスが行って行くのです。決して人のわざ、人の功績、人の努力、人の成功の産物ではないというということです。いやそれだけではない、断食の祈り、そして頭に手をおいて祈る、按手の祈り、それは祈る側の「信仰の祈り」です。つまり、祈る側も、イエスへの信仰のゆえに、その働きをイエスに祈り、イエスの働きがなるように、イエスがその道具を用いてくださいと、イエスのものと託す、祈りなのです。
 ですから、召されたものを、喜び、そのために、祈り、そして私たちも遣わしたりする。それ自体も私たち自身のものではなく「イエスから出たものは、イエスのもの、イエスがしてください、イエスが用いてください」という「信仰の行為」であることを、このところは教えています。そしてアンテオケの教会はその祈りをこの後も祈り続けます。

7.「福音を伝えることの困難と主の恵み」
 そしてその祈りこそ、何よりのバルナバ、サウロの励みとなり助けとなって行くわけです。この時もこの後も、「福音をまっすぐ伝える」ということは決してたやすい簡単なことになって行きません。二人に待っているのは試練の連続です。迫害が絶え間なく起こってきます。そしてそのような物理的な妨げだけではありません。当時の教会の大きな問題は、偽キリスト の問題や、律法主義や、福音ではない教えや間違った教えの蔓延です。迫害もなくなりまりませんが、この間違った教えや偽キリスト 、律法主義の問題は、いつの時代も消えることのない大きな大きな問題であり福音の妨げです。そのような中で福音を伝えることは本当に困難です。なぜなら罪深い人間にとって、十字架の福音より、罪の赦しの福音より、福音ではない間違った教えの方が心地よく聞こえたりするからです。律法主義の方が合理的で予測しやすくわかりやすいからです。そして偽キリストは、羊の姿で、キリストのなりをしてやって来るとも聖書にはあります。パウロの人生の後期に書かれた獄中書簡と呼ばれる弟子であり牧師であるテモテにあてた手紙でも彼ははっきりと書いています。
「人々は健全な教えに耳を貸そうとせず。自分の都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれ行くような時代になるからです。」第二テモテ4:3?4
 と。これはテモテに当てた教会についての預言的警告ですが、まさに現代はその通りの時代になってきていると言われてもいます。福音のようで福音ではない、耳に優しい「福音風の教え」を伝えることはむしろ容易なことです。しかし真の十字架の福音を伝えることは、サタンと誘惑の嵐の中で様々な困難と妨げがあります。バルナバとサウロが与えられた召命はこの召命です。しかしこの3節のアンテオケの教会の人々が、この召命は、人のものでも、人から出たものでも、人が達成ていくものではない、キリストから出て、キリストが達成する、キリストのものであると、祈り、断食し、頭に手をおいて祈った信仰の祈りは、バルナバとサウロの信仰も新たにし強め、そしてその信仰において遣わした教会と一致し、そして、この後も、試練のさなかにあっても、それこそが愛の励ましになったことはいうまでもありません。

8.「信仰の祈りは力となる」
 私も同じように召されたものとして、みなさんの信仰の祈りは、心から感謝するとともに本当に励みになりますし、何よりキリストの働き、力、福音は、決して裏切りません。そして、神学校にも同じようにイエスが召命を与えるからこそ、ちょうど良い時に、召命を受けたものが起こされることでしょう。その導きがあるように、私達も祈って行きたいですし、その祈った通りに起こされた時にも、そのような人々のために私達は、全て召命は、イエスが与え、イエスがなし、イエスのものとであるという信仰の祈りをぜひ祈って行きたいのです。