2018年9月9日


「マルコに与えられた召命」
使徒の働き 12章25節

1.「マルコと呼ばれるヨハネを連れて」
12章25節には、12章を通してもう一つの大事な恵みを発見することができます。
「任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。」
 バルナバとサウロは任務を果たしてエルサレムから帰って来た、とあります。11章の終わりには、世界的な飢饉があったとありました。そこでアンテオケという都市の教会の人々は、エルサレムの教会のために援助を送ることを決めたとありました。その時その援助の物資を携えエルサレムに来たのがバルナバとサウロであったでしょう。その二人がエルサレムにいたのと時を同じくして起こっていたのが12章のことでした。それはヤコブが殺されペテロが逮捕された。しかし主の御使いが頑丈な牢獄や監視を全てからペテロを解放したという出来事でした。そして解放されたペテロがまずやってきたのが「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」(12章12節)で下。そのマルコです。バルナバとサウロがエルサレムへやってきた時には二人でやってきました。しかしエルサレムからアンテオケに帰る時、そこには「マルコと呼ばれているヨハネ」も一緒であったのでした。しかし、マルコは旅行ついでにアンテオケの教会を少し訪問して帰ってくるということで伴っているのではありません。13章ではバルナバとサウロが按手を受けて宣教へと遣わされて行くことが書かれていますが、13章5節を見ますとこう書いてあります。
「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。」5節
 マルコと呼ばれるヨハネは、バルナバとパウロの「宣教を助けるために」伴っていることがわかります。ですからマルコがアンテオケ にバルナバとパウロと一緒に行ったのは、自分もアンテオケに行く用事があるからじゃあ、せっかくだから一緒にという感じではないことがわかります。ここでは彼が12章の出来事で「み言葉に仕えるための召命」を受けて、それでパウロとバルナバの弟子となったということを意味しています。つまり現代のクリスチャンが言う所の、いわゆる「献身した」ということです。

2.「「献身」ということへの誤解」
 ここで必要な余談になりますが、私は「献身」という言葉を使わず「み言葉に仕えるための召命を受けた」という言葉を使いました。もちろんそこには目的があります。それは、いわゆる現代は「献身」というと、牧師や宣教師だけのものであり、神学校に入る人だけのものだと思われていますが、しかしその考え方は聖書に従ったものとは言えません。イエスは宣教命令で、
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」マタイ28:19
 と言っています。つまり洗礼を受ける人は、皆、キリストの弟子となるのだと、イエスは言っています。ですから弟子たちを招く言葉、「わたしについてきなさい」はそれは全ての人に語られている招きです。事実、イエスは、こう言っています。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マルコ8:34
 「自分を捨てて自分の十字架を負い、わたしについてきなさい」、まさに「献身」という言葉の根拠となる言葉ですが、そこには「誰でも」とあります。「誰でもわたしについてきたいと思うなら」と。「クリスチャンはキリストの弟子である」と呼ばれることが重くて嫌だという人もいるでしょう。しかし洗礼を受けクリスチャンになったのは、イエスに「ついて行くこと」です。誰でも「イエスについて行くために」、洗礼を受けますが、それは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスについて行くこと」だとイエスは言っています。そうイエスについて行くこと、イエスの洗礼によってイエスのものとされることとは、自分を捨て、つまり、自分自身を拠り所とし、自分自身を中心にすることを捨てて、イエスを、イエスの十字架を拠り所、中心として行くことです。それはまさしく「献身」です。ですから「献身」というのは、クリスチャンがそのクリスチャンとしての歩み出した時、洗礼を受けたときから、全ての人に始まっていることだということです。つまりクリスチャンは皆、「献身者」です。決して、牧師や宣教師、神学校に入る人のことだけを指しているのではありません。なぜそのようになったのかは、詳しくはわかりませんが、古くは出家のように修道士になる制度に由来しているかもしれません。律法的な禁欲と聖い生活によってみ言葉に仕えて行くことを自ら達成して行くことで、普通の信徒とは別な存在とされて行く、それによって普通の信徒より天国や神に近くなる、そう信じられていたのでした。しかしそれは間違いであるのはいうまでもありません。むしろそのような考え方を認めてしまうと、結局は、聖書も神も、行いによって何か階級や、天国への道の段階や階級を定めているようになってしまいます。それは信仰義認ではなく、全く行為義認になり、聖書の教えと全く違ってきます。献身というのは、そのような出家で一つの上の階級を目指すことではないのです。イエスはクリスチャンは皆、神の前に等しい「献身者」であることを伝えているのです。そしてその中でパウロの手紙にあるように、教会という「キリストのからだ」において、体には手の働きや口の働きがあるように、ある人は、み言葉に仕える説教者、牧師、長老に召され、ある人々は、祈る人、献げる人、それだけではありません。教会内だけでなく、家族を養う人、社会に貢献する人などのそれぞれの召しが与えられそれぞれの働きに応じて用いられているということなのです。そこでは手は口に対して自分はあなたより偉いとか、必要ないとは言わないように、イエス・キリストの前にみな等しい、キリストの身体の一部であるということなのです。
 ですから、ここでマルコはその召命が与えらたということです。それは「献身」の召命ではありません。献身の召命は「すでに」あります。マルコは、バルナバとパウロのように「み言葉に仕える」働きの召しが与えられ、だからこそ、二人の弟子となり、ついていったということがここに描かれていることなのです。もちろん、マルコはいきなりバルナバ、パウロと同じような働きができるわけではないからこそ、二人についていき、二人の助手として歩みを始めて行くのです。それはパウロでさえもそうでした。パウロ自身は、自分は誰からも教えられずイエスから直接、教えられたとは言っており、もちろんそうなのですが、しかしそのほかにも、最初はアナニヤの助け、さらには他の使徒たちの助け、そして、何よるこのバルナバと一緒に行動することによりバルナバから学ぶことも多かったことはいうまでもありません。マルコも同じようにバルナバとパウロについて行き、そこい彼に与えられた「新しい召命」、「み言葉に仕える」という召命の歩みが始まったということなのです。

3.「召命はどこからくるのか?律法か福音か」
 しかしこのマルコにある「み言葉に仕える」召命ということについて12章全体を通じて、もう一つの大事なことを教えられるでしょう。それはその召命はどのように生まれたのかということです。つまり彼自身の力や決心なのでしょうか?パウロやバルナバの力や勧誘のゆえなのでしょうか?母親のマリヤの力や「ついて行きなさい」という勧めなのでしょうか?いずれも違います。そしてもう一つの事として、マルコは自分がそれなりに立派な信仰であったからついて行ったのでしょうか?それも違います。12章を振り返ってみましょう。
A, 「不完全で罪深い存在」
 ペテロが逮捕された時、マルコと呼ばれるヨハネの母マリヤの家にクリスチャンたちは集まり祈っていました。マルコもそこにいました。しかし、その彼らの信仰は決して完全なものではありませんでした。ペテロが門の扉をノックした時、女中のロダは、それがペテロだとわかり喜んで、他のクリスチャンたちに知らせに行きました。しかしどうであったでしょうか。12章15節でした。ロダに対してクリスチャンたちは言いました。
「彼らは「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。」12章15節
 彼らはペテロが無事に帰って来たことを信じませんでした。ロダに対して失礼にも「気が狂っているのだ」とまでも言い放っていますし、さらに「それは彼の御使いだ」とさえ言います。つまりペテロはもう死んで御使いになって現れたのだと。確かに彼らは祈っていましたが、しかし彼らの現実にとっては、ペテロはもう死んでしまっていたのでした。それほどまでの祈りと同時に、疑いや絶望の葛藤の中にあったマリヤの家の教会の人々なのですが、そこに生きているぺテロは現れるのです。そこで人々は非常に驚いたとあります。その中に当然マルコもいたわけですが、しかしその驚きの中でペテロはある行動をとっていました。
B, 「イエスがしてくださったこと(福音)を伝えた」
「しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。?」12章17節
 ペテロはまず「静かにさせ」とあります。信じられないような驚くべきことが起こって、マリヤの家のクリスチャンたちは感情的に驚き、熱狂し、喜び騒いだことでしょう。それは当然です。しかしペテロはそれを「静かにさせ」たのでした。確かに感情的熱狂や歓喜で人を導く方が簡単です。ですから、そのような手法で宣教をしたり礼拝をしたりするやり方が流行ったり、逆に静かで派手でない古典的なやり方を古めかしいから人が集まらないのだと批判する教会も確かにあります。しかしこのように、ペテロは感情的な熱狂や歓喜や覚醒作用で人々を導きません。彼は「静かにさせ」るのです。そして、ペテロは、どうしたでしょう。彼は「主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた」のでした。ペテロは「主がしてくださったこと」をそのまま「証し」したでした。そこには「主が約束してくださった言葉は真実である」という証しが必ずあったことでしょう。彼は、「自分が何をしたから」とか、「自分がどうやって抜け出した」とか、「自分がどれだけ信仰深い祈りをしていた」とか、「自分はひと時も疑っていなかった」とか自分の信仰の素晴らしさとか、自分の手柄や誇りを決して語りません。自分の栄光も語りません。彼は「主が何をしてくださったのか」をどこまでも語っているでしょう。つまり、「自分が何をしたのか」という律法ではなく、「主がしてくださったこと」ー福音を語ったということなのです。
C, 「律法ではなく福音こそ召命を与える」
 そしてまさしてその福音の言葉、主が何をしてくださったのかの言葉、主の約束は真実であるというその言葉こそ、そしてそこに働く聖霊こそが、確実に、マルコに働いていたということが、このマルコの召命と行動に繋がっているということなのです。
 マルコに与えられたその「み言葉に仕える」という召命、それは、彼の力、彼の決心では決してない。あるいはペテロやパウロやバルナバが、教会の未来を勝手に推測し、危機感を煽って「この教会はこのままだと説教者がいなくなるから、献身者が起こされなければならない。若い人、教会の危機だから献身しませんか」と、勧誘したわけでもありません。マルコの召命はそのような律法から生まれたのでは決してありません。まさにイエスが現した絶望の中からのペテロの救済という出来事について、ペテロが、人間の感情を煽るようにして語り招いたからでも、律法的に勧誘したらからではありません。「主が何をしてくださったのか」「主の約束は真実である」という福音の証、キリストについての恵みの証しと、そこに働く聖霊こそが、マルコに「み言葉に仕える」という召命を与え、バルナバとパウロについて行かせたということが、この所が伝えることなのです。
D, 「み言葉に仕えるものがいない課題について」
 みなさん。確かに神学生がいないのは事実です。そしてみ言葉に仕える者が起こされることがこの教団のとても大事なことです。そしてそのために祈ることは極めて大事なことです。しかしそれは、人間のわざ、努力、力、説得、勧誘で生まれるものでは決してありません。律法的な勧めや、未来を悲観し、危機感を煽ることによって生まれるものでも決してありません。「みことばに仕えるもの」という召命は、それはイエスが、福音の言葉を通して、聖霊の力によって、ある人の心に与える素晴らしい賜物なのです。ですから、私たちも祈り以外に、何か特別なことをするのではない、ただ「イエスが私たちに何をしてくださった」のかを福音の言葉から確信し、喜び、安心することが、この問題の大事な一歩であり、解決のカギなのです。つまりそのために、律法を語るのではなく、福音を、恵みを、主イエスが私たちに何をしてくださったのか、主イエスの約束、福音はまことに真実であると、喜びと平安を語ることこそ、イエスが導いているこの問題の道です。その時、イエスが私たちの思いをはるかに超えた素晴らしい実を結んでくださるのです。このマルコのようにです。
E, 「マルコの召命のゆえに、ヤコブの死もペテロの逮捕も決して無駄ではない」
 ですからこの一人の青年の召命を考えるなら、まさにペテロの逮捕も、いやヤコブの死さえも決して無駄ではない。ヤコブの死が、このようにマルコへの召命とへと繋がっている。これは悲しみの先にある希望ではないでしょうか。素晴らしいことです。実にイエスは、全てのことに働いて益として下さるというのは真実なことです。そして、このマルコも決して完全ではない。この後、このマルコの扱いで、パウロはペテロと袂を別つことになりますが、しかしマルコはペテロの弟子として歩み、そしてペテロの語るイエスについてそれを書き記したものがマルコの福音書として読み継がれることになるのです。イエスの計画ははかりしれません。いかなる試練も、絶望も、そして愛するものの死さえも決して無駄にはなりません。その時は分からなくても、このようにイエスの計画は果たされていきます。それがマルコがバルナバとパウロについて行ったことに現れているのです。感謝しましょう。私たちも同じイエス様の福音に生かされ、導かれているのですから。