2018年8月26日


「「罪人であり同時に聖徒」の集まり、教会」
使徒の働き 12章11〜17節

1.「はじめに」
 ヘロデ・アグリッパ王による教会への迫害が強まり、使徒の1人ヤコブが殺され、今度はペテロにまで手が及び、ペテロは逮捕され牢獄に入れられます。それは非常に頑丈な警備のもと、絶対に逃げられないような状況であったのですが、イエスはペテロのもとに御使いを遣わし、その御使いは、ペテロも思いもしないような方法で彼を牢獄から出したのでした。その時、ペテロが悟ったことは「主が御使いを遣わし、救い出してくださったのだ」と言うことでした。人の思いでは、絶対に逃げられない状況、ペテロはヤコブと同じように、王の人気取りのために処刑されるしかない状況であり、それは王側から見ても「これだけ頑丈で厳重だから、決して逃げられない、もう引き出すだけだ」という状況でありながら、イエスは、そこから人の思いや計画をはるかに超えて救い出すことができたのでした。ペテロは、早速、教会の人たちの元に向かうのです。

2.「一つの教会」
「こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へと行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。」12節
 ペテロが向かったのは「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」でした。まず「集まって祈っていた」とある通り、このマリヤの家にも人々が集まり、祈りや聖餐式が持たれていたと言われていますが、そのクリスチャンが集まり祈りとみ言葉と聖餐があるところが教会であったのでした。そのように当時の教会は立派な会堂があったわけではありません。当時の教会は、家の教会のようなもので、クリスチャンの家に集まって祈り聖餐を行いみ言葉を聞いていたのでした。それが一つではなくいくつかあったのです。そのように今もそうなのですが、「キリストを信じるものが集まりみ言葉を聞きパンを裂く」というのが、この時から変わらないキリストの教会の姿であるのです。ですからエルサレムの教会と言っても、「一つだけ」の大きな会堂、「一つだけ」の大きなグループとしてのエルサレム教会という意味ではなく、いくつかの家の教会があり、それらをまとめて一つの教会であったのです。つまり使徒信条では、「聖なる公同の教会」、英語ですと「Holy Christian church」ですが、そのように私たちは「教会は一つである」と告白しますが、初代教会はいくつかの集まりがあってもそれを別々の個別の教会とは考えなかったのです。1人のキリストの元にあっては、どれだけ集まる家が増えて広がって行っても、それはキリストにあっての一つの教会の中の同胞であったのでした。それが教会であったのです。ですから彼らにとっては、エルサレム教会とはアンテオケ の教会とか別々の組織という理解はなく、エルサレムのいくつかの家の教会も、アンテオケのいくつかの家の教会も、皆一つのキリストの教会であったのでした。だからこそ以前見てきたように礼拝と聖餐には欠かせない福音の説教者、使徒たちも、一つの集まりだけでずっと説教をするのではなく、各所を巡回していました。ここに本来の教会の姿を教えられているように思いますし、それは本当に私たちが使徒信条で告白することが、ただ言葉だけ名目だけの「公同の教会」ではなく、それこそ公同の教会、キリストが意図された真の教会だと教えられるのです。ですから、いつの時代からかどこの国で始まったのかはわかりませんが、教会同士、教団同士、教派同士が、互いに世の中の競争原理と同じように、それがあからさまだろうと心の中で密かにであろうと、何か数を競争、比較するような動機で成長を論じることが当然のように思われたり言われているのはそれは本来の教会の姿ではないと言えるでしょう。少なくともイエスの目にあってはです。この所からはそのように一つの教会ということの真理を改めて考えさせられるところではあります。

3.「「聖徒であり同時に罪人」の集まり、教会」
 さてペテロの向かったところの「マルコと呼ばれるヨハネの母の家」は、キリスト者が集まるところでした。そこでクリスチャンたちは祈っていました。もちろんペテロのことも含めて、それは日々の礼拝と聖餐の時として、多くのことを祈っていたことでしょう。そこにペテロがやってきます。
「彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出てきた。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へと駆け込み、ペテロが門の外に立っていることを皆に知らせた。」13節
 ペテロは入口の戸を叩きます。しかしそのノックする音を聞いて応対しにやってきた女中ロダは、その戸の向こう側の人間が、その声からペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門の外にいるペテロのために扉を開けないまま、そのまま奥に「扉の外にペテロがいる」と知らせに行きます。「喜びのあまり」とあるとおり、これは「喜び」の出来事です。しかし、マルコの母の家にいたクリスチャンたちは、それを聞き、
「彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは「それは彼の御使いだ。」と言っていた。」15節
 のでした。みなさん、ここから教えられる大事なことがありますね。それはこれも教会の変わることのない一つの現実の姿であるということです。教会は、信じるものの集まり、つまり「イエスによって救われた人々の集まり」だと先ほど言いました。「聖徒の集まり」です。その通りなのです。しかし同時にそれは、神や聖人の集まりではなく、人間の集まりであり、しかも完成された人々による完成された組織、完全な信仰の群れではなく神の前には罪深い一人一人の集まりなのです。
A, 「ペテロは通り抜けられない:ペテロも一人の人間」
 まずペテロも神ではなく、一人の人間であることが何よりはっきりとしています。閉ざされた戸にやってくる場面、それは復活のイエスを思い出します。復活のイエスは閉ざされた扉を通り抜けてきたとありました。しかしペテロはロダが開けなければ入ることはできません。この後も16節で「叩き続けていた」とあります。物理的な扉の前に彼は何もできません。誰かが開けないと入れません。それはまさに牢獄の出来事もそうです。牢獄、頑丈な鎖、何十もの門扉、鉄の扉、それに対して彼には何もできませんでした。しかしそこから脱出させたのはペテロ自身ではなく、イエスの遣わした御使いであり、御使いに力を与えたのはイエスの言葉、権威であるのですから、彼を救い出したのは終始、イエスであったのです。ですからはっきりとルカは記していると言えるでしょう。イエスとペテロの違いをです。使徒達を聖人化、神格化しようとするのは時代の常です。しかしペテロは神でも特別な力があるのでもない。一人の私たちと変わらない人間なのです。それに対して神はただ一人、救い主はただ一人、それはイエス・キリストであると。どんな優れた人も神の代わり、キリストの代わりには決してなり得ません。私たちの救い主、中心、頼るべきお方は、イエス・キリストただ一人なのです。
B, 「祈っていても疑う」
 そして、ここにはさらに教会は「聖徒であり同時に罪人」の集まりであることが実によく表されています。ペテロが逮捕されたとき、教会の人々は、熱心にペテロのために祈りました。それは当然、このマルコの母の家に集まっていたクリスチャンたちもそうであったでしょう。彼らは「イエスこそ助けてくださる」とイエスに希望を置いて祈っていたのです。それはもちろんイエスの福音、つまりイエスがしてくださった救いの恵みがあるからこその祈りでした。しかし何度も繰り返してきている通りです。その祈りにも信仰にも、彼ら自身の100パーセント、彼らの完全があったわけでは決してありません。いやそれは不可能です。彼らは1人の人間として、そこには当然、葛藤、迷い、心配、疑いを、覚えていたのです。そのような中で祈ったということです。それはそのような葛藤や迷い、心配や疑いを全く無くして、0にして100で祈ったということではありません。葛藤や迷い、心配、疑いを覚えながら、それでも祈った、信じたということです。ですから「信じる」と告白し、イエスこそと希望を持って祈っても、そこに葛藤も疑いが全く起こらないわけでは決してないのです。それは私たち自身、私自身の日々の実際の在り方を思えばまさにそうであることがわかるのですがここでもそうです。
 人々は、雑談をしている時ではありません。祈っているときに、ペテロは戸を叩き、ロダは知らせに来ます。しかし祈っている時であっても、彼らはロダのいうことを「気が狂っているのだ」と信じませんでした。それでも女中のロダは主張しますが、彼らは「それは彼のみ使いだ」というのです。「ペテロの御使い」、つまりそれは、彼らはペテロはやはり殺され、死んで、御使いとなって現れたのだと思っているわけです。熱心に祈っていながら、彼らは生きて帰ってくるとは微塵にも思っていません。なぜなら人間の考えや推測や確率で、確かに捕らえられている状況の絶望感からいえば、ペテロが死ぬことが何よりも予想できることであったからです。そうなのです。「祈りの人々」であっても、そのような人間的な知恵や推測や計算からは決して自由ではない、むしろ縛られていて信じることができないのです。彼らの祈りも、信仰も、どこまでも不完全だということがここにはっきりとわかります。
C, 「イエスのゆえに罪深くとも聖いとされる」
 しかしだからこそ、救いというのがどこまでも私たちの思いを超えたものであり、私たちの力や努力、行いでは決して得ることのできない、どこまでも一方的な上からの恵みであり、キリストのみが私たちに現わしてくださるものであるということです。そう、私たち人間は神の前にどこまでも罪人で不完全であり、私たちの側では、たとえクリスチャンであっても信じることも祈ることさえも不完全です。聖いものも完全さも何もありません。しかしイエスはこう言っています。「あなた方は、わたしがあなた方に話したことばによってもうきよいのです」ヨハネ15章3節
と。みなさん驚くべきことばです。これは最後の晩餐の席です。イエスが逮捕され十字架にかけられる直前です。つまり彼らはこの後、ゲッセマネでは、イエスが祈っているときに眠り、イエスが逮捕される時、皆逃げる一人一人です。もちろんそこには、イエスを三度知らないというペテロもいます。しかしイエスはそのことをしっかりとご存知の上で、この言葉を言っているのです。
「あなた方は、わたしがあなた方に話したことばによってもうきよいのです。」
 と。「もうきよい」と言っています。「すでにきよいのだ」と。しかし、それは、あなた方が一生懸命についてきたから、あなた方が完全に立派に信じたから、完全な立派な祈りをできるようになったから、行いが立派だから「すでにきよい」とは決して言っていません。むしろ彼らの行いだけを見るなら、使徒たちは皆裏切ること、ペテロは三度知らないということをイエスはみんな知っています。しかしなぜそんな彼らがそれでも「すでにきよい」のでしょう。それは「わたしがあなた方に話したことばによって」とあります。その言葉は「十字架と復活の約束」のことです。つまり使徒たちではなく、全てイエスがなさることであり、イエスが十字架にかかって死によみがえる、そこに神の国が心の貧しい人にこそ開かれることこそをイエスは福音、約束として語ってきたということです。その約束のゆえに、福音のゆえに、イエスご自身とその十字架と復活のゆえにこそ、「あなた方はすでにきよいのだ」と、裏切る前の使徒たちに言っているということは実に意味深いことです。いやこれこそ福音の素晴らしさ、福音の核心部分です。ヨハネ17章10節でも「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみ言葉は真理です」とも言っています。つまり「道であり命であり真理であるイエスこそ、私たちを聖と言ってくださる、だからこそ、私たちは聖い、聖徒なのだ」ということです。それは私たちに聖さ、救いの原因や力や貢献が少しでもあるということとは全く逆です。私たち自身は、どこまでも罪深い。それは「信じている」と言っている時も、祈っている時も、礼拝している時も、このように説教している時、説教している本人でさもです。しかしそれでもイエスが、私たちをイエスの真理のゆえに、福音のゆえに、十字架のゆえに、私たちを聖いと宣言してくださる。だからこそ、私たちは「罪人であり、同時に、聖徒」なのです。その聖さは私たち自身のゆえでは一切ない。私たちにあるのは神の前にただ罪だけです。しかしただ聖なるイエスのゆえにこそ、私たちも聖と認められるのです。何かを私たちがしたからではない。一方的な恵みとしてです。
D, 「弱っているからこそ、そこに恵みが」
 この所でもまさに、そんな祈りつつも、信じられない、自分たちの推測でペテロは死んだと決めつけているそんな彼らの元に、イエスはペテロを導いています。つまり「そんな疑うあなた方の元に、神の栄光を見せない」とは決してイエスは言われない。むしろ逆でしょう。それほどまでに絶望し、ペテロは死んだと決めつけていた、弱い彼らのためにこそイエスは御使いを通してペテロを現しました。そして事実、彼らは、開かれた扉の向こう側にペテロの姿を見るわけです。それは非常な驚きです。しかし17節、そこでペテロは、彼らにその素晴らしいイエスの恵みのわざを語っているでしょう。それはその信じていなかった彼らをさらに力づけます。これこそがイエスのなそうとすることだったのです。

4.「信仰の歩みは、律法ではなく福音」
 みなさん、私たちは「祈りの幸い」、「信じる幸い」に生かされています。しかし何度も言うように、祈りも、信仰も、決して「しなければいけない」と言う律法ではありません。いや律法としてはいけないし、律法とはできないものです。律法による信仰生活は福音との矛盾に導き、どんどん疲れ、平安がなくなり、愛がなくなります。しかしイエスは私たちを福音によって福音による生き方こそを与えてくださったでしょう。それは私たちのなすこと、祈り、信じることさえも、たとえ不完全であっても、どんなに小さくとも、しかしイエスは、私たちにある聖さではなく、ただイエスご自身の聖さ、イエスの十字架、イエスの福音、イエスのわざのゆえに、一方的に私たちに救いの恵みを絶えず与えてくださる生き方です。イエスは「それでもあなた方はわたしのゆえにきよい」と言ってくださるのです。私たちの信仰の歩みは、そのことをそのまま受け止め、罪深いまま、不完全なままでその憐れみ、恵みにすがること、十字架のイエスを受けることです。そのように受け止め恵みによって立ち上がるからこそ、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」イエスのみ言葉の宣言によって、安心して、希望のうちに、遣わされていくのです。どんなに罪深いものであってもです。」