2018年8月12日


「キリストこそ希望」
使徒の働き 12章1〜5節

1.「はじめに」
 前回は、11章の終わりのところを見てきました。世界的な大飢饉の中、外国人クリスチャンが多いアンテオケの教会は、自分たちもその飢饉の影響を受けているにも関わらず、ユダヤの教会のために、それぞれの力に応じて、救援の物資を集めて送ったのでしたが、それは「律法」を動機にして行われたのではなく、それまで導いてきたイエス・キリストの恵みを見て喜び、福音によって心を堅く保ち、常に主に留まっていたことによる、福音を動機にし、福音から生まれた愛の行為であったという幸いを見てきたのでした。12章では、最初の言葉が「そのころ」と始まっていることからわかるように、その救援物資を送られる、飢饉の只中にあるエルサレム教会の様子から始まって行きます。

2.「ヤコブの殉教」
「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」1〜2節
 「そのころ」とあることからわかるように、エルサレムの教会は、まだ世界的な大飢饉の只中です。アンテオケの教会からの救援物資が送られてくる状況ですから、他の地域よりも飢饉の影響は大きかったことでしょう。しかしそのような困難の中、さらなる困難に彼らは直面させられます。この「ヘロデ王」、ヘロデ・アグリッパ1世は、ヘロデ大王の孫に当たり、当時のこの地域を支配していたローマ帝国から承認され、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの王として建てられた人でした。イエスが逮捕された時の「ヘロデ」は、ヘロデ・アンティパスで、このアグリッパの義理の兄弟になりますが、アグリッパは、アンティパスのローマへの謀反をローマへ告発しアンティパスを追放して、その領土を得て王になったという歴史的経緯もあります。そのヘロデ・アグリッパ王が使徒の一人、ヤコブを剣で殺してしたのでした。ヤコブは使徒のヨハネの兄弟であり、そしてかつてイエスに連れられて山に登り、イエスがエリヤとモーセと対面した「変貌の山」の出来事を目撃し、またゲッセマネの祈りの時も、イエスに連れられて行った一人です。ですからペテロやヨハネ同様、イエスの側近のようにそばにいた使徒の一人でした。そのヤコブがヘロデによって殺されます。そしてヘロデは今度はペテロにも手を伸ばし逮捕するのです。

3.「ユダヤ人に気に入られるため」
「それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは種無しパンの祝いの時期であった。」3節
 「それ」というのは、ヤコブを剣で殺したことです。そのヤコブを殺したことが、
「ユダヤ人の気に入ったのを見て」とあります。そこにヘロデの教会迫害の動機があるようです。ヘロデ一族は、長くこの地域の王でありながらも、ローマ帝国に認められての王であり、その彼らがローマとの繋がりの強さから、ユダヤ人たちには大変、人気がなかったのでした。ヘロデ・アグリッパも同じように人気がなかったかどうかはわかりませんが、しかし彼はユダヤ人に「気に入られる」かどうかを気にしていることは良くわかります。ヤコブの殺害が「教会のある人々を苦しめようとして」とあるのが具体的にどのようなことなのかわかりませんが、動機は「ユダヤ人からの支持」を集めるためか保持するためであったようです。彼は、以前、ユダヤ、特にエルサレムのユダヤ人の多く、とりわけユダヤ人の主教指導者たちがイエスを拒み、嫌い逮捕し、ピラトに引き渡し有罪にし十字架につけたことや、それを支持していたこと、そして、その後もキリストの弟子たちや教会を迫害していたことをよく知っていました。ですからユダヤ人の支持を集めるために、キリストの教会は格好の材料であったことでしょう。ですからヘロデ・アグリッパは「教会を苦しめるため」にはまさに大打撃になるであろう、そのキリストの弟子の中でも主要な三人のうちの一人ヤコブに手を出し殺し、それが願い通りに「ユダヤ人たちの気にいった」ので今度はペテロへと手を出すのです。しかも狙ったのか偶然なのかわかりませんが、イエスの十字架と同じように過越の祭の時期にペテロは逮捕されるのです。

4.「エルサレム教会の試練」
「ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡し監視させた。それは過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。」4?5節
 復活とイエスの約束の通りに聖霊が与えられたことによって始まったキリストの教会、エルサレムの教会、確かに多くのユダヤ人が救われました。しかしその歩みは、常に試練と苦難の連続です。しかもそれは、イエスが与えてくださった「福音が語られる」ことをきっかけにして起こります。ペテロとヨハネの最初の逮捕も、美しの門での癒しと、そのことを証しとして「イエスの名」を語ったことによって逮捕されました。そしてステパノの処刑も、やはり最初はステパノが恵みと力に満ち、知恵と御霊によってイエスのことを語っていたことをきっかけとしています(6章)。そしてこのステパノのことをきっかけにして、エルサレム教会には大きな迫害が起こり教会は散らされることになります。もちろん見てきた通り、この散らされたことをきっかけにユダヤ以外のところにキリストは伝えられるようになり、人の思いや計画をはるかに超えたイエスの恵みの導きによって、コルネリオをはじめとして異邦人への福音の宣教の道が開かれたのです。またこの間にはサウロの劇的なイエスとの出会いと回心もありました。しかしエルサレム教会は、迫害によって多くの兄弟姉妹が牢獄に入られたり、散らされた縮小し、それだけではありません。ここにあるとおり、ヘロデ・アグリッパがユダヤ人の支持を得るために教会を狙うということをすぐに考えるほどです。未だユダヤ人社会からは嫌われていて、物理的、精神的な阻害や迫害は絶えなかったことをうかがい知ることができます。その上、世界的な飢饉です。同じように飢饉の影響があるであろうアンテオケの教会から支援を受けるほど、ユダヤ地方の飢饉は深刻であったと思われるます。おそらくユダヤ地方の飢饉があまりにも深刻で物が不足していたらこそ、ローマへの不満を言えない市民の不平は高まっているのをヘロデ・アグリッパは恐れたことでしょう。その社会の不満のはけ口としてキリストの教会は利用されたとも言えます。その結果が、愛する兄弟ヤコブの死です。理不尽で大きな悲しみです。そしてその悲しみの中、ペテロまで逮捕されます。

5.「人の目には理解できないことであっても」
 このように背後では異邦人宣教というイエスの素晴らしい恵みの計画が進められていたにせよ、エルサレム教会は苦難が止むことがないのです。それは人間の感情でいうなら「なぜ?」「どうして?」の連続です。しかも悲しみも癒えないような短い時間で、答えが全く出ないままで、次々と「なぜ?」という状況が襲いかかってきます。彼らはイエスの福音を忠実に証しし宣教してきたのにも関わらずにです。それは人間的な感情では「一生懸命、福音を語ってきたのに、信じて忍耐してやってきたのに「なぜまた?」」そう思いたくもなります。世の人々の「一生懸命やれば成功する、報われる、上手くいく」という期待や価値観、合理性に照らせば、全く理解できないことです。そう、私たちの知恵や理性や考えた期待で見るなら、この状況は「躓き」でしかありません。しかしです、5節の終わり、教会は何をしたとあるでしょうか?「忍耐しても忍耐しても、期待通り、思い通りにならないから、信仰もキリストも偽りだ」と言ったでしょうか?「頑張っても成功しないから、上手くいかないから、この宗教はやめよう」となったでしょうか?「合理的ではない、理性には合わない、だからこの信仰は捨てよう」になったでしょうか?あるいは「じゃあ、みんなで蜂起をして力と行動でヤコブの復讐をしよう、ペテロを救い出そう」となったでしょうか?そうは書かれていません。教会は
「彼のために、神に熱心に祈り続けていた」
と、あります。教会は神に祈り続けたのでした。それでも教会において変わることのない力の源と希望があったということです。それはキリストです。ここで注意したいのは、彼らは「もうなすべきことがないでの「祈ることしかできなかった」」という消極的な意味ではないということです。「熱心に」とあるように、彼らには「キリストこそ」であったということです。もちろん人間ですから、様々な心配や恐れ、矛盾を覚えるなど葛藤や戦いは当然あったのです。しかしそのような心配や葛藤を覚えたとしても、それに勝るキリストの恵みと導きの確かさを彼らは信じていたし、それこそ拠り所であったということがこの祈りには現れています。その希望は、何でしょうか?どうすればその希望が分かり、得られるのでしょうか?それは人間の合理性や価値観では決して計り知ることはできません。「一生懸命やれば機体通り、思い描いた通りになる、成功する、上手くいく」という律法の目線ではその希望は決してわからずつまづきとなります。しかし彼らにとってその希望はその合理的、理性的、感情的には全く理解できな困難な状況の中でも心配や葛藤に優ってイエスの恵みは揺るぎなく確かだという「信仰による希望」だったのです。

6.「キリストが人の思いを超えて働いていた証し」
 思い出しましょう。まず11章です。確かにエルサレム教会は不完全な教会です。ペテロが異邦人に洗礼を授けたことを最初は非難しました。しかしペテロに現されたイエスの不思議な導きと恵みによってコルネリオの洗礼があったことを知り、彼らは「「神はいのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って神をほめたたえた」とあったでしょう(11章18節)。律法を超えて働かれたイエスの恵みに彼らの非難の口は賛美の声に変えられています。イエスの恵みの確かさにたち帰らされたからこそです。そしてアンテオケでも沢山のギリシャ人が信じたことを受けて、エルサレム教会は聖霊と信仰に満ちた福音の説教者バルナバを送っています。そしてそのアンテオケの異邦人クリスチャンたちが飢饉の中で送ってくれた愛のわざである救援物資も、エルサレムの教会の兄弟姉妹を肉体的にも精神的にも力づけたでしょう。けれどもそれだけでなく、異邦人クリスチャンたちからの贈り物は、何より、あのステパノの処刑で散らされたことから全て始まっているとあったわけですから、改めてそこにある神の恵みを覚えさせられたことでしょう。いやそれだけでありません。迫害者サウロにイエスが現れてサウロを回心させ、宣教者に変えたことも、人の思いや感情では計り知れない神の恵みでしたし、いま触れたように、ステパノの処刑や、迫害、散らされたことにおいても、それによって各地に福音が広がっていたという彼らの思いをはるかに超えたイエスの恵みのわざの知らせを彼らは受けていました。そして何より、イエスの十字架と復活こそ確かなものではありませんか。こんな罪深いものを裁くのでも、見捨てるのでもなく、イエスはご自身の命を与えるほどに愛してくださり、罪の赦しを与えてくださった。あの処刑が、あの打ち傷、あの死が、自分に新しいいのちと平安と希望を自由を与えてくださった。それは何にも勝る神の恵みであり、信仰の核心部分です。

7.「キリストこそ希望」
 そのように迫害が絶えない、困難、試練が絶えない、人の理性や感情では「なぜ?」と理解できないことの連続であるエルサレム教会であったとしても、そこから始まった教会と福音が、自分たちの力や知恵ではない、まさに十字架の救い主であるイエスの計画と実行、そこにある圧倒的な恵みによって、着実に、何ら無駄になることなく広がっていっていることを、エルサレム教会のクリスチャンたちは何度も知らされたからこそ、いや、その恵みの証し、キリストの証しこそ確かであり、揺るぎないものであったからこそ、彼らは、このペテロの逮捕の状況でも、「祈るしかない」という消極的な動機ではない、「キリストこそ希望である」と熱心に祈り続けることに導かれたのでした。
 皆さん、この逆境、この先が見えない困難の連続の中にあっての、この強さ、この希望こそ、私たちが与えられている信仰の素晴らしさだということです。それは自分たちでは作り出す事はおろか、自分たちで獲得できるものでもありません。自分たちの努力で信じることができることでもありません。それはイエスが与えてくださっている恵みであり賜物です。ですからそれは「祈らなければいけない」「自分たちで熱心にやれば到達できる」という律法では決してありません。祈りが律法になると、結局は、他になすべき手段がなく、最後の手段として「祈るしかない」「祈らなければいけない」という消極的な祈りになってしまいます。私たちにイエスが与えてくださった賜物としての信仰も祈りも、イエスによるものであるなら、それは強いものであり「キリストこそ」という積極的なものです。それは信仰の賜物であり、その祈りへと導き、溢れさせるのは、やはり福音であり、イエスが私たちのためにしてくださった恵みを覚え、福音に生かされればこそです。真の祈りはそこに生まれるのです。
 この所から教えられます。私たちは常に困難の中におかれます。それは私たちも絶えることがありません。それは死に至るまで続くことです。しかしその困難や苦しみ、試練を、律法の目や、理性、合理性の目、感情の目、世の中の価値観や期待の目でみるなら、不合理、不条理、「なぜ?」のまま、答えを見ることがなく、たえず平安はないでしょう。しかし、同じ苦しみの中にあったとしても、十字架と復活のイエス、そのイエスの福音、イエスの約束に聞き、学び、イエスが私たちにしてくださったこと、してくださっていることを気づかされ、見、立ち返るなら、同じ困難の中にあっても、そこには賛美があります。平安があります。自由があります。そして希望が耐えることがありません。そして最終手段としての「祈るしかない」の祈りではなく、「キリストこそ」の祈りが生まれるのです。それがイエスが与えてくださっている信仰の強さです。それは律法、私たちの努力では得られません。イエスが福音によって与えてくださるものであり、今日も明日も、いつでもイエスは与え続けてくれるのです。今日も福音を受けましょう。そして、ぜひイエスにあって、救いの平安を受け、安心してここから出て行こうではありませんか。