2018年8月5日


「福音から生まれる隣人への愛」
使徒の働き 11章27〜30節

1.「はじめに:前回まで」
 ユダヤ人だけへの福音の宣教であったものが世界へと広がっていきます。それは教会や使徒たちの知恵や力を振り絞って戦略的に広がっていったということではありませんでした。それは人から出たことでは決してなく、イエスが、弟子の殉教や迫害や教会が散らされるという大きな試練さえも用いて、語りかけ導くことによって実現されて行った「恵みの出来事」でした。多くのギリシャ人が信じたというアンテオケに遣わされたバルナバはそのアンテオケでも人の思いをはるかに超えた神の恵みによって異邦人にも福音が伝えられたことを改めて見せられます。バルナバはその恵みを感謝し、アンテオケの教会に福音の説教を語り、そのバルナバの語る福音の説教を聞きユダヤ人クリスチャンと異邦人のクリスチャンはともに礼拝をし、心を堅く保ちキリストの恵みに留まり続けたのでした。
 そのようにキリストの恵みに留まり福音によって歩んでいくアンテオケの教会も、エルサレム教会となんら変わるところはなく、日々礼拝をし福音を聞き祈りの日々を歩んでいくのですが、しかし神の恵みにあって福音に生かされていく教会は、危機の中にある兄弟姉妹のために隣人愛へと導かれ用いられていくのです。

2.「預言者の伝える世界的大飢饉」
「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下ってきた。」27節
 「預言者」とありますが、それは現代のオカルトでいわれるような「予言者」とは違います。オカルトの予言者は「予め」起こることが見えて伝えますが、この聖書の「預言者」は神から「言葉」を預かって人々に伝えるという意味の預言者です。旧約聖書にはたえず登場しますが、初代教会でもそのような「預言者」と呼ばれる人々がまだいたのでした。当時、新約聖書がまだない時代であり、使徒たちの証しのみがイエスの福音についての証言でした。そのような中で「預言者」という人々にイエスはみことばを与えることによって、彼らを用いてきたことがうかがい知ることができます。そのエルサレムの「預言者たち」がアンテオケにやってくるのです。その中の一人、アガボという預言者ですが、
「その中の一人でアガボという人が立って、世界中に飢饉が起こると御霊によって預言したが、果たしてそれがクラウディオの治世に起こった。」28節
 預言者アガボは、自分の思いや自分の心に湧いたことを言ったのではなく、ここで「御霊によって」預言したとあります。「御霊」は聖霊、キリストの霊でありますから、まさにキリストの言葉を預かって人々に伝えたということなのですが、アガボが語ることは「世界中に飢饉が起こる」ということでした。「世界中」というのは私たちが考えるような地球上全体という意味ではありません。この当時の世界は、ローマ帝国の支配下にある世界と、メソポタミア地域の世界です。しかしその広い地域全体に飢饉が起こるということを預言したのでした。そしてそれは御霊による預言、つまりキリストから預かった言葉ですからその通りに起こることになります。しかしそれは「全世界」ですから、当然、アンテオケのあるシリア地方も例外ではないということを私たちは見落としてなりません。つまりアンテオケの兄弟自体も、飢饉の影響を受けていないのではなく、当然、受けていて、彼らもその苦しみと忍耐の中に置かれていたのです。しかし、このアンテオケの弟子たち、つまりギリシャ人の洗礼者も含めた、クリスチャンたちはどうするでしょうか。

3.「ユダヤの兄弟たちのために」
「そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」29節
 弟子たちは、ユダヤに住んでいる兄弟たちへ救援の物を送ることを決めたのでした。先ほど触れましたように、アンテオケの地域が飢饉を免れていたわけではありません。「世界中」ともあるとおり、アンテオケも飢饉のただ中なのです。もちろんシルクロードの出発の都市として貿易と流通の街ですから各地から物資が入ってくるところではあったでしょう。しかし飢饉の影響は世界中ですから貿易にも影響が出ないわけがありません。他と比べれば街には物があり自分たちが食べる分はあったかもしれなくても、決して豊かとは言えない状況ではあったでしょう。しかしそのような中で彼らは、自分たちよりもひどい状況にあるであろうユダヤ地方にいる兄弟のことを思いました。そして彼らは「それぞれの力に応じて」、つまり決められた量や数ではなく、「自分のできること」「与えられているものの中から応じて」ユダヤの兄弟たちのために救援物資を送ることを決めたのでした。そしてその決めたことを、
A, 「神からの愛は私たちから隣人へ」
「彼らはそれを実行して、バルナバとサウルの手によって長老たちに送った」30節
 のでした。アンテオケの兄弟姉妹、そこには散らされた外国人クリスチャンたちや、彼らによって導かれたギリシャ人も沢山いました。彼らは26節にありますように、福音によって固く心を保ち神の恵みにとどまっていたわけですが、彼らのその福音によって満たされた心、神からの愛は、そのように隣人へと向いていったことがわかります。この「隣人を愛していく」ということ、それもイエスが私たちに与えてくださっているクリスチャンの大事な召しです。それは「大事ではない」ということは決してありません。イエスが言っている通り極めて大事なことです。いやむしろ私たちは神の愛を知っているものであるなら、その神から受けた愛は、神にではなく、隣人、いや敵にさえへと向いていくことこそ、イエスが教えていることでもあります。あの良きサマリヤ人への話をイエスは語ることによって、律法の中で一番大事な「神を愛し、隣人を愛すること」とはどういうことであるのかを説明したでしょう。そこで「神を愛し、隣人を愛すること」というのは、サマリヤ人とっては敵であり自分たちを見下す相手であるユダヤ人に無償の善意を表し、施しをすることだとイエスは伝えたのでした。そして他のところでは「この小さなものにしたことは、わたしにしたのです」ともイエスは言っています。神に愛されたものは、神に愛を返していくと考えがちです。もちろん神を愛していくのですが、しかしその神への愛の具体的な形というのは、むしろ、神からの愛を隣人へと向けていくことにこそ現れることをイエスは示唆しています。そして、事実、イエスの十字架に表された愛は、それは、罪人への愛であり、自分を裏切り、自分から逃げ、自分を三度知らないという弟子たち、そればかりではなく、自分を罵り、鞭打つもののためへの愛ことして、十字架があったでしょう。そのように、隣人愛はクリスチャン一人一人に与えられている大事な召しです。隣人を愛することこそ、神から私たちに与えられている愛への最高の応答なのです。教会は決して軽んじないし、軽んじてはならないことです。
B, 「「信仰のみを強調すると隣人愛は軽んじられる」という誤解」
 しかし、それはよく言われるように、「福音を強調し、「信仰のみ」を強調すると、隣人愛が軽んじている、隣人愛が軽んじられる」というような「どちらか」の議論になりがちですが、それは大きな間違いです。ルター派は、よくそのような誤解や偏見の批判に晒されますね。「ルターは「信仰義認」「信仰のみ」を強調したから、行いを軽んじたんだ。ルーテル教会は行いや隣人愛を強調しないんだ」と。それは大きな誤解ですね。そんなことはありません。福音強調と隣人愛、「信仰のみ」と隣人愛も決して対立しません。むしろ「どちらか」で論じようとすること自体が、福音も「信仰のみ」も正しく理解していない可能性がありますね。何度も言いますが、福音強調と隣人愛、「信仰のみ」と隣人愛も決して矛盾も相対立もしません。むしろ真の福音は、隣人愛を溢れさせます。真の「信仰のみ」の理解は、真の隣人愛への理解へと導くのです。
C,「それぞれの力に応じて:強いられてではなく。福音から」
 まず、このところ、クリスチャンたちは、このところで「それぞれの力に応じて」行なったということが大事な点です。それは先ほども言いましたように上から「決められたこと」や「強いられて」もなければ「義務」や「達成目標」ではなく、「自分のできること」「与えられているものの中から応じて」行なった「自由な行為」ということを意味しています。つまり、隣人愛はイエスから与えられた召しであっても、彼らの動機は決して律法ではなかったということです。「しなければいけないからした」のではなく、ただ純粋にユダヤの苦しめる兄弟が苦しんでおり、必要を覚えているからした行為であるということです。ではそのように、自分たちも十分ではなく、飢饉の影響を受けている中で、それでもそのような思い、そのような愛に促した原因、しかも教会や指導者から強いられてでもないのに、それぞれができる限りのことをし、それをまとめて、一致して送ることができたその原因は何であるかと言うことです。つまり真の動機はどこにあるのかと言うことです。それは、福音から出ているものに他なりません。
 このところは、だからこそ前回のところから続いていることして書かれています。バルナバを始め、アンテオケのクリスチャンたちは、自分たちの教会にあるのは神の恵みの他ないことこそ告白せざるを得ませんでした。その「神の恵み」が先にあるからこそ、バルナバは、福音によって心を固く保ち神の恵みにとどまり続けるようにと励ましているでしょう。信仰もその歩みもどこまでも福音から生まれ、福音によって進ませられると見てきました。その延長線上にこそ、この隣人愛はあるということです。
D, 「真の隣人愛は律法からはわからない」
 神の恵みを覚えるからこそ、神の愛がますますわかります。逆に神の愛は、律法からは決してわかりません。神の真の愛を知るには、神の恵み、つまり十字架と復活、福音に生かされることなくしてありえません。ですから強いられてではない、自由で平安で、進んでなされる真の行いや奉仕や愛を聖書は教えていますが、それは、実は「しなければいけない」と言う律法からは決して生まれないのです。律法から「強いられての行い」は生まれるかもしれませんが、それは自由で平安で、進んでなされる、聖書の教える真の行い、奉仕、隣人愛とは全く異なります。律法は実は真の愛を生まないし、本当の良きわざも生じさせることはできないのです。ですから「信仰のみ」と隣人愛を相対立するもの、つまり「一方を強調するから他方は軽んじられる」という「どちらか」として理解するのは、それは隣人愛を律法として理解していることからきていますし、そしてそれは矛盾するし、福音も「信仰義認」や「信仰のみ」も、救いも、まったく間違って理解していることになりますね。そうではない、福音に真に生かされ、神の恵みである「信仰義認」「信仰のみ」に立つときこそ、真の隣人愛は溢れ出てくる。それは「でなければならない」ではなく、泉のように湧き出てくるものです。自由で平安な愛のわざとして。それこそ聖書が、何よりイエスが教える、そして、この福音によって心を固く保ち、神の恵みにとどまり続けたアンテオケの教会に生まれた、強いられてではない自由な救援活動、愛のわざなのです。このように福音の強調と隣人愛。「信仰のみ」と隣人愛は決して矛盾しない。相対立しない。むしろ福音も「信仰のみ」も、隣人愛、良い行いへの真の動機、イエスからの賜物。イエスが福音を通して、私たちに泉のごとく湧き上がらさるものなのです。
E, 「福音から生じる愛の実」
 ですから、教会にある真の隣人愛は、福音から出ていることであるので誰も裁きません。「あの人はしていない。自分ばっかり」と言う声も出てきません。罵られても罵り返さず、右手のしていることは左手にも知られずにです。見返りも期待しません。なぜなら福音を動機にしているからです。「何かを受けるためにする」のではなく「すでに受けたから」の理由で、自由と平安によって、自発的に行なっているからです。そして福音から出ていることは、裁きあいませんから、それぞれができることであっても一致して行うことができます。「それぞれができること」ですから、当然、そこには本当にわずかな人もいるでしょうし、できない人もいたことでしょう。しかしそれでも一致して行えるのは、それは自分たちの律法のわざではなく、福音から出たキリストのわざであるとわかるからです。自分たちのなす自分たちの功績となると、してない人に強いるようになります。裁くようになります。そのようにして確かに形として表面的には物資として送ることができても、教会に福音はありません。愛の行為なのに教会内に愛はない。矛盾することになります。それぞれ皆、性格や価値観、持っているものも、育ちも、文化も国籍も違う中で、真の一致は、福音だけが作ることができます。律法の作る一致は、真の一致ではなく、強制による一致であり、それは平安がありません。福音だけが、異なるものを皆、互いに受け入れ、愛し、赦し、真に一致させ、真の愛の物資を送ることができるのです。

4.「「新しい戒め」は福音によって」
 最後に、イエスはヨハネの福音書の「新しい戒めを与えます」のところで言っているではありませんか?確かにイエスは「あなた方は互いに愛し合いなさい」と言っていますが、しかしこの「戒め」は「わたしがあなた方を愛したように」と言う大事な言葉があってこその戒めですね。つまり「イエスが私たちを愛してくださったように」だと。それはイエスの愛がわからなければ、愛することができないと言う意味です。イエスの愛、十字架と復活、福音こそ、私たちに愛を生じさせると言う意味です。このように「戒め」とありながら、十戒のような律法ではない。それは福音だと言うことです。福音から始まっていくと言うことです。私たちは、ぜひ隣人愛の召命を大事にしていきましょう。そのために用いられることを祈っていきましょう。しかしそれは、福音とは別、「信仰のみ」とは別ではなく、律法ではなく、私たちがまず福音に聞き、イエスから溢れるばかりの愛を受けて救われた。罪赦されて、安心してここから出ていくことができるということから生まれ、始まっていくことをぜひ覚え、そしてその恵みを感謝しましょう。そしてその希望を告白し、求めて行きましょう。イエスは私たちをも豊かに用いてくださるのですから。