2018年7月29日


「神の恵みを見て喜び」
使徒の働き 11章22〜26節

1.「はじめに」
 イエスの計画であり約束であった「異邦人、全世界への福音への宣教」がどのようにして実現していったのかを見ています。それは「「使徒達が」その知恵と知識と力を振り絞って、彼ら自らで切り開いていった」というものとは違いました。むしろ使徒達や最初のクリスチャン達は、律法では「異邦人と交わってはいけない」とあるからと、異邦人への福音の宣教はしませんでした。それはイエスが「あらゆる国の人々」「地の果てまで」と言っていたにも関わらずにです。弟子たち自身はその律法を超えることができなかったのです。しかしその人が超えられない「壁」を越えさせたのはイエスご自身でした。「イエスご自身が」人の目にあっては災いであり望まない、ステパノの死や迫害や散らされるということにさえも働き、そして「イエスご自身が」ペテロや、そのほかの弟子達に語りかけることによって、「イエスご自身が」その異邦人への宣教の道を開いていったのでした。宣教の道のりは、まさしく「全てが神の恵み」であったということが使徒の働きが私たちに証しするメッセージであったのでした。
 それが律法を超え、自分たちの思いや計算さえもはるかに超えたイエスの素晴らしい恵みの働きであったらこそ、それまではユダヤ人以外には福音を伝えていなかった人々の頑なな心や彼らのペテロを非難の言葉さえも、喜びと賛美の言葉へと変えました。そのようにして異邦人への宣教は、「キリストの恵みのうちに」さらに前進していく事になり、前回、アンテオケにやってきた外国生まれのユダヤ人クリスチャン達によって、ギリシャ人にも福音が語られ、沢山のギリシャ人がイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのでした。そしてその知らせは、エルサレム教会に届きます。

2.「キプロス出身のバルナバ」
「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。」22節
 バルナバは自分の全財産を献げて、兄弟姉妹との教会での共同生活に入っていた一人であり「慰めの子」と呼ばれていました。しかしここで思い出されることは、彼は「キプロス生まれのユダヤ人」とありました(4:36)。11章19節には、教会が迫害によって散らされた時に、散らされた弟子達は、地中海に面する、キプロスにも進んでいったとあります。なぜ進んで行ったのでしょう。それはその中にはバルナバのようなキプロス生まれのユダヤ人が他にいたからこそ、キプロスに進んで行ったとも言えます。そしてそのようにしてやってきたそのキプロスでも、散らされた人々がキプロス生まれのユダヤ人達に福音を語る事によって、さらに救われるユダヤ人が起こされたことでしょう。その同じキプロス生まれのユダヤ人クリスチャン達が複数アンテオケに行ったと言うことです。その時に、そのような外国生まれのユダヤ人クリスチャン達こそが、それまではユダヤ人達だけに伝えていた福音を、ギリシャ人達にも伝えて行ったのでした。エルサレム教会は、そのアンテオケで起こったギリシャ人の救いの詳細な知らせを受け、このバルナバを遣わしているのす。「キプロス出身のバルナバ」こそ、同じギリシャ文化のなかで生まれ育ち、ギリシャ人のことをよく知っており、そして何より「聖霊と信仰に満ちて」いる弟子であり、つまりイエス・キリストを正しく伝えられる人物だからこそ、教会は彼をアンテオケに送ったと言えるでしょう。主はこの時のために、つまり、このように異邦人宣教のために、バルナバを召していたという不思議な導きもここで見えてくるのではないでしょうか?そのようなバルナバですが、アンテオケについたときです。

3.「神の恵みを見て」
「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、皆が心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。大勢の人が主に導かれた。」23節
 バルナバが、アンテオケについたときに、彼がそのアンテオケの教会に見たのは一体何であったでしょうか?それは人の功績や努力でしょうか?「よくぞあなた方は律法の壁を打ち破りギリシャ人に伝えてくれた」と、外国生まれのユダヤ人クリスチャン達の功績を褒め称えたのでしょうか。そうではありません。バルナバが見て、確信させられ、賛美させられたのは、神の恵みでした。彼は、そこで外国出身のユダヤ人クリスチャン達を用いて働かれたイエスの奇しい恵みこそを見て、アンテオケの兄弟達ととともに喜んだのです。バルナバはもちろん、エルサレムにいる時に、それまでのペテロとコルネリオに起こった出来事、つまりそこにイエスが働いていて、異邦人であるコルネリオとその家族や部下達にも洗礼が与えられたということを予め聞いていた事でしょう。それは見てきたように、ペテロ自身の知恵や行動力によってなされたものではなく、教会の中でそれまで閉ざされていた異邦人宣教の壁が、イエスの言葉と導きによって打ち破られた、まさに恵みの出来事であったのですが、バルナバは、それがコルネリオのいるカイザリアだけでなく、このアンテオケと言う別の地でも、同じようにイエスの福音が生き生きと力強く働いており一貫した御心で異邦人宣教をさらに進められるイエスを認めざるを得なかったのです。そしてそれが全く初めから「イエスの恵みのわざ」であると言う事は、19節にありましたように、それがステパノのこと、そこから起こった迫害、散らされることからはじまっていたということを、知れば知るほど否定できないものになったことでしょう。

4.「すべてのことを益とされる主」
 どうでしょう。ステパノの処刑、それをきっかけに激しい迫害が起こり散らされたとき、使徒達、弟子達の誰もが、このバルナバも、このように全てが益になるとは誰も思っていなかったことでしょう。愛するステパノが殺された上に、成長していた教会は一挙に崩壊したかのように見える出来事であり、この世の繁栄と成功の秤で見るなら、まさに敗北であり躓き、挫折と落胆と失望です。それはただただ世の中の力に対して無力である教会の姿をも思い起こされたことでしょう。それでも彼らはキリストに留まり続けますが、しかしそこから、自分たちで「じゃあ異邦人へ」と自分たちの知恵で戦略的に進んで行ったわけでもありませんでした。「彼らは異邦人とは交わってはいけない。異邦人には洗礼は授けない」と言う「律法の壁」のなかに忠実に止まっていました。ですから、使徒達自身からは、異邦人への宣教は生じ得なかったのです。しかしユダヤ人社会ではむしろ亜流のようなバルナバ達のような外国生まれのユダヤ人達が、エルサレムでキリストの福音に出会って救われた事そのものにまさに意味があったでしょう。いやそれよりはるか前の旧約の時代に、ユダヤ人たちが捕囚や侵略などでかつて方々に散らされたこと、そしてその外国の文化で祖先達が、子を宿し、死んでいく事にさえも、人の側では一切、その意味がわからなくてもイエスにとっては意味があったわけです。その悲劇と災い、試練の最中にある人々は、もちろん「なぜ」と思われ、理解できない事であったとしても、しかしこのアンテオケのギリシャ人への福音の宣教のためにこそすべては繋がっていました。イエスはそのことを見ていました。そしてイエスは、これまでのその一切のことを何一つ無駄にはされず、全てのことに働いて益としてくださっているのです。これは壮大な計画と恵みではありませんか。バルナバが見たのは、人の思いや計画では決して計り知れない、私もここで十分に言い表すこともできないほど大きな、神の恵みをそこに見たと言えるでしょう。

5.「イエスの恵みにある私たち」
 このところから教えられる事はイエスにある希望です。それは、私たちにも同じ恵みがあるのであり、イエスはそのように同じように私たちのためにも完全に働かれるお方であると言う事です。確かに私たちもそれぞれ、試練や問題に絶えず直面させられ、「なぜ」「どうして」と思わされる事、理解できない事が絶えず起こります。こうであれば、ああであれば良かったのに、と言うこともあります。なぜこんな理不尽なことが、と言うこともあります。罪の世でありますから、人からそのようなことを受ける場合もあれば、人にしてしまうこともあります。それは大きな社会であっても、家族の中であってもです。私たちには目に見える事柄でさえも、そこにある意味や原因やその解決を計り知ることはできません。しかしイエスは「福音による神の国」の約束のための、ご自身の御心と計画の中に、私たち一人一人を確実に置いてくださっている。そしてどんなことが起こったとしても、イエスは、何一つ無駄にすることなく、意味のないと思われること、マイナスだと思われることであっても、その全てに完全と働いて、その約束の実現のために益としてくださるのです。それはこのキプロス出身のユダヤ人クリスチャン達のように思いがけずです。つまり「こう言う計画があってこう用いられよう」などの予測や期待さえもない。突然、導かれるようにして用いられるものであるでしょう。しかし、そのように人の想いや計画を超えているからこそそれがまさしく神の恵み以外のなにものでもないと、告白できることとなるのではないでしょうか。

6.「恵みが先にあるからこそ」
 そして、そのイエス・キリストの恵みこそ見、信じ、告白するからこそ、彼は、23節
「皆が心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました」
 のです。これは「恵みが先」にあるからこそ、その恵みにとどまるような「励まし」ということを意味しています。つまりその逆ではないということです。「私たちがまず一生懸命、自分たちの意思と努力で心を堅く保ち、意思と努力で主にとどまるから、恵みがある、主の働きがある、救いがある、祝福がある」という、そういう励ましではないということです。つまり、励ましも信仰深さもそれは、決して律法ではないということです。しかし、私自身そうなのですが、人は、それがたとえクリスチャンであっても、逆に考えてしまいやすいものです。例えば「「いつも主に感謝しなさい」と聖書にある。しかしあなたが落ち込んでいるのは、いつも感謝していないからダメなんだ」、そのような「信仰の励まし方」と呼ばれるものを、幼い時から教会で育ってきた私はにとっては、よく聞く言葉ではあったわけですが、しかしそれは信仰の励ましになっているでしょうか?何か矛盾を感じさせられないでしょうか?福音は信仰を与え、自由与え、平安を与え、重荷を下ろすものであるのに、その「信仰の励まし」のようなものは、律法からの声となり、重荷となっていて、そこに律法的な感謝は生まれるかもしれませんが、真の感謝と喜びはありません。矛盾するのです。しかし実は、そのような考え方を私自身してしまっているし、私自身そういう言い方をしてしまっていることがあるのです。このところはその間違いを気づかせてくれます。律法を行うから、恵みがあるのでは決してない。常に恵みが先にある。キリストの恵みが先に私たちに注がれ、与えられ、取り囲んでいるからこそ、そのことこそを受け、見て拠り所とするからこそ、私たちは、平安と喜びがあり、そしてその平安と喜びのうちに、つまり福音の力によってこそ心を堅く保つことが出き、常に主にとどまることができるのです。信仰を生むのは律法ではなく福音であり恵みであるならば、信仰を養い、立たせ、強め、進ませるのも、それは決して律法ではなく、福音以外にありえないでしょう。単純なことです。聖書にもあります。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ1章17節
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ言葉によるのです。」10章17節

7.「福音によって」
 と。信仰を与えるのは、福音の言葉であるとパウロは教会に教えたのです。だからこそ、エルサレムの教会は「聖霊と信仰に満ちている」バルナバを送ったのです。「聖霊と信仰に満ちている」という言葉が意味することは、それは福音を正しく伝え教えることができる賜物を意味していて、福音の説教者を送ったことを意味しています。すべては恵みに始まり、一人の説教者がアンテオケに遣わされ、さらなる神の恵みを確信し、そして福音を語り教える。その福音が語られ、福音に聞き、神の恵みを見るからこそ、人々は福音によって神の恵みに心を堅く保ち、常に主にとどまることができる。このようにして、アンテオケの主を信じたギリシャ人達も信仰の告白と洗礼へと導かれたのでした。信仰も、信仰生活も、決して律法ではありません。律法によって信仰を生きてはいけません。それは矛盾の渦の中で溺れ、疲れるだけです。私たちを新しくしたのは、イエス・キリストの十字架と復活であり、恵みを語る福音です。福音こそ、私たちの平安、希望、喜びです。私たちも私たちを取り囲んでいる圧倒的な恵みから目を離さず、福音によって生かされて生きましょう。福音によって平安を与えられ、喜びを与えられ、世に遣わされて生きましょう。