2018年7月8日


「キリストの福音こそ生かし、証しさせる」
使徒の働き 11章1〜18節

1.「はじめに:前回まで」
 10章では、ローマ兵の隊長コルネリオと使徒ペテロという、それまでお互いも知らず、会ったことのない二人が、イエスの言葉に導かれ出会う出来事を見てきました。しかしそれはただの「出会い」ではなく、「イエスの言葉に導かれて」というのが鍵で、そこにはイエスの大切な目的があったのでした。それは、異邦人でありながら旧約聖書を読み、敬虔に生き隣人愛にあふれていたコルネリオであったのですが、しかしイエスキリストのことを知らず、洗礼も聖霊も受けていなかったのでした。そんなコルネリオにもキリストの福音によって救いの信仰が与えられ、洗礼を授けられ、聖霊が与えられるように、そのためにこそ、イエスはみことばによって導き、二人を出会わせ、そしてペテロはそこにあったイエス様の御心を悟って、コルネリオに洗礼を授けたのでした。
 しかし前回、そのような異邦人への洗礼に対して、驚きと戸惑いを持って見ていた、クリスチャンたちがいました。それは「割礼を受けたクリスチャンたち」で、ユダヤ人クリスチャンたちでした。というのは、このコルネリオの出来事までは、ペテロも含めて弟子達は、異邦人にも福音が宣教され、異邦人にも洗礼が授けられ、聖霊が与えられるとは、誰も思ってもいませんでした。イエスが「あなた方は地の果てまでわたしの証人となる」と言っていたにも関わらずです。その言葉の意味も良くわかっていなかったのでしょう。なぜなら、ユダヤ人の律法には、異邦人と交わってはいけないとあったからでした。ですからペテロも動物が天から下りてくる幻(10章)だけでは何も悟れず、コルネリオと出会い、コルネリオから彼にもイエス様からのみことばがあったという証しを聞くまでは何も悟れませんでした。そのとき、ペテロは初めて、異邦人にもイエス様は救いの恵みをもたらしてくださるのだと悟って、コルネリオに洗礼を授けているわけです。ですから、それまでそのような考え方があり、まして律法に忠実な「割礼を受けているクリスチャンたち」にとっては、コルネリオへの洗礼はそれまでにない大きな戸惑いとなっても当然のことなのです。そのような背景があって、今日のところに繋がります。1節ですが、

2.「ペテロへの非難」
「さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。」
 そのカイザリヤのコルネリオの家族と部下たちに起こった救いの出来事は、エルサレムのクリスチャンたち、そして使徒たちの耳にも入いるのです。「異邦人たちも神のみ言葉を受け入れた」と。みなさん。それは、素晴らしい出来事、事実です。喜ぶべきことです。しかし、エルサレムのクリスチャンたち、特に割礼を受けたクリスチャンたちの反応はどうであったでしょうか?2〜3節です。
「そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところへ行って、彼らと一緒に食事をした。」といった。」
 大体のユダヤ人たちは、生まれてすぐに割礼を受けますので、そこにいる使徒たちや弟子たちは、皆「割礼を受けた者」ではあったでしょう。しかしルカは、ここで1節の初めにあるように「使徒たちや兄弟は」という書き方をしないで、「割礼を受けた者達」という書き方をして、対象を特定している意図があります。それは何を意味しているのでしょう。エルサレム教会の中のクリスチャンの中の、とりわけユダヤ教の律法や伝統や習慣に厳格な人々とも理解できますし、まだクリスチャンではないけれども、このエルサレム教会の交わりに入っていたユダヤ人たちとも理解できますし、あるいはただの外から傍観的にエルサレム教会を観察していたユダヤ人たちとも理解できます。もちろん、使徒たちを含めたエルサレム教会の信徒たち全体とも理解できます。それは定かではありませんが、彼らは、「異邦人たちも神のみ言葉を受け入れた」という事実を、素晴らしい出来事、喜ぶべきこと、としてではなく、それは彼らにとっては非難すべきことだったのでした。といってもそれはペテロに対する非難で、理由はこうあります。
「あなたは割礼のない人々のところへ行って、彼らと一緒に食事をした。」
 「割礼のない人々、異邦人のところへ行ったこと、そして彼らと食事をしたこと」、それが理由でした。繰り返しますように、ユダヤ人の律法では、異邦人と交わってはいけないのです。しかし彼らはそう言っているからと、その「一緒に食事をしたこと」だけを理由としていて、だから「異邦人たちが神のみ言葉を受け入れた」「洗礼を受けた」こと自体は喜んでいる、というわけではありません。なぜなら、この後、ペテロは「異邦人と食事をしたこと」についてのみ弁明するのではなく、まさにイエス様がコルネリオにも洗礼を授けるために導いておられことについて、証しをし、弁明、説明をしているのですから、非難する人々は、単に「異邦人と食事をしたこと」だけでなく、異邦人たちに洗礼を授けたこと自体も、よく思っておらず、批判していることがわかるのです。

3.「福音に生かされるからこそ」
 この「割礼を受けている人々」というのは、律法に非常に忠実で、行いにおいては立派で、周りが敬虔と呼ぶ人々です。けれども、このところは、そのような人の行いやわざの敬虔さが、その人が福音の真理を知り、生かされていることをすぐに保証するとは限らないことがここからわかります。つまり、真に福音に生かされていることの証明は、行いやわざの敬虔さ、律法の行いではないということです。むしろこの「割礼を受けている人々のペテロへの非難や、人の救いを喜べない」姿が描き出しているのは、律法にあまりにも縛られ、こだわり過ぎるあまりに、イエスの救いの真理、イエスの御心が見えなくなり、イエスが異邦人になさった救いという素晴らしい出来事を、喜ぶことさえもできず、非難しか口から出てこないのです。律法は、確かに神様の御心であり聖なるものではありますが、それは罪人である人間にとっては、神が人を、そして人が人を責め、断罪するものでもありますから、人が律法をよりどころにする時に、当然、その口には、非難や裁きしか出てこないの当然であり、そして律法からは、真の喜びや平安や賛美の証しは出てこないものです。なぜなら真の喜びや平安や賛美の証しは、律法ではなく、福音のみが与えることができるものだからです。まさに福音がもたらした、ペテロでさえも予想もしていなかった素晴らしい出来事、コルネリオとその家族と部下たちの救いの喜ばしい恵みの事実を、律法に縛られていた「割礼を受けた者たち」は見えなかったのです。
 この所は教えてくれます。私たちも同じで、律法ではなく、十字架の言葉である福音に生かされ、十字架の福音によって救いの確信、喜び、平安を受けるからこそ、どんなことにもそれが時がよくても悪くてもイエスの導きと希望と、私たちの思いをはるかに超えたイエスのなそうとすることへの信頼を見ることができるのです。しかし私自身陥る日々なのですが、律法に生き、律法に縛られる時、そのイエスのなさること、イエスの御心、イエスの与えようとしている恵みを結局見失うことになることを教えられます。ぜひ、私たちはイエス様の十字架の言葉、福音こそ、私たちの新しいいのちの日々の、まさに消えることのない灯火、全ての初め、良い実を結ぶぶどうの木であることに、今日も立ち返り、福音によって平安をいただきたいのです。

4.「証しの恵み」
 さて、そのような非難が出てことに対して、ペテロはどう対処するかいうと、彼はこれまでの出来事を伝えます。しかしそれはご覧になってわかる通り、これまでのイエスの導きそのままを伝えています。つまり、イエスがなさったことを「証しした」のでした。それが、5?17節まで書かれていることです。このところには、教会における「証し」ということを学ぶことができます。私たちは「証し」という時、難しく考えるかもしれません。もちろん難しいと思っても当然ですし、逆に、そんなに難しくないという人がいてくださっても幸いなことでもあります。しかし教会における「証し」のポイントをこのところは教えてくれています。
A, 「キリストを証しする」
 それはまず第一に、「証し」は「キリストについての証し」であるということです。それは説教についても同じことが言えるのですが、イエス様は、弟子たちに「あなた方は地の果てまで、わたしの証人となります」と言いました。クリスチャンは「キリストの証人」なんですね。ですから、「キリストを」証しするのが、教会の証しであるということです。ですから、証しにせよ、説教も同じですが、「自分がどうしたこうした、どうだった、こうだった、こう感じた、」という「自分が主役」の自分の証しではないんですね。「キリストが私、誰かに、どうしてくださった」こそを証しするものであるということなのです。
B, 「立派さを伝えるのではない」
 ですから、第二にですが、それは決して「立派なことを言わなければいけない」あるいは「自分の立派さを伝える」ということではありません。そもそも信仰の立派さにせよ、「立派さ」を求めるのは、自分が主役になってしまっています。なぜなら証しにおいて、立派で完全なのは、自分ではなく、「イエス」だけです。「イエスが私にしてくださったこと」なのですから。事実、ペテロは、「キリストが」自分にしてくださったことを伝えていて、そして、むしろ自分は悟るのに遅い、不完全な者であったことを「そのまま」伝えていますね。例えば8?9節、ペテロは、天からの獣の幻で、イエスに屠って食べなさいと言われた時に、それは「できない」と拒みました。それに対してイエスから「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と言われたことを正直に記しています。使徒たちのリーダーであり、エルサレムの教会のリーダー的な存在でもあり、監督となるペテロですが、彼は自分はキリストの前には、悟るのに遅く、不完全な一人であることを、このように包み隠さず、起こったことをそのまま伝えているでしょう。証し、説教は、「私が何をしたか、どう思うか」ではなく、「キリストが私に、私たちに何をしてくださったのか」が全てなのです。しかも、キリストの前には不完全で罪深い、私のため、私たちのためにです。
 ですから「立派である」必要がありませんし、「立派さ」を求める必要もありません。自分の信仰深さ、敬虔さのアピールの場面でもありませんし、まして誰かが、「律法で」、会衆を急き立てる場でもありません。そのままの罪深い自分のままで「キリストが私に何をしてくださった」のかでいいのです。ですから、それは劇的、ドラマチックでなくてもいいですし、むしろ日々日常、イエスの救いの恵みを覚えて生かされているという、ありきたりのことでもいいのですし、「自分はこんなにも罪深いことを気づかされる、こんな失敗を日々させられる、しかし「そのようなものをイエスは憐れんでくださった」という証しにもなることでしょう。いや、そこまでの信仰も持つことができないこともあるものです。頼ることができないこともあります。祈ることしかできない、祈ることもできないけれども、ただ神にすがって求めている、それも証しです。なぜなら、その戦い自体もイエスが与えてくださった信仰の歩みに備わっている必要なことであり、イエスの御手の中の取り扱いなのですから。
C, 「誰の口にも与えられるキリストについての証し」
 教会の「証し」はそのようなものです。立派な人の立派さのアピール、敬虔な人の敬虔さのアピールが、教会の「証し」ではないのです。罪人に働かれている、人間の思いをはるかに超えたイエスのみことばの真実さと、イエスが十字架と復活でなさった完全さ、恵み、祝福こそを語るものであることを、このペテロの証しは伝えてくれていると言えるでしょう。何より「証しをする」そのものも、決して「しなければいけない」律法ではなく、キリストの証しは、福音から生まれる、つまりイエスが私たちの心に創造する、イエスの賜物ですから、それは導かれた時に、平安と喜びを持ってすることでもあります。そして、その時には、クリスチャンは誰でも導かれることでもあります。その時は、ぜひ遠慮なされずに、証しをしてください。心から歓迎します。

5.「福音は非難を賛美に変える」
 最後ですが、ペテロのその証しは、最初は非難していた人々、戸惑っていた全ての兄弟姉妹たちの目を開かせます。18節
「人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。」18節
 福音が、律法によって覆われている曇りを取り除き、律法によって盲目にされている視界をよみがらせ、イエスがなさる、人の思いをはるかに超えたみわざを明らかにします。そして、その非難していた口を、賛美の口に変えているでしょう。律法にはそれはできません。福音、十字架の言葉は、まさに、「滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力」(第一コリント1:18)に他なりません。このようにして、誰もが忘れていた、イエスの言葉、「地の果てまでわたしの証人」となっていくのは、イエスご自身によって、弟子たちに再び明らかにされ、そして、それは、異邦人への福音宣教として、イエスによって実現されていきます。ペテロや使徒たち、そして、私たちの思いをはるかに超えた、イエスの完全なわざを私たちは今日も見せられるではないでしょうか。その福音によって私たちは今日も新しくされています。イエスのその働きは、今週も、私たちに絶えることはありません。ぜひ、今日もイエスのみことばに平安を与えられ、ここから遣わされていきましょう。