2018年7月1日


「私たちのために働かれるイエス」
使徒の働き 10章43〜48節

1.「これまで」
 ローマ兵の隊長であるコルネリオの元に遣わされたペテロを見てきています。二人はどちらも最初はお互いを知っていたわけでもなく、ですから「じゃあ、会おう」と思い立って、計画して会ったのではありませんでした。そうではなく、そこにはそれぞれに働かれたイエスがおられ、その言葉によって彼らは導かれたのでした。そしてそのようにペテロが遣わされたその目的ですが、確かに旧約聖書を読み、神を信じ、敬虔に過ごし、良い行いをしていて、評判も良かったコルネリオですが、彼は、まだイエスが救い主であるとは知りませんでした。キリストの十字架の福音がまだ知らせていなかったのです。ですから洗礼も受けていませんし聖霊も受けていないのです。それにそもそもペテロも最初は、「異邦人であるローマ兵に福音を」と言うことも頭にありませんでした。なぜならユダヤ人は律法によるなら異邦人と交わりを持つことはありませんでしたし、それは他の弟子たちの間でも「異邦人にも福音を、洗礼を」と言うことは思っていなかったのでした。そのような中で、ペテロに幻を与え、そして「ためらう」であろうペテロに「ためらってはいけない。行きなさい」と言葉を与えて、導かれ二人は出会うのです。そしてそこで初めて、コルネリオにも神の言葉があったことを知り、ペテロはイエスの目的を悟ったのです。コルネリオにもキリストの福音は伝えられなければならないと。そのために自分は遣わされてきたのだと。
 そのイエスからの「召し」にしたがって、ペテロは、コルネリオとその家族、部下たちにも、「イエス・キリストは全ての人の主であり、イエスが全ての人に与えると言われたその平和を、伝えるのだ」と福音を伝えたのでした。その説教の最後にでペテロは福音を大胆に語って結んでいます。

2.「信じるものは誰でも「与えられる」」
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じるものは誰でも、その名によって罪の赦しが与えられる、と証ししています。」43節
 ペテロはコルネリオとその家族や部下たちに、キリストの福音をまっすぐに語ります。「イエスを信じるものは誰でも、その名のゆえに罪の赦しが与えられる。救われる」と。ここにある「罪の赦し」と言うのは、「神の前にあなたは罪のないものとして認められる」と「神の救い」を表すことばですが、しかしその「救い」について、ペテロは、コルネリオ、あるいは私たち人間が、頑張って得るもの、獲得するもの、達成するものではなく、「与えられる」ものだと言っています。これは世の中の宗教や哲学と全く逆です。古代ギリシャにアリストテレスという有名な哲学者がいます。実は、彼の考え方は、現代の哲学や宗教だけなく、現代人の考え方や生き方に大きな影響を与えていると言われていますが、その基本的な考え方は、「人は良い行いを繰り返すことによって義となるのだ」という考え方です。ですから世の中の宗教もそのような考え方です。救いにせよ、神の境地に至るにせよ、教祖様の近くに認められるにせよ、天国に行くにせよ、それが「努力と功績の先に」あるもの、自分で獲得するものである」と、必ずそのような教理です。そして人間が理性的に考え、合理的に考えれば、そのように努力した先にご褒美があるような考え方の方がわかりやすいし、ピンとくるものです。しかし、聖書の伝える救い、イエス・キリストによる救いは、世とは全く逆です。むしろ不完全な人間はいくら頑張っても完全に至ることなできない現実があるものです。聖書は、その神の救いは、人間が成し遂げたり獲得したりするものではなく、神から与えられる恵みなんだと、そしてそれをそのまま受け取ることが信仰であり、そのそのまま受け取ることだけで救いはあなたのものになるのだという教えなのです。ペテロはそのことを言っているのです。
「この方を信じるものは誰でも、その名によって罪の赦しが与えられる」
 と。救いは神が与えてくださるもの。それは信じるもの、受け取るものには、誰でもその人のものとなる、しかも聖書は、その信じる信仰さえもイエスがいつでもみことばを通して招き与えてくださるものだとも言っています(エペソ2:8?10)。ペテロはこのように恵みの救いを伝える福音を、コルネリオとその家族や部下たちに伝えるのです。そのためにこそ、このところに召されたのですから。同じようにイエスは、この福音こそを教会を通して皆さんに伝えているのです。そして皆さんも、同じようにこのみことばを通して招かれているのです。「この方を信じるものは誰でも、その名によって罪の赦しが与えられる」ーだからそのまま信頼し受け取りましょうと。

3.「聖霊の働きの自由さ」
 さて。ここでは、この後、実は、とても不思議なことが起こるんです。44節
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けている時、みことばに耳を傾けていた全ての人々に、聖霊がお下りになった。」
 ペテロがまだ話している途中です。そのみことばに耳を傾けている全てに人々、つまり、コルネリオだけではなく、その家族、その部下、すべてに聖霊が降ったのでした。45節には「聖霊の賜物が注がれた」ともあります。ですから彼らに確かに聖霊が与えられのです。これは何が不思議かと言うと、それは、最初に「聖霊」、そして、「この後に」、洗礼を受けてるということです。何が不思議かわかりますか?私たちは、洗礼を受けて、聖霊を与えられました。聖書には「バプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒の働き2章38節)とある通りなんです。しかしここでは順序が、実は逆になっています。最初に聖霊が与えられ、洗礼を受けるのです。
 確かに、彼らには信仰が与えられていたからこそ、聖霊が与えられたのですが、しかし、ここで教えられることは、「聖霊の働き」というのは、確かに、まずはイエスの計画である「聖霊を受けるためのバプテスマ」の通りに働かれるのですが、しかし聖霊は、そのような決まりごとに雁字搦めに縛られるのではない、むしろその「御心に従って」の自由さがあることがわかるのです。
 ではどのような「御心」でしょうか?ここでは「なぜ」そのように「先に」聖霊が、信じる彼らに降ったのでしょうか?それははっきりと書かれているわけではありませんが、しかし完全な答えではなくても、状況からその可能性をうかがい知ることができます。

4.「割礼を受けている信者」
「割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである」45節
 こうあります。ここでわざわざ「割礼を受けている信者」と書かれています。その彼らは「ペテロといっしょに来た人たち」とわかるのですが、23節を見ると、ペテロが天から降る動物の幻が与えられた、ヨッパの皮なめしのシモンの家からカイザリヤに向かうとき、そのヨッパの兄弟たちも数人同行したことが書かれています。「割礼を受けている信者」とはその彼らのことを指しています。彼らは「割礼を受けている信者」ですから、当然、伝統的ユダヤ教の社会で生まれ育ち、キリスト教に改宗した、ユダヤ人クリスチャンです。そんな彼らは「異邦人に聖霊が与えられた」ことに驚くのです。なぜなら、それは幻を悟れなかった時のペテロと同じです。律法では、異邦人は福音宣教の対象でもなければ、まして洗礼の対象でも、聖霊の対象でもなかったわけです。ですから、この時、「割礼を受けている者たち」にとって、異邦人に聖霊が降るなどとは思ってもいなかったですし、まして、この後、ペテロが洗礼を行うことも全く予期していなかったのでした。 そんな異邦人が聖霊を受けた、しかも、いきなり異言を話しだし、神を賛美するのを聞いた。その目に見える光景、異言の叫びも神への賛美も、神の働きがはっきりとわかるわけです。しかしユダヤ人たちの驚きは、否定的な驚きです。なぜなら、この次のところになりますが、11章1?2節を見ますと、この驚いた彼らから早速、その後の洗礼も含めて、この出来事の知らせがエルサレムの教会に入ります。しかしそこでまさに割礼を受けた弟子たちからペテロへの非難が起こるのです。彼らにとっては、異邦人に洗礼を授けるなど、許されるべきことではなかったのでした。それぐらい、ローマ人、コルネリオが洗礼を受ける、ペテロが授けると言うことは、今までにないことであったのです。いや割礼を受けていた弟子たちにとっては、洗礼も割礼と同じように、「ユダヤ人だけ」のものと考えていたのです。

5.「なぜ聖霊が先に?」
 しかしそんな彼らを前にして、この聖霊が「先に」下ると言う出来事に意味があったと言えるでしょう。ペテロだけがわかっていきなり洗礼式を行うよりも、まず聖霊が下った、そしてその目に見える証しは、その割礼を受けている弟子たちが驚くほどに明らかな「神の働き」を証明するものになったことでしょう。ですからペテロは言います。47節
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったい誰が、水を差し止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
 ペテロは彼らの驚きに、その否定的な意味を察しとったことでしょう。なぜなら、「いったい誰が、水を差し止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」という言い方をしているからです。しかし、ペテロははっきりと言っています。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから」と。
 つまり、「聖霊が与えられたという確固たる事実があるではないか。あなた方はその証人ではないか。あなた方はその異言を聞き、その賛美を聞いたではないか。」ということです。もちろん、見てきた通り、ペテロは自分とコルネリオにイエスがことばを持って導いていたことから、そのイエスの御心を悟ったからこそ、コルネリオとその家族に福音を語っていたわけです。しかしその福音がまさに即座に働いて、コルネリオとその家族に、聖霊があたえられたその事実はペテロにとっては圧倒的な確信になったことでしょう。それは割礼を受けていたユダヤ人たちにとっても、イエスが彼ら異邦人を受け入れてくださったという、イエスからの明確な証拠であったのです。だからこそ、ペテロはこの47節の言葉を言っているのです。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったい誰が、水を差し止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
 コルネリオはペテロにとって、「最初の異邦人受洗者」になる人であったでしょう。イエス様の側では、コルネリオも異邦人も決して除外はしていません。しかしペテロを含めて人間側の方では、伝統や律法にがんじがらめになるが故に、そのことが理解できませんでした。ペテロもそうであったからこそ、動物の幻と、イエス様ご自身の言葉による語りかけと招きと、イエスの導きがありました。そのように導かれて、そのイエスの異邦人への福音宣教のみ旨を悟ることができました。同じように、この聖霊が先に下った出来事でもそのイエスの導きがまさに働いているということです。そのように、ペテロが初めて異邦人に洗礼を授けるそのための、様々な妨げをイエスご自身が取り除き、ペテロが、確信を与えられてコルネリオと家族や部下たちに洗礼を授けさせるためにこそ、この「洗礼より先に、聖霊が与えられる」ということをイエスはされたのだと教えられるのです。

6.「終わりに」
 もちろん、「聖霊が与えられるために洗礼を受ける」という、そのことは変わることがない、イエスの方法です。私たちも洗礼を行うのは、救いの恵みと聖霊がその人に与えられるようにと行い続けます。しかしイエスの側は、その御心を行うために、しかもそれはこのようにペテロや弟子たちのためにですが、このように自由に働かれれる。律法や規則や決まりごとや原則などに雁字搦めに縛られるお方ではない。むしろ私たちの益のために、私たちが悟るために、あるいはその人を救うために、これほどまでに完全に、しかも自由に働かれることが、この10章の初めから終わりまでの何よりの証しだと教えられます。イエスはそれほどまでに、私たちの益のために考えてくださる。そしてそれを与えよう、導こうと、語りかけてくださる方なんです。私たちは、み言葉に聞きつつ、そして、イエスの変わらない救いの言葉、十字架の確かさは見失わずに、しかしそこには決して私たちがイエス様を推し量ることも、枠にはめることもできない、その愛やわざの、果てしない大きさと完全さを、このところは教えてくれるのではないでしょうか。
 この後、エルサレムでは、その割礼を受けているユダヤ人は、それでも納得できないと、ペテロを批判することが起こります。しかしそのようなネガティブなことさえも、イエスには全てご存知で、イエスは働かれているのは間違いないことです。イエスが計画しているその御心が完全に行われていくためにです。私たちはそのイエスのすることを推し量ることは決してできません。しかし、イエスが私たちのためにしてくださることは、確かであります。今週も、イエス様のあらゆる確かさ、救いの確かさ、導きの確かさ、約束の確かさによって慰めと平安と希望をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。