2018年5月6日


「コルネリオのための主の働き」
使徒の働き 10章1〜8節

1.「はじめに」
 ヨッパの教会での、タビタという女の弟子のよみがえりのために用いられた使徒ペテロは、しばらくヨッパに滞在しますがその続きになります。ここにも使徒ペテロの思いや計画を超えた神様の豊かな働きと導きを見ることができます。

2.「コルネリオ」
「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神をお恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、」
 その最初は、カイザリヤのコルネリオという人に起こる出来事だとわかります。ヨッパでの、皮なめしのシモンの家の出来事ではありません。つまり、ペテロが滞在している場所ではなく、さらには、彼が、そこに行こうとしているわけでもなく、そしてペテロが知っている人のことでもありません。1節が示すことは、そのようにペテロは全く関係のないところでその出来事が進んで行くことがまず確認できると思います。つまりこの出来事も、神の働きと導きで始まって行くのです。
 そのコルネリオは、「イタリア隊の百人隊長」とあります。ローマの兵隊であり異邦人です。しかし彼は「敬虔な人で、全家族とともに神をお恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」とあります。コルネリオには「神への恐れ、信仰」があったのでした。そして隣人愛にも溢れ、貧しいユダヤ人たちに施しをし、神への祈りもしていたのでした。その彼の「神への信仰」がどのようなものであったのか、それが「イエス・キリストへの信仰」であったのかどうかは、はっきりと書かれてはいません。しかし、34節以下で、ペテロはコルネリオに「あなたがたはバプテスマのヨハネのことも、エルサレムで起こったイエスの十字架のことも良く知っている」と言っているように、コルネリオは、バプテスマのヨハネの悔い改めの招きについても、そしてイエスのこと、その十字架の出来事も、すべて知っている人物であることは間違いありません。そして福音書が記しているように、最初はイエスを鞭打ち罵っていたローマ兵たちも、やがてイエスの十字架上の言葉、そして、その十字架上で死ぬときに覆った大いなる暗闇の出来事を通して、「まことにこの方は神の子であった」と告白するローマの隊長もいたわけですから、その「十字架の出来事」は、多くのローマ兵にも大きな影響を与えたのは間違いないのです。ですからコルネリオも、イエス・キリストの十字架の経験を通して、神を恐れ畏む信仰へと導かれていたと思われるのです。そして信仰から溢れ出る愛は、本来のローマ兵やローマ市民では考えられない、占領する国のその貧しい人たちへの施しへと結びついていたことでしょう。

3.「コルネリオになかったもの」
 しかし、コルネリオには4つの問題がありました。第一にその信仰は「イエスの言葉によって」「福音の言葉によって」ではなく、「経験による」信仰でした。第二、そのことを聖書のみ言葉から解き明かす人がいなかったのです。そして第三に、洗礼も受けてはいませんでした。ですから、第四に彼は聖霊が与えられていなかったのです。つまり、彼は、救いは神から与えられるという恵みを知りません。そこに、救いの客観的な、確かな拠り所がありません。彼には救いの確信もなければ、そして確信がないということは平安もまだないのです。彼は、キリストを知る前の、ユダヤ人と同じ信仰はあって、確かに敬虔で、良い行いもしていました。しかし、神の前の救いの確信というのは、人の側でどんなに良い行いをしたとしても、決して安心をもたらしてはくれません。なぜなら、それは不完全で、朽ちゆく存在であり、自分自身のその行いが神の前に認められるかどうかが判断基準になるからです。つまり、自分がどれだけやっているかで、神の前に正しいのかを確かめようとすることです。しかし、それは永遠に確かめられないことです。そして決して、神も自分も満たすこともできません。なぜなら私たちはどこまでも不完全であり、罪深い性質はそこに必ずあるからです。ですから良い行いによっては決して救いの確信を得ることはできないのです。
 コルネリオ自身、そのことをよくわかっていたのでしょう。そしてどんなに施しをしている自分であっても、神の前には非常に罪深く自分自身では救いのためには何もできないことを、自分自身がよく知っていたのです。だからこそ、それは「祈り」に繋がっています。「祈り」というのは、不完全な、いや無力な存在が、そんな自分であると認めるからこそ、「完全な神へ求め頼る」信仰の行為です。コルネリオには良い行いとともに、この祈りがありました。ですから単なる自分から出る力による良い行いだけであるなら、自分を誇ることにもなり得ますが、しかし、彼のこの「祈りを伴ったその良い行い」というのは、彼が自分を誇るための行いでは決してなく、神に謙った者の神への信頼に基づく、信仰から出る行いであったこともわかるのです。そんなコルネリオにこんな出来事が起こるのです。

4.「神の前に」
「ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神のみ使いを見た。御使いは彼のところにきて、「コルネリオ」と呼んだ。彼はみ使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。」
 コルネリオは幻の中で、神のみ使いに出会うのです。御使いは彼の名を呼び語りかけ、主の言葉をコルネリオに伝えています。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています」と。まず感謝なのは、この異邦人コルネリオ、そして、まだキリストについてよくわかってはいない、洗礼に与ってもいないし、聖霊も受けてもいない、そんな彼の祈りでさえも、主イエスに聞き入られているというのです。皆さん、これは私たちへの恵みの約束です。神への祈りは、どんな人のどんな祈りであっても、決して排除されることはありません。例外なく受け止められるのです。よく「良い祈りだから受け入れられる」とか「悪い祈りだから受け入れられない」とかいう人がいますが、そもそも肉なる思いから決して自由ではない私たちにとっては、聖なる完全な祈りなど私たちにはありえません。私たちはみな神の前には罪深いからです。私たちは、自分勝手な祈りになるのは当然なのです。牧師である私もそうです。聖なる祈り、完全な祈りは、イエスの祈りだけです。しかしそれでも私たちの罪深い祈りが、どんな祈りであっても、神の前に聖なる願いとして受け入れられるのは、それは私たちに何かがあるからではなく、イエスのゆえです。イエスが、私たちのためにとりなしの祈りをしてくださり、その父なる神がイエス・キリストの十字架のゆえに、罪深い私たちを愛し、受け入れてくださるがゆえに、私たちの祈りは、イエスを通して、父なる神に届くのです。このコルネリオの祈りもそうなのです。父なる神の前に決して見過ごされたりはしません。その祈りは、神の前に立ち上る、神を求めるもののその求めは、神の前に立ち上って、神はそのみ前に立ち上った、祈るのものの頼り、求め、願いを、しっかりと受け止めてくださるのです。それは、イエス・キリストとその十字架のゆえにです。