2017年1月1日


「あなたがたの証しの機会となる」
ルカによる福音書 21章10〜19節

1.「はじめに」
 イエスは未来のことをさらに伝えます。もちろんそれは弟子たちが直面することを伝えています。しかし同時に、いつの時代も変わることなく起きてくる危機をも伝えています。弟子たちはもちろん、現代の私たちの未来をも指し示すイエスの言葉でもあるのです。
 ここでは大きな災いとして4つに分けてみることができます。

2.「戦争、地震、疫病、天からの前兆」10〜11節
「それからイエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病や基金がおこり、恐ろしいことや天からの凄まじい前兆が現れます。
 災いの一つは、争い、戦争です。イエスの時代からみた未来、弟子たちも教会も無数の戦争や争いを経験することになります。ローマへの武装蜂起と鎮圧、教会の歴史としては十字軍なども戦争の歴史です。歴史に記されていないところでも戦争は数知れず起こっています。もちろん旧約にあるようにイスラエルは幾多の戦争をしてきましたし、争いに敗北して異教の民族によって捕虜にされた歴史もありました。そして近代も現代も戦争は絶えることがありません。人間は理性によって進歩してより平和になっていくのだというのは幻想だと証明されるぐらい戦争は絶えることがありませんし、科学の発展は兵器の競争ともなり、結局、戦争です。昨年はポピュリズムとよくいわれる大衆を感情で扇動するようなナショナリズムが再び台頭してきています。まさに歴史は再び繰り返される危険性を目の当たりにしています。人間の歴史は、民族は民族に、国は国に敵対し立ち上がることをやめません。イエスのいう通りになっています。
 もう一つの災いは自然災害です。自然災害もいつの時代もありました。火山や大地震による災害から人類が解放されることは決してありません。疫病とも人間は戦ってきましたが、新しい疫病はいつの時代も人類に挑戦してきています。天からの前兆はどうでしょう。地球温暖化や太陽の変動による災害のことは一つの例といわれるかも知れません。イエスはこのように、これから先、弟子たちがいつでも何事もない天国のような環境で生きていくとは言っていないわけです。まさにそのような戦争や災害の歴史の中に、そのような人類の一員とて生きていくことを弟子たちに伝えています。決して避けることはできない。そのような災いを経験すると弟子たちにいうのです。それは現代の私たちにとっても同じことです。

3.「迫害と誘惑と苦難の時代」
 そして、三つ目の災いを12節でイエスはこのように続けます。
「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなた方を捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために、あなた方を王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」
 イエスは「迫害」のことを伝えます。このことは使徒の働きでまさに実現していることを私たちは見ることができます。弟子たちは事実、イエスの名と復活を伝えるからと、逮捕され牢に入れられます。そして王たちや総督の前に引き出されます。それは一度だけでありません。使徒の働きに記されているだけでもありません。そのような迫害は無数に起こり殉教して言った人も数知れません。使徒たちも迫害の果てに殉教して言ったと伝えられています。イエスが言った通りの迫害を弟子たちは経験することになります。そしてそれは時代が過ぎ去っても、福音が世界中に広まってからも絶えることなく起こっています。この日本でもキリスト者に対する壮絶な迫害、処刑があったことは日本の歴史が伝えています。それはこれからもそうであり、迫害、そして前回のところの誘惑や偽キリストも、私達が今も、そして未来も経験していくことになることだと言えるでしょう。そして4つ目の災いは16節です。
「しかしあなた方は、両親、兄弟、親類、友人たちにまで裏切られます。中には殺されるものもあり、わたしの名のために、皆のものに憎まれます。」
 キリストを信じていくことによって、このような家族や友人たちから裏切られたり、憎まれたりすることがある。殺されることもある。ユダヤ教が主流の社会にあって、キリストを信じるものたちは、ユダヤ教の中の一派と見なされ、ユダヤ教においては異端とみなされていました。だからこそ迫害や殉教があったわけですが、使徒たち弟子たちがその家族や友人にも理解されなかったということは当然あったことでしょう。イエスはそのことも全て知っていると言うのです。
 この後も、イエスの未来への言葉は続いていくのですが、このように使徒たち弟子たちの信仰の歩みは、もちろん天からの賜物ではあるのですが、しかし同時に地上にあってはまさに艱難の連続であることをイエスは伝えているのです。ですからイエスが与える神の国の素晴らしさは、決していつでも何も悪いことも起きないようなバラ色の楽園ということでは決してない。世にあっての繁栄や成功ばかり約束されているのでもない。むしろ人間の罪の中で、堕落した地上で、滅び、崩れ去り、過ぎ去っていく時代の文明と人間社会の中での歩みであることをイエスは伝えてくれていることがわかるのです。
 私たちの時代も安定どころか混乱しています。新しい年も、まさにイエスが伝えているようなことは起こり得ます。激しい迫害はなくても、キリスト以外、み言葉以外に依り頼ませようとする様々な誘惑、偽キリストは、今の時代、私たちには絶えず隣り合わせであることは変わりません。新しい年も「惑わされないように気をつけなさい」のイエスの言葉は私たちへと響いてくるでしょう。イエスは弟子たちのみならず、新しい年をこれから歩もうとしている私たちにも、私たちが直面するであろう事実をここで教えてくれています。

4.「希望を与える約束:十字架の神学」
 けれどもここは警告や注意だけではありません。イエスのこの言葉にはそのような弟子たち、そして現代の私たちにも、イエスの与える恵みと希望があることを見ることができるでしょう。第一の希望です。それは13節
A, 「証する機会となる」
「それはあなた方の証しをする機会となります。」
 迫害が起こるとき、牢に入れられ王たちや総督たちの前に引き出される時。確かにそれは災いです。思いも願いも望みもしないそのようなマイナスの出来事です。けれども、イエスはそれは証しをする機会になるのだと伝えています。何を証しするのかは、イエスが「キリストの証人になる」と言った通りイエス・キリストを証しするときとなるのだ、そういうのです。
 これはその通り実現します。使徒の働きで、ペテロたちが捕らえられ、議会に引きされたその場でペテロはキリストを証しします。そして「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)という言葉を伝えるのです。そこはただ逮捕され、裁判される時ではありません。人の目から見るならそう見えるかもしれません。人の目には、ただの災いの時、迫害の時です。しかしそれはイエスの目から見るなら証しをする機会だったのです。そのことをむしろイエスは預言していると言えるでしょう。
 イエスは私たちが様々な困難に直面することも皆ご存知です。しかしイエスは決してそれが何の意味なく無駄にそこに私たちを置くことは決してないということです。神が飼い葉桶の中に嬰児のイエスを「置いた」ことにも意味があったように、私たちがどんなことに直面しても、それが私たちの側では全く無駄で、意味のないことのように思えることであったとしても、けれどもイエスの側ではしっかりと意味があるのです。それは私たちには見えません。しかし見えることではなく、見えない事柄を確信することこそ信仰であると聖書は書いているではありませんか。むしろイエスがいうように、「見える」豪華絢爛な神殿や、人に見せるための礼拝は崩れ去るものです。どんな困難に直面するとしても、真実な神の、真実な約束と、真実な取り扱いが必ずあるのであり、それは目に見えないことを確信するところにこそ、その幸いは自分の経験となり、真の平安となることをイエスは希望として伝えていると言えるでしょう。新しい年、ぜひ私たちは見える事柄ではなく、イエスが私たちのために立てている奇しくも幸いな計画を信じ希望を抱いていこうではありませんか。
B, 「あらかじめかんがえないと決めよ:イエスが言葉と知恵を与えるから」
 そして第二に、その後こう続いています。14節
「それでどう弁明するかはあらかじめ考えないことに心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなた方に与えます。」
 イエスはその証しする機会にすべきことを言いますが、ここは面白いです。私たちはむしろどう弁明しようかあらかじめ考えるように心を定めます。説教者は説教のためにまさに準備してどう弁明するかあらかじめ考えるわけです。しかしイエスは「どう弁明するか、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」とまで言っているのです。それは事実そうしなさいということでももちろんあるのですが、しかしながらそれほどまでに、自分の力、自分の言葉ではなく、神、神の言葉により頼みなさい、信頼しなさいということを言っているでしょう。ですからイエスはこう続けて言っていることがわかるのです。「どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなた方に与えます。」と。そのときイエスがその言葉と知恵を「与える」とおっしゃってくれています。しかもどんな反対者も、反論できず、反証できない、その言葉と知恵であると、イエスは言います。事実その約束の通り、ペテロが議会で弁明したとき、誰も反論できなかったわけです。反論できないにも関わらずに、議員たちはペテロたちを鞭打って釈放するわけですが、理由もなく罰するしかできなかったわけです。それでもペテロたちは主の名によって迫害されたことを賛美して帰ったと使徒の働きにはありますが、それはまさにイエスがここで約束された通りであったからこそ、主の真実さを確信し賛美したわけです。
C, 「「キリストの証人」の意味:宣教は律法ではなく福音」
 ここからわかるのです。「キリストの証人」と私たちは呼ばれます。宣教、証し、伝道、それは確かに教会の使命です。しかしそれは「律法として」の使命ではなく、「福音として」の使命であることがわかるでしょう。つまり「しなければいけない」私たちのわざではなく、主が恵みを持って、福音を私たちに与えることによって豊かに私たちを用いてくださる主のわざであるということです。宣教は律法ではなく、福音なのです。ですから証しをする機会も、イエスが私たちの思いを超えて備えています。そしてそこで語る言葉さえも、イエスが備えてくださることをはっきりと言っています。「どう弁明するか、考えないことを心に定めていなさい」とさえ言っているでしょう。それはイエスが「わたしが言葉を与える。わたしに信頼しなさい」と言っているからこそであるとわかるのです。私たちは、キリストを証しする証し人です。しかしそれは私達のわざや力でなすことではありません。「証ししなければならない」という私達の重荷ではありません。証しの機会は、主イエスが備えてくださいます。むしろ私たちが望まないような災いの場が、試練の場が、悲しみの場が、イエスが備えてくださった証しの場であるかもしれません。そこでそのような証しの場であるという認識があるとも限りません。私たちはその思いがないかもしれません。しかし、主が用いてくださり、主が言葉を与えてくださり、語るべき時に導きを与えてくださる、語ることを聖霊の働きによって備えてくださる。証しとはそのようなものなのだと、教えられるのです。
D, 「イエスが言葉と知恵を与える」
 そして大事な点ですが、ここでにはそのような言葉と知恵が与えられるとあります。どのような言葉で、どのように与えられるでしょうか。イエスが直接心に語りかけるわけではありません。私たちはイエスはみ言葉を通して私たちに語ってくださり知恵を与えてくださると信じるものでしょう。その言葉と知恵は、み言葉を通して与えらえるのです。聖霊がみ言葉、福音を通してイエスの教えを私たちに教え、それによって慰めと平安と希望を与えてくださり、そのちょうど良い時に、その慰め、平安、希望を語るように導かれるということなのです。しかもその時の証しは、み言葉による力ですから、たとえ災いの場であっても、試練の場や悲しみの場であっても、私たちが意図しなくても、作為がなくても、私達が福音に示されるままに隣人を赦したり、愛したり、あるいは、自分の罪を素直に認めて悔い改めたり、そのような福音に生かされるそのままの姿を通しても必ず、福音の証しとなっていくとも言えるでしょう。これがキリストの証人なのです。そうであるなら、決して重荷ではありません。むしろイエスが自分を通して何をしてくださるのか任せることができるのですから、安心できます。希望もあります。確信もあります。それがキリストの証人なのです。それはキリストが与える平安や希望や自由を証しするのですから、自分に、平安と希望と自由がなければ証しはできません。証しや宣教を律法的に捉え、重荷となり平安がないなら、実は証しはできないわけです。矛盾するわけです。しかしイエスは、ここに真のキリストの証人を教えてくれています。イエスがその機会を備え、言葉までも与えてくださるという拠り所に立っているからこそ、本当のキリストの証人として、キリストの平安と、希望と、自由の証人として主によって用いられていくことができるのです。これは約束でありどこまでも福音なのです。
E, 結び:「勝利が必ずある」
 そして第三に18〜19節
「しかし、あなた方の髪の毛一筋も失われることはありません。あなた方は忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」
 つまり、イエス様は必ず守り助け全てのことに働いて全てを益としてくださり、そして主にある勝利を必ず与えてくださるのです。
 主の恵みを賛美しましょう。今年一年もこのような幸いな恵みに囲まれた一年に必ずなります。見えることではなく、見えない神の約束を確信して、今年も歩んでいきましょう。そしてみ言葉からいつでも福音によって新しくされ、平安と喜びと賛美、希望と自由に満たされて、今年も神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。