2019年2月10日


「父祖たちが追いきれなかったくびきを」
使徒の働き 14章27〜15章11節

1.「すべてのことに主の恵み」
 バルナバとパウロが宣教旅行からアンテオケの教会に戻り宣教の報告を始めます。
「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」27節
 二人がこのアンテオケから遣わされる時、「召命」から始まっていました(13章)。しかしその「召命」というのは、アンテオケの教会そのものに与えられた召命であり、それはイエスが福音のみことばを通して、アンテオケに住む多くの異邦人にも信仰を与え洗礼を授けてくださったという恵みを知らされ、その十字架の福音を異邦人にも伝えよというか召命でした。しかし「召命」とは「〜しなければいけない」という律法的なことでは決してありません。彼らはまず礼拝、つまり福音のみことばと聖餐を受けることからまず始め、そして祈り、さらに、人間的に「誰を遣わすか」を決めるのではなく、神が「遣わしなさい」と選び立て遣わそうとするバルナバとパウロをそのまま選び、そんな2人のために彼らは断食して祈り「これは主イエスがなす主のわざである」と託して遣わしたのでした(13:2)。そのように遣わされ帰ってきた2人ですが2人は何を報告してるでしょうか。2人は「異邦人に信仰の門を開いてくださった」という召命の出発点、原点を証しします。それは最初の召命と決して変わらない、「神が」「開いてくださった」と、主が立て与えた召命は主が開いてくださり主がなしてくださった、主が実現してくださったのだと、自分や人のわざではなく、主と主のわざに栄光、誉れ、誇りを返していることがわかります。ここからわかるように召命も宣教も全て主の恵みのわざなのです。
 しかしここで2人は、それだけでなく「神が彼らとともにいて行われたすべてのことと」と言っています。つまり「神がともにおられ行われたこと」が、異邦人に信仰の門を開いたことだけであるなら、「神が彼らとともにいて異邦人に信仰の門を開いた」と言えばいいはずです。しかしこのところで2人は「良いことだけ」を神がなされたすべてのこと、ということを言いたいのではありません。神は「いつも」ともにいてくださる方でしょう?詩篇121篇、主は寝ることもまどろむこともないとあるとおり、主がともにてともに歩んでくださるのは一瞬たりとも離れることがない恵みです。ですから2人が言いたいことは、まさに「すべてのこと」、良いことだけではない、苦難や試練、彼ら2人も罪のない聖人ではなく、罪人ですから、弱さや罪、悔い改めの日々でもありました。そして死ぬような思い、それは神の約束は嘘なのかと疑いが起こってくるような状況です。宣教は信仰と肉の思いの葛藤の歩みでもあります。しかし2人は、良いこと、上手くいったことだけではなく、あるいは、上手くいかなったこと、失敗したこと、困難試練には、神はともにいなかったということでも決してなく、すべてのこと、良いこともそうでないことにおいても、神がともにおられ行われたすべてのことだと報告するのです。私たちもこれまでの歩みを振り返る時、それを律法的、合理的に、人間的な感情や方法論、経済的政治的論理や価値で論じることは簡単です。上手くいったことを人の誉れにし、上手くいかなったことを誰かのせいだと断罪することも簡単です。いやそちらの方が肉の欲にとってや感情論では最もなように思えしっくりもくるものです、しかし教会の歩み、宣教の歩みはそういうレベルではなかったことを教えられます。すべては神から始まり、神がなす、良いことも悪いことも、主の恵み、主の取り扱いを超えるものでは決してない。主がいつでもともにいて、ご計画のうちに全てを益としてくださる。2人はそのように主を証ししたのでした。しかしそのような時がよくても悪くてもすべてはともにいてくださる主の恵みであるという証しこそが、実は、教会にとっての本当の慰めと平安と希望になるでしょう。なぜなら私たちにとって、キリストこそ道であり真理でありいのちだからです。福音こそ平安と喜びを与えすべての良いわざの良い動機になるからです。その逆の律法では実は決して誰にも慰めも平安も希望も与えることはできませんし、何よりその行動の動機は、怒られ、脅され、やらされているレベルを超えません。2人の報告から、主がどんなときも、時がよくても悪くてもすべてのことに働いてことを行われた、そのように私たちの原点であり核心であるイエス・キリストの恵みと福音にこそ立ち返ることの素晴らしさを教えられるのです。

2.「100パーセントの恵みを疑わせる誘惑」
 そして15章は、それでも教会はいつでも試練と戦いの中に置かれることを続けて伝えていきますが、何より、サタンの攻撃は、まさにそのような主の100パーセントの恵みを「そうではない」と、変えてしまおうとするものだとわかるのです。
「さて、ある人々がユダヤから下ってきて、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えていた。」15:1
 アンテオケの教会に別の教えが入ってきます。ユダヤからやってきた人々でした。彼らは「兄弟たちに」とあるように、アンテオケの教会の救われた人々へ教え始めました。それは救いに関することで「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」という教えでした。この教えはアンテオケに混乱を巻き起こします。2節こう続きます。
「そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちのいく人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」15:2
 バルナバとパウロは、そのユダヤ人たちの教えることに反発しそして論争するのです。しかしどちらも強力にそれぞれの教えの正しさを主張したのでしょうか、アンテオケ教会だけで論争は収まらなかったようです。教会は、バルナバとパウロ、そして「仲間のうちのいく人」うちの1人はガラテヤ2章からテトスだと思われますが、彼らを使徒たちのいるエルサレム教会へと向かわせ問題について話し合うことしたのでした。しかしそのエルサレムでも同じような論争は起こるのです。
「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らととともにいて行われたことを、皆に報告した。しかしパリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、またモーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。」15:4〜5
 バルナバとパウロのアンテオケ教会の一行は、エルサレムの教会の使徒たちや長老たちへ、神が彼らとともにいて行われたことを全て報告します。それは第一回宣教旅行の神の恵みの全てです。その目的は異邦人への福音宣教でしたから、当然、神は異邦人にも福音を通して信仰を与え洗礼を授けさせ、異邦人にも救いと聖霊が与えられた事実をそのまま伝えたのでした。それは3節からもわかります。エルサレムへ登る道道でそのことを伝えているからです。つまり異邦人は割礼を受けていない人々です。しかし神はその割礼を受けていない彼らにも救いを与えてくださったという事実を伝えたのでした。そしてそれは兄弟たちに大きな喜びをもたらしたともあります。エルサレムでもその喜びとなるはずの素晴らしい出来事を語ったのですが、しかしエルサレム教会でもパリサイ派から信者になった人々がいうのです。「異邦人にも割礼を受けさせ、またモーセの律法を守ることを命じるべきである」と。アンテオケにやってきた人々は「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と、「救われるか否か」の救いの問題を訴えていましたが、このパリサイ派信者たちは、さらに広げていて、割礼による信仰生活であり、それはモーセの律法を守ることにあるのであり、教会は守るように命じろという主張です。ただ福音によってただ恵みのうちに新しい命の道を歩むのか、あるいはそれだけでは不十分で律法による行いによって義を立て神の国を実現する道も必要なのか、それは初代教会の始めからの議論でした。パウロのその時の主張は、

3.「イエスにあって私たちの持つ自由の問題?パウロの弁明」
「しかし私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼を強いられませんでした。実は忍び込んだ偽兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由を伺うために忍び込んだのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなた方の間で常に保たれるためです。」ガラテヤ書2章3〜6節
 このパウロの言葉から分かるように、決して彼は割礼を悪いとはいっていないですし、モーセの律法も悪いとはいっていません。パウロ自身は割礼を受けている1人ですしこのガラテヤ3章では律法も神の約束に反しないと言っています。しかしここでパウロが言っているのは、律法の行いを救いの条件にしてはいけないということが何よりですが、しかしその割礼にせよモーセの慣習にせよ、信仰によって救われた人々には「キリスト・イエスにあって私たちのもつ自由」があるのだから、決して強いられてはいけないということです。福音というのは「神がしてくださったこと」です。それは「私たちがしなければいけないこと」である律法とは逆です。ですから、むしろ福音の「神がしてくださったこと」つまりイエスが私たちの罪のために飼い葉桶に生まれ十字架で死んでよみがえられたことは、神がキリストにおいて「私たちが完全に行われなければいけないこと」の全てをしてくださったので、「私たちがしなければいけない」という重荷をおろし平安を与えるのが福音です。ですから「神が全てをしてくださった」は平安をあたえます。そして平安は本当に自由な心と何からも縛られない心からの行動をもたらします。しかしその逆は、実は自由はありません。モーセの律法を守るように命じられて守ったとしても、強いられて割礼を受けさせられても、そこに自由な心はあるでしょうか?自由な心での服従はあるでしょうか?「あれしろ、これしろ、これだめだ。あれダメだ」と言われて従う服従に自由はありません。ですから信仰が福音から生まれる恵みであるなら、その生は自由なのです。信仰が律法であるなら、自由はないのです。それがパウロの言う、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由の問題でした。律法が悪いのでも割礼が悪いのでもなかったのです。救いのために何が必要かと信仰と自由の問題であったのです。パウロはその自由を脅かす教えを語るものを、偽兄弟と呼び非常に厳しいです。それぐらい大事な問題であったということです。

4.「父祖たちの追いきれなかったくびきを〜ペテロの弁明」
 この論争は激しい議論になりますが、論争の果てにペテロが立ち上がって言います。7節以下ですが、7節ではペテロはコルネリオとの出来事を証しします。そこで彼は、
「異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにされた」
 と言っています。ペテロも言います。律法の言葉でではなく「福音の言葉を聞いて」と。異邦人も信じるようになった。それは福音の言葉によるではないか、しかもそれは神が全てを定め、神がコルネリオと自分に働いて導き教えた恵みであったではないかと。そして
「そして、人の心の中を知っていられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」8節
 この言葉の意味がわかるでしょう。聖霊こそ日々の生活を福音のみ言葉によってきよめ聖化を完成させる助け主です。まさに自由な良い行いをさせるのは私たち自身の力ではなく、福音とその聖霊のわざなのですが、その聖霊が異邦人にも同じように与えられているというのです。ですからパウロと主張が同じです。彼らが主に従うのも、強いられてではなく、キリストが与えてくださっている真の平安と自由によるものなのだと。彼らも律法によって歩むのではなく、私たちの代わりに律法を成就し、私たちの重荷を降ろし全く新しい自由な服従を与えてくださったキリストとその福音によって歩むものなのだと。しかしそれなのにと、ペテロはその割礼とモーセの律法を強いる信徒たちに言います。
「それなのに、なぜ、今あなた方は、私たちの父祖たちも追いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」10?11節
 と。これはパウロの言葉ではありません。ペテロの言葉です。ペテロはいます。律法は父祖たちも追いきれなかったと。律法の前に完全なものなど誰もいません。自分はこれだけのことをしていると自分を誇って隣の取税人を裁いたパリサイ人は、神の国にはふさわしくないとして退けられました。ペテロは、そのように自分でも完全ではない律法を掲げ、隣人の首にそのくびきを追わせる、自分を棚上げした行為義認者について「神を試みようとしている」と断罪します。神は、その恵みと福音、神がキリストと聖霊において全てをしたし、これからもすると約束しているのに、なおも「自分が」やその「行い」にこだわるなら、それは確かに神への試みになりますし、むしろ神の100%の恵みを減ずるか、ないもの、無駄にすることになります。パウロもペテロも一貫しているのです。私たちは律法によって救われたのでも生きるのでもなく、主イエスの恵み、十字架の福音によって救われたことを私たちは信じ、あの人たち、隣人もそうなのだと。パウロはこう言います。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためいご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ2:20〜21
 キリストの死は、無意味ではありません。今も私たちの罪の闇に輝き、闇は光に打ち勝ちません。キリストの死にあって、復活にあって、恵みの福音にあって、本当の平安をいただき、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由にあって歩みましょう。